第5話
あの夜の記憶は、今は霧がかかったようにぼんやりとしている。
雨が降っていた。
アスファルトの濡れた匂いだけが、今も記憶にこびりついている。
バンドの練習で地下のスタジオに入っていた俺は、携帯の着信にもメールにも全く気が付いていなかった。電源を入れた後で流れてくる、夥しいほどの着信通知。
それを見たとき、何だか不吉な予感はしていた。
雨の音が、遠くなった。
最初に連絡がついたサクさんに言われるがまま、伝えられた病院へと向かう。
タクシーを捕まえて急いだけれど、兄貴はもう息を引き取った後だった。
「大介!大介!!」
冷え切った霊安室。
サクさんの取り乱した叫び声。
胸が切り刻まれていくようなあんな声を、俺は初めて聞いた。
他のメンバーも続々駆けつけ、兄貴の冷たくなった身体を囲んだ。
みんな泣いていた。大の男達が声を出して泣いていた。
でも、俺は泣けなかった。
そこに取り残されたみたいだった。
そこにいた一番の身内は、俺だったのに。
最終の飛行機で飛んできた両親も、最初は何もわかっていないような感じだった。
それも当然のことだ。あまりに突然のことだったからだ。
だが兄貴の真っ白な顔を見た途端、母はショックのあまり倒れこんでしまった。
父は静かに涙を流しながら、小さく震えていた。
あの夜のことは、思い出したくはない。
だけどあの時、兄貴の身体にしがみつきながら、サクさんはこう言ったんだ。
「大介…ごめん…ごめん…」
後日行われた兄貴の葬儀には、本当にたくさんの人が集まった。
服装は喪服だが金やら銀やらピンクやらのカラフルな髪形の人で溢れていて、兄貴に添える花束みたいだな、なんてぼんやりとした頭で考えていた。
兄貴は繊細で優しい性格で、誘われると断れない性格でもあった。
だからなのか兄貴は顔も広く、いろんな人に好かれていたし頼りにされていた。
そのギターの腕から、サポートやコーチをお願いされることも多かったらしい。
大介は本当にいいやつだった。
俺が悩んでいるとき夜中でも家までかけつけてくれた。
よく朝まで飲み明かした。大介はとてもお酒が強かった。
時にハメを外して飲みすぎて、目覚めたら公園のすべり台の上だった。
いろいろなエピソードが、俺の上をから滑りしていった。
俺の知らない兄貴が、そこにいた。
兄貴と俺は、年が7つ離れていたせいか、兄弟なのにそこまで仲良くつるむようなことはなかった。それは俺が上京してからも同じだった。
もちろん必要があれば連絡は取り合うし、二人でご飯に行くこともあったが、兄貴の家に出入りしたことは一度もなかったし、兄貴の恋愛事情なんかも知らない。
一度だけ、当時の彼女を兄貴に会わせたことはある。
彼女が兄貴のバンドのファンだったからだ。
兄貴は嫌な顔せず会ってくれ、サインまで書いて彼女を喜ばせた。
無論、その子とはすぐに別れてしまったのだけれど。
輪から外れて外に出る。煙草に火をつけると、肩の力が抜けるようだった。
あの後、発見時の状況等から、兄貴の死因はアルコールと睡眠薬の過剰摂取が原因であることがわかった。兄貴の部屋のテーブルの上に、量のアルコールの空き缶と処方された大量の睡眠薬のシートが散乱していたらしい。
睡眠薬は、病院から処方されたものだった。
おそらく自殺だろう、そう言われた。
自殺でもない限り、そんな飲み方をする人はいないからと。確かにそうだと思った。それが危ないことだというのは俺だって知っている。
少し前に、同じ死因で亡くなった先輩がいた。
その先輩もバンドマンで、バンドの解散後、進むべき道がわからなくなり迷っているという噂は度々耳にしていたため、亡くなったと聞いた時はみんな、あいつ悩んでたもんな、と納得し、悲しみ、後悔していた。その中の一人が兄貴だった。
兄貴は誰より、それが危険なことだと知っていたはずだったのだ。
背後に気配がして振り返ると、見慣れた金髪が見えた。ここ数日ですっかり痩せているようで、元々細い体が冬の枝のように見えた。
サクさんは何も言わず、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。甘い煙の香りが漂う。
「兄貴を最初に見つけてくれたのは、サクさんなんですよね」
声をかけると、サクさんは遠くを見つめた後で、弱々しく頷いた。そのまま俯いて動かない。壊れた人形のようだった。
「サクさんが兄貴の部屋に行った時、兄貴はまだ息があったんですよね。兄貴と…何か話しましたか」
サクさんは脱力したまま、首を横に振る。
目の前で最後の言葉も交わさぬまま、兄貴は命の灯火を消してしまったのか。自らの手で。
きっとこの場にいる中で一番憔悴しているのはサクさんだろうと思う。両親もかなりのショックは受けているが、葬儀や弔問客の対応で今はそれどころでは無いのだろう。
ステージ上でデスボイスを吐き散らしながら暴れ狂うサクさんの面影はひとつもなかった。ただ虚ろな瞳で、付けたはずの煙草の灰がぽとりと地面に落ちた。静かに、静かに。赤みを帯びた灰が地面に解けて黒くなっていくのを、ずっと眺めていた。
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