第3話

「ん…ぁ」

目を開ければ視界には青が広がっていた。雲一つ無いその空はとても綺麗だった。太陽も眩しいとは思わずに、心地よい明るさと思えてまさに天国のような場所だった。

「あ、起きた?」

「んぁ…むにゃぁ…」

目が開いても眠気が覚めた訳ではなく、再び夢の世界へ——。

「はい」

「……んんんん!!」

夢の世界への入場を拒否したのは、口の中に広がる酸味だった。口を刺激する酸味は、耳の下を痛くして、体験したことのない酸っぱさに律花は飛び起きる。そして辺りを見渡し、

「ここ、どこ?」

一面の水面と帽子を被った少年がスプーンを持ってこちらを見ている。ただ、それだけの景色が律花の視界の全てだった。その異様な光景に少し困惑しながらも、自分の異変に気づいた。

「ふ、服は…」

「あ、ごめんごめん」

水の上に寝ていたと云うのに、濡れていないのかと体を見ると、薄い下着一枚で居ることがわかり、急いでその場にしゃがんだ。

「裸、むりぃ」

顔を赤らめる律花にごめんごめんと謝りながら白い服を渡す少年。異様すぎる状況に再び律花は困惑した。

服を着た律花はヨシっと勢いよく立ち上がり、少年に視線を向ける。白い帽子を被って、白い服を着ている、全身真っ白の少年だ。肝心な顔は帽子で隠れて完全には見えない。身長はそこまで高くないが、律花を見下ろせる程度はある。

「此処は、どこなのか。そう思わないかい?」

すると突然少年は律花に聞いてきた。

「うん。此処ってどこなの?」

素直に答える律花。実際、律花も此処に居ることに気づいてからずっと疑問だった。此処に来て怖い『夢』を見たり、気づいたら裸だったりと不可解な事はいくらでも出てくる。どうして此処に居るのか経緯を知りたい訳だが、何故か律花の中では知りたくないとも思っていた。そんな不思議な感覚が律花を柔らかい布のようなものが覆っている。

「まぁそうだよね」

すると、少年は帽子を勢いよく取って投げた。遠くへ飛んでいった帽子は水面に着地するが、水が跳ねることも、音がすることも無く、挙句の果てには波紋すら立たない。不思議な現象を目の前にした律花だが、それよりも目が行ったのは少年の方だった。

帽子が外れ、少年の顔が光に照らされた。

白い髪に白い肌。病弱とは違う白さを持った少年は律花に向かってニコッとして、自分の青い目を光らせた。

その少年は白を体現するような少年だった。全身白。髪も肌も白。不思議な少年と云うのが律花の素直な感想だ。だが、どこか綺麗な少年でもあった。高貴な家の子のような上品さを感じられ、思わず見惚れてしまうような。そんな少年だ。それも含め不思議な少年なのだ。

「じゃあまず此処…の前にどこだと思う?」

「えーそんなの分からないよー」

「あはは、それもそうか。じゃあ言ってあげるよ此処はね——『地獄』さ」

「地獄…?」

その言葉に疑問を持ったのは、その言葉を知らないからではない。むしろ逆で地獄を知っているからこその反応だった。地獄は律花にとって危険で怖い場所だった。だが、今いる此処はそんな危険や怖いとはかけ離れている場所だ。立っていても辛くないし、熱くだってない。死にたいとも思わないし、痛くだってない。それに——、

「地獄って死んだ人じゃないといけないんじゃないの?」

律花の地獄で知っている知識、それは地獄は悪い事をした人が行く場所であるが、行ってしまうのは生前悪いことをした人。つまりは死人しか行けないはずなのだ。今の律花は生きている。だから地獄なんていけるはずが——、

「死んでるじゃん」

「え…」

「君は、皐月律花は死んだのです。短い人生でしたがお疲れ様でした。だから、地獄に行こうが天国に行こうが『死』と云う絶対条件は揃っているんだよ」

「あたしが死んでるって…どういうこと?ほら見てよあたしジャンプできるよ!」

その少年の言葉に動揺が隠しきれず、必死に生きていることをアピールした。ジャンプをして見せたり、

「ほら手だって叩ける」

手を叩いて見せたり、

「ほら、君に触れる」

少年の触れたり。

律花の考えつく限りの事をやってみせる。でも、それでも少年は納得したような目はせずに、律花を憐れむように見ていた。それが律花にとって絶望で、悲しかった。だが、実感は湧かなかった。胸に手を当てれば心臓の音が聞こえるし、ちゃんと息だってしている。それなのに死んだなんて言われても納得できるはずがないのだ。

「なんで死んだの…」

疑問。それは今考えうる限りの中で一番知りたい事だった。仮にもし自分が死んだのならば、それはどうやって死んだのか。それすら聞かされていないのに、いきなり死にましたなんて言われても、納得できる訳がない。

「それはね、交通事故だよ」

「交通事故…?」

その言葉に律花は首をかしげる。

「そう。交通事故。君はトラックに轢かれたんだよ」

思い出してみようと、必死に頭を回転させるが、そんな記憶どこにもなかった。

「花。これでどうかな」

「——ッ!?」

花。花。花。花。体をその言葉が一瞬にして律花の身体中を駆け巡り、一秒にも満たない刹那の時間でその言葉は律花の小さい体を犯した。そして——、

「思い出した?」

ポロポロと涙を流しながら俯く少女に少年は優しく声を掛けた。


——それは唐突な事だった。


「おはな。おはな、お花―!」

律花はウキウキで目的の花までスキップで進んでいた。だが、隣にいつもいるはずの母親の姿は無い。辺りもまだ薄暗く、到底、律花のような幼い子供が一人で歩くなんて誰も思わない。

「おっはな、おっはな、お花―!」

声を高らかに、お花しか歌詞がない自分で作曲した曲を歌っていた。手には水の入ったペットボトルが。それもいつもの小さいやつとは違い、今日は大きいペットボトルだった。「お花、お花、お花——はッ」

——キィィィ!!

鋭く耳に残る高い音。それが辺りを支配した。

そして——、

「は、あ、あああああああああああああ!!」

女性の叫び声。事件性の感じるその狂気にも満ちた叫び声は、この現状を表していた。

「律花、律花…?」

叫んだのは血を流して横たわる我が子を必死にゆする母親の姿だ。

「律花!律花!」

だが、その声は虚しく遠くへ飛んでいってしまい、律花には届かない。反応の一つや二つ見せてくれてもいいじゃないか。そんな願いはどこか遠くへ行ってしまった。

ただ悲しい。それだけが奈々を支配していた。そしてトラックを睨みつけた。だが、それ以前に目立ったのは手前にある一輪の赤い花であった。

その赤は律花の血ではなく、自分自身の色であった。綺麗に咲いている花は、今の奈々に取って不愉快であった。だから——。


「ねぇ、君は何ていうの?」

「僕、うーん…麗」

「そうか、麗。うんいい名前だね!」

少女は笑った。悲しい顔で笑った。だがその顔に哀しさは無かった。でも、悲しそうな顔をしていた。少女は立ち上がった。勢い良く。

「ねぇ麗、あたし本当に死んじゃったの?」

「まぁね」

「そっか」

ふふんと鼻を鳴らし、上を向いた。——青い空。透き通るような、ラムネのような綺麗な空が永遠に続いていた。まるで自分が飛んでるみたいに、そんな錯覚すら起きるほどに、一面の青が律花を包んだ。

「あたしどうすればいいの?」

「地獄に行くよ。君、いや。律花はこれから地獄に行くんだよ、長い長い旅をするんだよ」

「そっか。そうだよね。うん。お母さんとお父さんをいっぱい悲しませたもんね」

「——」

「ねぇ、麗。あたしを連れてって」

律花は麗に手を差し出した。そんな律花の手を麗は優しく握り、

「じゃあ、準備はできたみたいだね」

その問いには律花は動じない。選択肢はあって無いような物だ。悪い事をしたら罰を受ける。至極真っ当な事だ。だから律花は——、

「うん!あたしお母さんとお父さんが此処に来た時に胸張って迎えられるように。ちゃんと罪を無くしてくるよ!あたしが先輩なんだぞって、お母さんとお父さんに言ってやるんだ!」

「そっか」

大粒の涙をボロボロとこぼしながら律花は笑いながら言った。だが、その顔に一片の曇りは無かった。それはまるでここの空のようで、そんな律花の顔を見て麗も微笑みかけた。

「じゃあ、律花。僕の手を離しちゃダメだよ」

「うん」

瞬間、麗の背中から眩い光が飛び出した。律花は麗にお姫様抱っこのような形でいる為、背中がよく見えないが、その光はとても綺麗で暖かった。

そして、律花の意識は徐々に沈んでいった——。


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