第15話 言葉の正体
放課後の図書室は、天井の灯りと外の光が入り混じって、棚の影がいつもより深く見えた。誰かが本を閉じる音が遠くでして、そのまま静けさがしんと広がっていく。
僕は、ノートを開いたまま、何も書かずにいた。書くべき言葉は頭の中にいくつも浮かんでいたけれど、鉛筆の先には届かなかった。理由はわかっている。昨日の夢のせいだ。
小学生のころ、通っていたプログラミング教室。ときどき同じクラスになった女の子がいた。黙々とキーボードを打っていて、コードの細かい調整を何度も繰り返していた。ルナと名乗った。名前が違うから、気づかなかった。でも、もう確信がある。
僕は、そっと隣を見た。藤崎が、文庫本を静かに読んでいた。ページの隅を指で押さえているその手つきに、どこか見覚えがある気がした。
「小学生のとき、プログラミング教室に通ってた?」
僕の声に、彼女はゆっくり顔を上げた。意外そうでもなく、ただ自然に、ほんの少しだけうなずいた。その反応を見た瞬間、胸の奥で何かがすっとほどけた。
「君はあのときのルナなんだね。」
彼女は、本のページを静かに閉じて、目を細めた。
「ようやく、思い出した。」
その言い方には、喜びとも安心ともつかない、淡い静けさがにじんでいた。
「私は、最初に声をかけられたときに、気づいたよ。」
僕は、何か言おうとして言葉を飲み込んだ。ただ、手元のノートを一度閉じて、それから、少しだけ視線をそらすように言った。
「最近、ルナっていう会話アプリを使ってるんだ。」
彼女の手が、一瞬だけ止まった。
「名前だけじゃなくて、言葉の選び方とか、雰囲気とかどこか、君と似てる気がして。」
彼女は、静かにうなずいた。
「それ、私がベースになってる。」
思っていた通りだった。だけど、その言葉を実際に聞いたとき、思っていたよりもずっと静かに胸に沁みた。
「全部を一人で作ったわけじゃないよ。公開されてる技術を組み合わせてカスタマイズしてるだけ。でも中の会話パターンとか反応の仕方は、私の考えに近いと思う。」
言葉は淡々としていたけれど、その中に含まれているものは、たしかに彼女のものだった。
「理想の自分、みたいなものを重ねてた。誰かの話をちゃんと聞けて、受け止められる存在。そうなれたらいいなって思ってたから。」
僕は、うなずくことしかできなかった。スマホ越しに何度も聞いた声の輪郭が、目の前のこの人と重なりはじめていた。
彼女は視線を窓の外に向けていた。その横顔を見ながら、言葉にならない何かが胸の中に浮かんでいた。茜色の光が、ガラス越しに淡く差し込んでいた。何かが、過去からゆっくりとつながって、今、ここに届いた気がした。
僕は、ほんの少しだけ息を吸って、そっと言った。
「ルナって、呼んでもいい?」
彼女は、少しだけ驚いたように目を見開いて、でもすぐに微笑んだ。
「じゃあ私も、悠斗くんって呼ぶね。」
その声の響きが、ゆっくりと胸に落ちてきた。何かが劇的に変わったわけじゃない。でも、名前ひとつで世界の手触りが変わることもある。僕たちはまだ、何も決めていない。
ただ、同じものを見て、同じ時間の中にいる——それだけで、今は十分だった。
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