第21話
焼肉パーティがひと段落し、食後のフルーツまで平らげたころ。
「そろそろ、お母さんに連絡しようか?」
「えっ!?」
時計はまだ十九時前──夜と言うには少し早いが、小学生の由真を長く引き留めることは出来ない。
片付けを買って出る由真に電話を促すと同時に家の前に車が止まる音が聞こえた。
「ママ、来たかも!」
「ちょっと見てくるよ」
「あっ、由真も行く!」
俺は由真と一緒に外に出るといつものミニバンが止まっていた。
運転席の窓が下り、由真の母親―佐伯さんが柔らかく微笑む。
「お世話になりました。迎えが遅くなってごめんなさいね」
この時間で遅いとは……やはり、由真はかなりいいところのお嬢様なのだろう。まあ、由真の普段着を見ても、目立たないまでもブランド物のロゴが入っていたりして気づいてはいたのだが……。
「いえ、とんでもないです!」
俺は慌てて頭を下げると、佐伯さんはエンジンを切り、わざわざ車を降りてきた。
「ママ、どうしたの? 車で待ってればいいのに」
由真が少し不服そうな口調で言うのを佐伯さんは優しく嗜める。
「パパから伝言を預かってきたの。……海斗くんにも直接言っておきたくてね」
そう言って佐伯さんは俺の方へ向き直る。
優しい笑顔の奥で、何かを量るような光が揺れた。
「来週の日曜のお昼、もし時間が合えばでいいんだけど──ぜひうちの家へ来られないかってね。主人が“コーチに一度きちんと会いたい”と言っているのよ」
どう言うことなんだ。由真の父親が俺に会いたいなんて……。俺は父親の意図が分からない。温度の残る焼肉の匂いが袖口にまとわりつき、鼓動だけがやけに大きく感じた。
「え……由真ちゃんのお父さんが、僕に……ですか?」
「えへへ、来てくれる?」
由真がカーディガンの裾を握ったまま、期待で頬を紅くする。
母親と娘に挟まれた形で、逃げ場のない視線がそそがれた。
そう言えば焼肉の席で、俺の話題に由真の父親が蚊帳の外になっていると言っていたな。
自分に置き換えて考えると、俺と由真の話に自分だけが入れない父親が、今どんな気持ちでいるのか。
想像すると、胸の奥がざわりと波立つ。
「パパ、コーチと一度も会ったことないでしょ? “由真、俺も会いたいって……」
由真がそっと補足するが、由真は単純に自分の大切な人に父親も会いたがっていると言う事実に喜んでいるだけなのだろう。
父親が心の奥底に抱える感情の正体──それは単なる好奇心か、嫉妬か、警戒か──それは俺には分からない。
うちの焼肉に由真を呼んだことで、父親の警戒心が高まって来たのか。いや、それ以前に俺と由真はふたりきりで、ショッピングモールに行って映画館で楽しんだ。その話を由真が父親にしていないわけがない。
頭の隅で赤信号が点滅する。
正直言うと自分に対してどのような気持ちでいるのか分からない父親と会うのは、本当は避けたい。俺と由真はコーチと生徒、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
しかしここで断れば、これまでに築いた由真との信頼にヒビが入るかもしれない。由真は前のコーチとのこともあって、俺以外の指導を強く拒絶していた。信頼を失うことは絶対にできない。
逡巡していると、佐伯さんが静かに口を開いた。
「主人、少し口数は少ない人ですが悪い人じゃありません。娘がコーチの話ばかりするので、きっとやきもちを焼いているんでしょうね」
冗談めかした声色には、夫を気遣う柔らかさが滲む。
その表情を見て、ようやく決心が腹に落ちた。
「……分かりました。伺わせていただきます」
「本当? ありがとう、コーチ!」
由真の瞳がぱっと花開く。
佐伯さんは安堵の息を漏らし、深く一礼した。
「助かります。ではあらためて、日曜の十二時に──」
車に乗り込む直前、由真が振り返り、いたずらっぽく笑った。
「パパのこと嫌いにならないであげてね。もしかしたら、ちょっとびっくりするかも……」
それだけ言い残すと、ミニバンのドアが閉まり、テールランプが街灯の下で赤く滲む。
去り際に大きく手を振る小さな影を見送りながら、俺はひとつ深く息を吐いた。
「何がびっくりする、だよ!」
◆
玄関に戻ると、母さんが台所から顔をのぞかせる。
「やっぱり迎え、来てたのね。──あら、顔色悪いけど大丈夫?」
「ちょっと緊張しただけだよ」
自分でも驚くほど乾いた声だった。
リビングには、まだ片付けきれない焼肉の香りと、由真が残した笑い声の余韻。
その温かさの裏で、日曜への不安が静かにくすぶり続ける。
父親は俺に何を求め、何を確かめようとしているのか。
答えは、一週間後の食卓で待っている。
……逃げてはいけない。コーチとして、きっちり向き合おう。
炊事手袋をはめ直し、母親と一緒に皿の油をお湯で洗い流しながら、自分自身に言い聞かせた。
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