第24話 火を継ぐ者たち

夜の部屋には、深く沈んだ空気が漂っていた。

灯りは落とされ、窓の外から差し込む街灯の淡い光が、床の端を照らしている。


そこにふたり。

晃と沙耶は、何も言わずに並んで座っていた。


静寂を破ったのは、小さな震えだった。

机の上に置かれた端末が、かすかに震動し、青白い通知灯がゆっくりと点滅していた。


晃が手を伸ばす。

画面に表示された送信者の名を見て、指先が止まる。


その名は――阿久津剛


思わず、喉が鳴った。

指が、再生ボタンに触れる。


画面に映し出されたのは、灰翼の作戦服に身を包んだ阿久津だった。

だが、その顔はどこか穏やかで、決意と、諦念と、そして小さな希望が入り混じったような目をしていた。


『……これを見てるってことは、俺はもう、この世にいないってことだろうな』


静かな声だった。

だが、その一言で、胸の奥に重いものが沈んでいく。


『無事に帰るつもりだ。

 だけど……何かが引っかかってた。

 だから、こうして録ってる。

 正直に言えば、怖さもあった。

 俺がいなくなった後に何が残るのか、

 それを考えることから逃げてたかもしれない。


 でもな、晃──あの夜、

 お前が妹のために、歯を食いしばってた姿を見たとき、思ったんだよ。

 俺たちが火を灯すのをやめたら、あの子たちは、もう一度闇に呑まれるって』


『だから、これは、お前に託す、最後の火だ』


沙耶が、晃の袖をそっと掴んだ。

晃は何も言わず、ただ画面を見つめ続ける。


『お前たちは今、どんな気持ちだろう。

 絶望か、怒りか、憎しみか。それとも、自分には何もできないという無力感か。


 だけどな……お前には、まだ選べる道がある。

 怒りでも、憎しみでもない──希望を拾う道が』


『希望ってのは、誰かが運んでくるもんじゃない。

 拾って、繋いで、守っていくものだ。


 ……その火を絶やすな。頼んだぞ。


 あと、お前らのために──切り札をひとつ、残してある。

 直接言えなかったが、阿久津剛としての最後の仕事だ。

 必要なときに、使ってくれ。


 ……って、長くなったな。らしくもない。

 ま、いいか。お前らには、喋りすぎたぐらいでちょうどいいだろう』


名もない感情がそこにあった。


阿久津の声は、もう届かない。

でも、その言葉だけは、確かにここに残っている。


部屋に沈黙が戻る。

しばらくは二人とも言葉を発せなかった。


***


沈黙の中、沙耶がそっと顔を上げた。

画面の余韻を残したまま、部屋の温度が少しだけ変わる。


「……阿久津さん、あんな顔、初めて見た」


その声は、震えていた。

けれど、どこか芯のある響きだった。


晃は頷きもせず、まだ遠くを見ているような目で、ぼそりと呟いた。


「……全部、わかってたんだ。俺たちが、こうなるって」


沙耶が顔を上げた。


「……お兄ちゃん、私、ずっと守られてた」


晃は少しだけ眉をひそめ、ぽつりと応じた。


「……それは、俺が守りたかったからだよ」


その声には、悔いも、願いも、あたたかさも、すべてが滲んでいた。


「うん…でもね、

 あのフォーラムで、お兄ちゃんが責められてるのを見て、思い始めたの。

 私、変わりたいって。

 それで……さっきの阿久津さんの言葉を聞いて、思ったの」


沙耶は言葉を選ぶように息を整える。


「私も、守りたい。

 センターで見たあの子たち、灰翼のみんな……それから、お兄ちゃん」


小さな沈黙。


「私は、何もできないけど」


その言葉に、晃はふっと笑った。


「……俺もそう思ってたよ。初めてお前を助けようと思ったとき」


晃の胸に、あの壇上で感じた空気が甦る。


姫野の冷笑。

総理の抑えた声。

沈黙に支配された会場で、何も言い返せなかった自分の言葉。


そのとき、客席の中でただ一人、立ち上がろうとした沙耶の姿。

あの目が──前に出ようとしていた。

あの時の視線と、今隣にいる彼女の言葉が重なる。

晃の胸に、何か熱いものがこみ上げた。


「守られるだけじゃなくて、守りたい」

「うん…」

「……ねえ、覚えてる? あの子……矯正施設で、出してって言っていた子達」


晃は沙耶を見る。

彼女の目は、涙を含んでいた。

でも、それだけではなかった。

揺れながらも、その奥には、確かな意思のようなものが宿っていた。


「……あのとき、お兄ちゃんが言ってたよね。

 必ず迎えに行くって。

 だから、あの子たちは信じてたと思う。

 あれからずっと、心のどこかで、私も信じたかったんだと思う」


沙耶は唇をかみしめ、しばらく黙った。


「阿久津さんの言葉を聞いたら……思い出したの。

 あの子たちの声、まだ届いてないって。

 届く場所に、私たちが連れていかなきゃいけないって」


晃は、沙耶の横顔を見つめた。 前に見たときより、髪が少し伸びている気がした。

……気のせいかもしれない。


でも、それはまるで、この子が『止まっていた時間』を少しずつ取り戻しているようにも見えた。


「……髪、伸びたな」

沙耶は一瞬だけ目を丸くして、それから、静かに笑った。


「……そうかも。気づかなかった」


晃も、つられて小さく笑った。


「……一緒に行こう。お前となら、行ける気がする」


沙耶は、もう一度うなずいた。

そのまま、しばらく沈黙が流れた。

そして次の瞬間、沙耶がそっと身を寄せた。ほんの少しだけ、晃の肩に頭を預ける。 晃は動かなかった。ただ、受け止めるように息をついた。


「……怖かった。ずっと。置いていかれるんじゃないかって」

沙耶の声が、かすかに震えていた。


「でも、もう違うって思えたの。お兄ちゃんがそばにいるなら、どこへでも行けるって」


そして──ふいに沙耶は顔を上げ、晃の頬にそっと触れた。

指先がわずかに震えているのを、晃は肌で感じた。

その指からは、かすかに柑橘系の香りがした。朝に使っていたあの小さな石鹸の匂いだ。


晃が驚いて振り向いたその一瞬の隙に、沙耶の唇が、彼の唇に触れた。

それは一瞬、時が止まったようなキスだった。

頬に触れた彼女の指の温度、唇に重なった柔らかな感触、そして、わずかに湿った空気の中で胸の奥に広がっていく甘い痛み。


それは淡くて、ためらいがちで、でも確かに「想い」を含んだキスだった。

晃は一瞬、動けなかった。 沙耶がすぐに身を引き、目を伏せた。


「……ごめん。でも、どうしても伝えたかったの」

晃は、喉の奥で何かを飲み込んだ。 そして、そっと沙耶の頭に手を置いた。


「……ダメだよ。俺たちは、兄妹だから」

そう言いながらも、その手は震えていた。 沙耶はうなずいたが、その瞳の奥で何かが確かに灯っていた。ふたりの間には、もはや言葉では言い表せない距離があった。 けれど、それは確実に、前よりも近かった。


晃は、自分の胸の奥で、何かが崩れかけているのを感じていた。

それは『兄』として守らなければならないという責任と、 それでも彼女の手を離したくないという、もっと根源的な衝動。


どちらが正しいのかなんて、今はわからない。

けれどひとつだけ、確かにわかることがある。


――この手を、もう二度と、置いていくわけにはいかない。


気がつけば、窓の外に朝焼けの光が滲んでいた。

夜の静寂が、ゆっくりと淡い朱に溶けていく。

そしてふたりは、朝焼けの光に背を押されるように、静かに立ち上がった。


そのとき、玄関のドアの隙間から、わずかな気配がした。

晃が扉を開けると、廊下には誰の姿もなかった。

足元に、封筒が一枚落ちている。


晃はそれを拾い上げ、中の紙を広げた。


封筒の中には、紙が一枚だけ入っていた。


──たった一行。

「白の裂界に、全ての真実がある」


差出人の記名はなかった。

けれど晃は、すぐに思い当たる顔を浮かべた。


「白の裂界」


──その言葉を、晃は初めて『目にした』。


……けれど、どこかで聞いたことがある気がした。


***


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