第20話
翌日の午後。リンクの冷たい空気に身を包みながら、俺は由真の練習を見守っていた。相変わらず集中力は抜群で、ジャンプもスピンも昨日より明らかに安定している。
「……よし、いいぞ! そのフリップ、さっきより流れがいい」
「うんっ!」
跳ねるように返事をして戻ってきた由真の額には、うっすらと汗がにじんでいた。そんな様子を見ると、こっちまで胸が熱くなる。
「ところで、さ……」
由真がタオルで汗を拭いている間に、俺は少し視線を逸らしながら言った。
「ん? どうしたの?」
「……うちの母さんがさ、焼肉買いすぎたらしくてな」
由真の動きがピタリと止まる。
「え? 焼肉?」
「うん、もしよければ由真も呼ばないかってさ。練習のご褒美ってわけでもないけど……な」
由真はじーっと俺を見つめたあと、くすりと笑った。
「うん、行きたい! 焼肉、大好きだし!」
「……マジで? 無理しなくていいんだぞ?」
「無理なんかしてないよ。コーチのお母さんに、ちゃんとお礼も言いたいって思ってたし。こうしてたくさん指導してもらってるのに、まだ一度も挨拶できてなかったから」
「そ、そうか……。じゃあ、一応お前の母さんにも俺から連絡しておくよ。心配するかもしれないからな」
「うん……。ママ、たぶん大丈夫だと思うけど……念のためお願いしてくれる?」
「ああ。じゃあ、今かける」
由真が小さく頷いたのを確認し、俺はスマホを取り出して発信した。
(プルルル……)
数回のコールのあと、落ち着いた声が応答した。
『あら、海斗くん? どうかしたの?』
「あ、佐伯さん。こんにちは、海斗です。突然すみません。母が少し食材を買いすぎてしまって、もしよければ由真ちゃんをご招待できればと……」
俺はできるだけ誠意を込めて話した。あくまで感謝の気持ちと、礼儀を通した形で。
『ふふ、ちゃんとしてるのね。由真も喜ぶわね』
「い、いえ、そんな……コーチとして当然のことをしてるだけで……」
『いいのよ。私からは特に反対しないけど、由真があなたのお母さまに迷惑をかけないようにね』
「もちろん、由真が迷惑かけるわけがないです!」
『じゃあ、由真に伝えてあげて。頑張れって』
「……へっ!?」
『それだけ言えば分かるから、お願いね』
頑張るって何を頑張るんだ。俺は通話を切ると、由真がくすくすと笑いながら顔をのぞき込んできた。
「ふふっ、ママ、なんて?」
「『由真に頑張れって、言っといてってさ』、意味わかんねえよな。由真は人一倍頑張ってるのにな……」
「あはは、そだね。大丈夫。私は、ちゃんと理解できたからね」
「へっ、何のことだよ」
「さあて、何のことでしょうか?」
「ちょっと教えてくれよ!」
「あはははっ、秘密だよ」
一体、どう言うことなんだよ。それにしても由真の笑顔は反則的に可愛かった。
⸻
そして翌日――。
「失礼しまーす!」
由真は淡いピンクのワンピースに白いカーディガンという、普段のジャージ姿とはまるで違う格好で俺の家を訪れた。
「わあ……いい匂い……!」
リビングには、すでに焼肉の甘辛い香りとジュージューという音が漂っていた。
「いらっしゃい、由真ちゃんね? ようこそ! さ、こっち座って座って。お肉も野菜も山ほどあるから!」
そう言ってから俺の側に近づいて来て、俺の胸を肩で突いた。
「テレビで見た由真ちゃんも可愛かったけど、本物は本当に天使みたいにかわいいね」
「ま、まあな」
「変なこと考えたらダメだよ」
「考えるわけねえ、だろ!!!」
俺は顔を真っ赤にして母親に怒った。確かにドキッとすることは最近増えてる気がする。しかし、由真は小学生、俺は高校生だ。節度だってある。
「おじゃまします! 今日はありがとうございます!」
母親は由真の少し緊張した面持ちで丁寧に頭を下げたのを見て、目を細めた。
「可愛い……! ああもう、そんなにかしこまらなくていいの。なんなら、うちの娘になってくれてもいいくらいよ!」
「え、ええっ!?」
「ちょ、母さん! 変な冗談やめろって!」
俺が慌てて口を挟むと、母はけらけらと笑いながらカルビを焼き、由真に差し出した。
しばらくは和やかに時間が流れた。だが、ふと由真が箸を置き、姿勢を正した。
「沢田さん」
「え? なに?」
「さっきの……『娘になってもいい』って、冗談だってわかってます。でも、私、あの言葉……嬉しかったです」
母が少し驚いた顔をする。
「今日こうして、お家に招いてもらって、ちゃんと挨拶もできて……私、本当に光栄です。コーチのような方に指導してもらえるのは奇跡みたいなことだし、そのご家族にも温かく接してもらえるなんて……本当にありがたくて」
「……由真ちゃん……」
「私、スケートに人生かけてます。だから、コーチと一緒にいる時間が多いのは当然。でもそれをコーチに邪な心で接してるとして見られることもあるって、分かってます」
言葉はまっすぐで、誠実だった。
「だから、ちゃんと“私はコーチを尊敬している生徒です”ってことを、誰よりも先に、コーチのお母さんに伝えておきたかったんです」
しばらく沈黙が流れ、やがて母は優しく微笑んだ。
「……由真ちゃん、本当にしっかりしてるのね。安心したわ。ありがとう」
そして俺をじっと見据える。
「……問題があるとすれば、そっちよ。海斗」
「は? なんで俺!」
「由真ちゃんは礼儀正しくて、純粋で、努力家で……あなたにとっても大切な生徒でしょう? だからこそ、もし万が一でもわたしの由真に不適切なことをしたら――追い出すからね?」
「しないって! そもそもわたしのって、母親の子供じゃないだろ」
俺は由真と母親を見るとねぇーっ、と言いながら意気投合していた。まあ、別に由真と母親が仲良くなるのは悪いことではないが、俺は自分が阻害されたような寂しさを感じた、
「ほら、由真ちゃん、みんなのお皿を片付けて」
「おい、由真は客だ!」
「いいんですよ、わたしも楽しいので……」
どんなに成功しても偉そうにしない由真を見て――俺はこの日常を守っていきたいと思ったのだった。
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