第112話 春日の思い

 5回裏、俺――9番の打席から攻撃が始まる。


 ベンチで立ち上がると、アルプス席の応援歌が一段と大きくなった。観客席に並ぶ応援団の黄色いメガホンが波打つように揺れ、ライトスタンドの旗が風に翻る。


 空は真夏の太陽に焼かれていて、金属バットを握る手がじわりと熱を帯びた。


 ――ここまで、全然打てていない。キャッチャーとしても佐野先輩みたいに風間を引き立てられていない。


 自分の不甲斐なさを噛みしめる。だけど、ここで下を向いても何も変わらない。


 ――せめて一度、形を残す。風間がゼロを刻んでくれたんだ。今度は俺の番だ。


「春日、粘っていけよ!」


 ベンチから佐野先輩の声が飛ぶ。


 俺は振り返って小さく頷いた。「任せてください、絶対に出ます。」


 ネクストサークルで素振りを繰り返し、スパイクの底で打席の土を均す。


 ――観客のざわめきが、遠くで波の音みたいに鳴ってる。


 マウンドの相手投手と視線がぶつかった瞬間、心臓が跳ねた。


 でも、逃げない。俺はバットを肩の上に静かに構えた。


 初球、外角低めの速球。


 ――見送る。ストライク。


 カウントが告げられる声が、やけに重く響いた。


 二球目。内角にぐっと食い込む速球。


 体をひねり、必死にファウル。バットの芯を外れた衝撃が手のひらを痺れさせる。


 ――追い込まれた。でも、ここからだ。


 観客席から「頑張れ春日!」の声援が飛ぶ。どこかで親父の声も混じっているような気がした。


 ――打てるかどうかじゃない。意地でも、繋ぐんだ。


 三球目、外角スライダーを見送ってボール。


 四球目、真ん中速球をファウル。


 風間がベンチから「いいぞ、食らいつけ!」と叫ぶ。


 五球目、外角の低いスプリットをギリギリまで引きつけてまたファウル。


 体中から汗が流れるのを感じる。呼吸が荒い。でも、不思議と怖さはなかった。


 ――もう一球来い。絶対に仕留める。


 七球目。外角寄り、甘いコースに入ってきたストレート。


 バットが自然と出た。


 カキィン!


 金属音がスタンドに高く響く。


 打球は低い弾道でライト線へ――抜けた!


 「おおおおおっ!」スタンドが爆発したように沸く。


 俺は全力で一塁を駆け抜ける。視界の端でライトが必死にボールを追うのが見えた。


 ――いける、二塁までいける!


 スパイクが土を蹴り、汗が頬を伝う。


 頭から二塁へ滑り込む。


 「セーフ!」審判の声。


 土の冷たさが火照った体を少しだけ冷やした。


 歓声が渦のように巻き起こる中、俺はベース上で拳を握った。


 ベンチを振り返ると、佐野先輩が満面の笑みで親指を立てていた。


 ――やっと、チームに貢献できた。


 胸の奥にあった重いものが少しだけほどけていく。


「猫宮先輩、絶対返してくださいよ!」


 俺が叫ぶと、ネクストサークルに立つ猫宮先輩が「任せとけ」と笑って頷いた。


 ――これが、俺にできること。風間の勝利を引き寄せるために、繋ぐ。


 次の一打を信じ、俺は二塁ベースの上で深呼吸した。

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