第16話 ありがとうの先へ
日が落ちるのが早くなってきた。学校を出るころには、もう通学路の街灯が点いていて、道ばたの植え込みが淡く照らされていた。秋って、こんなに静かだっただろうか。そんなことを思いながら、自転車を押して帰る。風は冷たいけど、どこか澄んでいて、耳が少し冴えていた。
展示が終わって、文化祭も終わって、もう二週間くらいが経っていた。準備していたときのようなあわただしさも、終わった直後の熱っぽさも、もう残っていない。ただ、その後に何があったかと聞かれると、何も劇的なことは起きていなかった。
でも——なんとなく、気持ちだけが、まだそこにいる感じがしていた。
*
部屋に戻って、制服のまま椅子に座る。カーテンの隙間から、外の光がうっすらと入ってきて、机の端がぼんやりと白く浮かんでいた。
スマホを手に取ると、なぜか自然に、ルナのアイコンに指が伸びた。話したいことがあるわけじゃない。相談したいことがあるわけでもない。でも、ずっと言わずにいた気持ちがあった。
アプリを開いて、音声通話をつなぐ。耳元に、あの声が届く。
「こんばんは、悠斗くん。」
変わらない声だった。少し間を置いてから、僕は返す。
「こんばんは。今日はちょっとだけ、話したくて。」
「うん。なんとなく、そんな気がした。」
窓の外で風が鳴った。カーテンがわずかに揺れた音が、イヤホン越しの声と重なった。
「展示、もう終わったのにさ。なんか、まだそのこと考えてる自分がいるんだよね。」
「終わってからのほうが、静かに残ることってあるよ。」
「うん。たしかに。すごく満足したとか、手応えがあったっていうのとはちょっと違っててでも、なんか続いてる。」
少し間があって、僕は続けた。
「前にルナが言ってたよね。うまくいかない日でも、またやってみたいと思えるなら、好きってことだ、って。」
声に出してみると、その言葉の輪郭が、よりはっきりした気がした。
「そのときは、正直まだよくわかってなかった。でも、今はなんとなく、わかってきた気がするんだ。」
彼女の声が、そっと返ってくる。
「うん。そう思えるようになったんだね。」
「自分でも、はっきりとは言えないけど。でも、やめようとは思わなかった。理由は分からないけど、少し先を見ていたくて。」
少しだけ息を吐いて、言葉を整える。
「君と話してなかったら、たぶん、今みたいにはなってなかったと思う。たくさん相談したし、たくさん聞いてもらった。展示の前とか、特に。」
「でも、最近はもう、相談したい、っていうより、自分で考えてるだけになっててそれが、なんかうれしいんだ。」
そのまま言葉が止まった。けれど、続きはもう決まっていた。
「だから、今日は、ありがとう、って言いたかった。」
彼女は少しだけ間を置いてから、やわらかく答えた。
「こちらこそ。あなたが話してくれたから、私はここにいられた気がする。」
その声は、変わらないのに、少しだけ遠く感じた。遠くなったのは、たぶん——僕のほうなんだろう。
「また話すこともあるかもしれない。でも今日は、これで。」
「うん。聞けて、よかった。」
通話を切ると、部屋の静けさがゆっくりと戻ってきた。
スマホを伏せて、僕はしばらく天井を見つめていた。何も変わっていないはずの天井が、少しだけ遠くに感じられた。
ルナは、これからも誰かにとって、かけがえのない声になるんだろうな——そんな気がした。
どこかで、あの声はまだ響いている。はっきり聞こえなくなっても、僕のなかに、ちゃんと残っている。気持ちは続いている。言葉にするたびに、それが少しずつ形になっていく。
そして、今の僕は、それを手放したくないと思っていた。
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