【三題噺】水中にて、眠る
本日の三題:水中、煎餅布団、眠る
ジャンル:歴史群像劇
嘉永六年の秋、江戸の町を抜ける風は、いつもより冷たかった。
長屋の隅、四畳半一間の部屋に、三人の男が眠っていた。
ひとりは職人崩れの文吉。ひとりは道場を畳んだ浪人の左馬之助。 そしてもうひとりは、かつて「世直しの旗印」と持て囃された、元・町人一揆の頭目、政五郎。
今は皆、行き場のない者同士で身を寄せ合い、文字通り煎餅布団一枚の上に、頭を並べて眠っている。
「……文吉、まだ起きてるのか?」
左馬之助の声が闇の中から響いた。
「さっきからごろごろと……まるでうなぎじゃ」
「寒いんですよ。先生はいつも真ん中でぬくぬくしてるから分からんのです」
布団の下で、くすくすと笑い声がした。
「政五郎さんまで笑わないでくださいよ」
「いや、いや。寒さと貧乏だけは分かち合ってこそ意味があるってな」
三人はまた静かになった。遠くから木戸を閉める音がする。犬の遠吠え。風が瓦を叩く。
「……俺はさ」
政五郎がぽつりと口を開いた。
「また江戸が燃える夢を見たよ。火の海の中、皆が逃げてる。けど俺だけ……」
声が途切れた。
それを左馬之助が継いだ。
「水の中にいる。だろう?」
静かに、頷く気配。
「不思議なもんでな。俺も、同じ夢を見るんだ。火が空を焼いて、それがやがて水になって、気づけば、水中に沈んでいる」
文吉も、黙って耳を澄ませていた。
誰もがなにかを捨ててきた。時代が少しずつ動いている。その隙間で、取り残された男たちの吐息が、闇に溶けていく。
「眠れねえなら、唄でも唄うか」
政五郎が冗談めかして言うと、文吉が寝返りを打った。
「唄じゃ、腹は膨れませんぜ」
「なら、夢でも見ようや。水の底で、魚になった夢でも」
誰かが、笑った。
江戸の夜は長い。だが、彼らは眠ることをやめなかった。
夢の中だけは、自分の生をまだ信じられたから。
翌朝、薄い光が障子の隙間から差し込む。
文吉が目を覚ますと、隣で政五郎が静かに寝息を立てていた。
その顔には、確かに微笑が浮かんでいた。
まるで、水の中で、やっと安らぎを見つけた魚のように。
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