第12話 お茶とおにぎり

「……ん?」



部屋の静けさの中で、野獣先輩がふいに顔を上げ、

壁のアナログ時計に目をやった。



時刻は12時5分。


 

「昼だ。いったん解散、1時にまたここに集合だ」



その一言で、場の空気がふっとほどける。


上野先輩が大きく伸びをして、「笑い疲れた~」と気だるげに呟く。


朝日先輩はよほどお腹が空いていたのだろう、足早に部屋から出て行った。


太田先輩と一緒に、資料やメモを片付けていく中――



「おーい、野獣」



部屋の外から、いかにも偉そうな声が飛んできた。

部長だ。


見慣れたスーツ姿、油ぎった額、そして背中に漂う働く男の哀愁。



野獣先輩は応えるように軽く手を挙げると、

自分のデスクがあるオフィスに戻り、黄色い何かを手に戻って来た。



――バナナ。



今日も、それだった。



野獣先輩はそのまま、スーツの胸ポケットからナイフを取り出し、

バナナの皮をスパッと切り裂いた。


あたかもバナナが主食であるかのように。



バナナを咀嚼しながら部長と何やら真面目な話を始める野獣先輩を横目に、

俺はとりあえず食堂へと足を運ぶことにした。



――が、途中で声をかけられた。



「おーい、新人くん!」



その声には妙に軽快な響きがあった。

振り返ると、朝日先輩が手提げ袋をぶら下げながら小走りで近づいてくる。



「お昼、ちょっと多めに買っちゃってさ。良かったら、一緒にどう?」



えっ、あ、はい、と俺は口をパクパクさせることしかできなかった。


朝日先輩からランチに誘われるとは思わなかったし、

先輩の言葉にどう反応するべきなのかまだよくわかっていない。



「……えっと、どこで食べます?」



「会社から出たところにあるベンチなら人もいないし、ゆっくり話せるっしょ?」



……話す?

なにを? 俺と? ランチしながら? ゆっくり?



脳内で赤信号が点滅しそうだったが、もう断るタイミングを逃していた。



 

木漏れ日がちらちらと、

ベンチの背もたれにリズミカルな模様を描いている。



社屋の裏手にある、小さな公園のような空間。

風は柔らかく、葉がささやく音と、遠くで鳴く鳥の声が、

なんとも言えない昼のゆるさを醸していた。



「ほい、これ。コンビニのだけど」



朝日先輩がビニール袋をガサガサ言わせながら、

中から取り出したのは――ツナマヨと梅のおにぎり。それと、ペットボトルの緑茶。



「サンドイッチもあるけど、どうする?」



「あ、いや、そっちで大丈夫です。ありがとうございます」



俺は慌ててお礼を言いつつ、おにぎりとお茶を受け取る。

そして、気付いたように言葉を足す。



「あとで、お金、お支払いしますんで」



「いや、それは俺のおごりってことで」



にっこりと笑って朝日先輩が言う。



うわ、この人、できすぎでは……と一瞬戸惑うが、

断るのもかえって失礼な気がして、俺は素直にこう返した。



「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきます」



包装を破って、ツナマヨを一口。うん、塩気が昼の空腹に染みる。



「……でさ」



サンドイッチを頬張りながら、朝日先輩がふいに言った。



「小鹿君はなんでこの会社、選んだの?」



ん、と一瞬詰まりかけたご飯を飲み込む。



質問のタイミングが予想より柔らかくて、俺はむしろ構え損ねた感じだった。



「えっと……実は、あんまり深い理由ってなくて」



「ふむふむ?」



「営業とか、向いてる気しなかったし……

商品開発の仕事って、なんか、こう――かっこいいなって思ってて。

それで、説明会で“若手も活躍できる”って聞いて、あ、いいかも、って」



「うんうん」



朝日先輩は、うなずきながら、どこか楽しげに俺の話を聞いていた。



「あと……」


 

俺はつい、口にしていた。



「ちょっとでも、自分にしかできないことを見つけたいな、

って思ったんです。なんか、漠然とですけど」



「……へえ。意外と、しっかりしてるんだね~、小鹿くん」



「えっ、そうですか?」


 

「うん。もっとこう、テキトーに流されて入ってきた感じかと思ってた」



「そう、見えますかね?」


「ま、新入社員はみんなそんな感じに見られちゃうから仕方ない。

野獣先輩みたいに熱血な新入社員だったら話は別だけどね」


「野獣先輩は昔からあんな感じだったんですか?」


「うん、俺が今の会社に入ったのが5年前だから

その前は知らないけど、昔からあんな感じだったよ」


「そうなんですね」



ツナマヨおにぎりを食べ終え、

梅のおにぎりに手を伸ばそうとしたその時だった。



「ごめん、小鹿くん」



突然、落ち着いた声が頭上から降ってきた。

視線を上げると、スーツの襟を片手で直す上野先輩が立っていた。



「朝日、ちょっと借りる」



「へ?」



呆けた顔の朝日先輩の腕を、上野先輩がなんのためらいもなく掴んで引っ張る。



「ちょっ、ちょっと待て!借りるって俺は物じゃない!」



朝日先輩が慌てて言うも、上野先輩は全く気にする様子もなく、

そのまま力強く歩き出した。


朝日先輩の文句も、軽やかな足音にかき消されていく。



そして、俺の目の前にはおにぎりとお茶と……なんとも言えない、

静まり返った空気だけが残された。



――なんだったんだ、あれ。



ポカンとしていると、今度は背後から気配がした。

振り向くと、あの人がいた。



「ここ、いいか?」



それだけ言って、野獣先輩が俺の隣にドスンと腰を下ろす。



その衝撃で野獣先輩のスーツの内ポケットから、おなじみのバナナがぬっと現れた。




「……先輩、昼、バナナだけなんですか?」



「そうだ」



バナナの皮を剥きながら、野獣先輩が当然のように答える。



「炭水化物、ビタミン、ミネラル。すべてが詰まっている。最強の食品だ」



真面目な顔でそう言われると、なぜか否定しづらい。



「……そ、そうですか」



俺は梅おにぎりに視線を戻しながら、口元に運ぶ。

さっきまで感じていた静かな空気が、ほんの少し変わる。

けれど、不思議と悪い感じではなかった。



「小鹿。お前、プロジェクトのこと、不安か?」



突然の質問に、俺はおにぎりを食べる手を止めて、ちらと野獣先輩の横顔を見た。



「……はい。正直、まったく自信ないです」



「それでいい」



「え?」



「自信がある奴ほど、ミスをする。お前みたいに不安な奴の方が、

慎重に動ける。だから、俺はお前を選んだ」



バナナをかじりながら、野獣先輩はいつになく真剣な眼差しを空に向けた。



 ――なんだろう、この人。やっぱり、どこか普通じゃない。



けれど、根っこのところにある信念みたいなものは、

なんとなく伝わってきて、俺はそれに少しだけ心を預けたくなった。



「先輩の期待に応えられるよう、頑張ります」



そう呟いて、梅おにぎりを食べる。



そして、昼の残り時間が、静かに流れていった。

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