どこにもいない君が、いつもそばにいた

@takugon

第1話 高校生活の始まり

 春の風が、制服の襟をくすぐっていった。

 校門の向こうでは、同じ制服を着た新入生たちが、まだどこか所在なさげに掲示板を見上げたり、足元を見つめたりしている。僕もその中の一人として、名簿を目で追った。

 ——一年B組。

 その文字を見つけたとき、胸の奥にあったわずかな緊張が、ほんの少しだけほどけた。知らない場所で、自分の名前がちゃんとある。ただそれだけなのに、呼吸が深くなった。

 教室の扉を開けると、半分ほどの席がすでに埋まっていた。誰もがまだ言葉を交わす前の、ぎこちない視線のやりとりをしている。僕は窓際の席に向かい、腰を下ろした。隣の机には、もう鞄が置かれていた。

 やがて担任が入ってきて、自己紹介が始まる。名前と一言だけ。でも、それだけなのに、話す内容は人それぞれで、出身中学や部活、好きな食べ物までさまざまだった。緊張して早口になる人、声が震える人、何も言えずすぐ座ってしまう人。でもその一声一声が、少しずつ教室の空気をやわらげていた。

 僕の番がきた。

「村田悠斗です。北陽中から来ました。よろしくお願いします。」

 思ったより、まっすぐに声が出た。席に戻ると、隣の男子がちらりとこちらを見て、小さくうなずいた。

 それから数人後、ひときわ静かな声が教室に響いた。

「藤崎月乃です。よろしくお願いします。」

 感情の起伏を抑えたような、でもまっすぐな声だった。必要以上に何かを伝えようとはせず、ただその一言だけを丁寧に置いたような響きが、耳に残った。

 彼女は席に戻るとすぐ、ノートを開き、ペンを走らせ始めた。まわりの空気とは少しだけ違うテンポで動いているように見えた。

 チャイムが鳴って、休み時間になる。隣の男子が話しかけてきた。

「北陽中って、バスケ強かったとこだよな? なんか見たことある気がする。」

 言われてみれば、どこかで見たような気もした。名前は西山翔太。南ヶ丘中から来たらしい。試合か何かで対戦したのかもしれない。

 翔太でいいよ、と笑ったので、悠斗で、と返した。たったそれだけのやりとりだったけど、教室に入ってから張りつめていたものが、少しだけほどけた気がした。

 ふと横を見ると、藤崎は相変わらずノートにペンを走らせていた。覗くつもりはなかった。でも、自然と視線がそちらに吸い寄せられる。

 括弧や英字、図のような線が並び、一目でプログラムだとわかった。関数、分岐、繰り返し。内容の難しさよりも、迷いのない筆の動きに目を奪われた。

 考えることと書くことが、地続きになっているように見えた。

 気がつけば、声が出ていた。

「それ、プログラム?」

 彼女は顔を上げた。驚いた様子はなく、まっすぐこちらを見て、小さくうなずいた。

「うん。」

 その一言が、静かで、でも芯のある響きだった。

「パソコン、使えないから?」

「うん。出せないときは、ノートに書いてる。」

「整理用、みたいな感じ?」

 一度ノートに視線を戻してから、彼女は少しだけ言葉を継いだ。

「考え始めると止まらなくて。たぶん、好きだから、なのかも。」

 好きという言葉が、胸の奥をかすめた。なぜだか、それだけが残った。

 僕には、まだそう言えるものがない。やってみても、続ける前に理由を見失ってしまう。だからかもしれない。彼女の静けさが、妙に気になった。

 言うつもりじゃない言葉が、自然とこぼれていた。

「ちゃんと、自分の場所にいる感じがする。」

 一瞬だけ、彼女がこちらを見た。その目の奥で、何かがわずかに揺れた気がした。でも、言葉は返ってこなかった。彼女はまたノートに目を落とす。

 ペンが、再び動き出す。その動きが、さっきよりほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。

 教室のざわめきの中で、紙を擦る音が静かに響いていた。それだけが、なぜかくっきりと耳に残っていた。

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