【三題噺】水面の底に沈んだ言葉

本日の三題:湖、プロポーズ、禁じられた主従関係


 水の音が、静かに響いている。

 湖のほとり、草と木々に囲まれた古びた桟橋の上に、ふたりは並んで座っていた。

 夕暮れが、湖面を金色に染めている。空の色と水の色の境界が曖昧になって、世界がひとつの色でできているようにさえ見えた。

 沈黙は、やさしく、しかし重かった。

「ここに来るのは、久しぶりですね」

 彼女が先に口を開いた。いつもと変わらない、穏やかな声。

 主としての顔ではなく、従者である自分を、ただの“ひとりの人間”として見てくれるときの声だった。

「昔はよく、こうして釣りをしましたね。陛下は魚がまったく釣れなくて、いつも悔しがって……」

「うん、覚えてるよ」

 短く返事をした。

 それだけで精一杯だった。

 彼女の隣に座るのは、今日で最後になるとわかっていた。

「湖の色って、不思議ですね。夕陽が落ちると、一気に深くなる。まるで底に引き込まれるみたい」

「君は昔から、変なところで詩人になるよね」

「褒め言葉として、受け取っておきます」

 彼女がふっと笑う。その笑みを見るたび、心が痛む。

 その人は、臣下だった。幼いころから自分の傍にいて、剣を、学問を、礼儀作法を教えてくれた。時には兄のように、時には姉のように、時には友のように。

 そして、恋人にはなれなかった。

 王である自分と、従者である彼女。その関係に名を与えることは、国法によって「禁じられていた」。

 理由はわかっている。情と権力が交差すれば、血が流れる。歴史が証明している。だから、許されない。

 でも——

「私が、辞めたらどうなりますか」

 彼女の言葉に、はっと顔を上げる。

 視線は合わなかった。彼女はまっすぐ湖面を見ていた。

「従者という身分を捨てて、ただのひとりの女として陛下の傍にいることは……できないでしょうか」

 答えは、ずっと前から知っている。

「……できない。君が“何者か”である限り、周囲はそれを放っておかない」

「ええ、分かっています。……でも、言ってみたかった」

 彼女が膝の上で手を組み、そっと何かを握りしめるようにしていた。

「昔、湖の底に願いを沈めると叶うって、言いましたよね」

「言った。……僕が」

「覚えてくれていたんですね」

 彼女が小さな箱を取り出した。木でできた、手のひらサイズの箱。  開けると、中には銀の指輪が一つだけ入っていた。

「贈るつもりでした。今日、この場所で」

 言葉が出なかった。

 彼女はそれを、そっと水面に浮かべた。指輪はしばらく、湖の上で静かに揺れていた。

「私からは、もう言いません」

 風が吹いた。水面がわずかに波立ち、指輪が音もなく沈んでいく。

「……でも、陛下が言ってくだされば。今ここで、“あなた”として」

 彼女は、初めてこちらを見た。

 その目に、涙はなかった。ただ、まっすぐに、揺れのない光があった。

 何も言えなかった。

 言えば、壊れる。言わなければ、失う。

 けれど、自分が王であることを選んだのは、自分だ。

 彼女は頷いた。

 そして、立ち上がった。

「戻りましょう。もう、寒くなってきました」

 桟橋の端まで歩いた彼女が、ふと振り返る。

「……来年も、桜は咲くでしょうか」

 声は、やわらかかった。

 彼女の背中が、森に消えていくまで、僕は何も言えなかった。

 湖の水は、静かに揺れている。

 その底に沈んだ指輪の光が、夕陽にきらりと反射した気がした。


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