第14話

──大会三日前・リンク練習貸切日


 朝八時。冬の冷たい空気が、リンクのガラス越しに差し込んでいた。普段の一般営業とは異なり、この時間帯は《ノルテフィリア》という名門クラブの貸切となっていた。各地の精鋭選手たちが、この大会に照準を合わせ、調整の最終段階に入っている。


 リンクの観覧席、最上段に腰掛ける俺と由真、そしてその母親。由真はフード付きのウォームアップジャケットのポケットに手を突っ込み、縮こまるように座っていた。


「……なんか、すごいオーラの人がいる」


 由真がぼそりと呟く。氷の上では一人の少女が立っていた。腰まである黒髪がきりりと結ばれ、衣装は黒地に金糸をあしらったシャープなデザイン。まるで夜の猛禽のような威圧感。鋭く細い目元が一点を睨みつけている。


 その後方には、スーツ姿の女性。華奢で整った身体つき、長い髪をひとつに結び、氷面を見下ろすその視線は、研ぎ澄まされた刃のように冷たい。


「……やはり、望月コーチだよ」


 俺の言葉に、由真の身体がかすかにこわばる。その反応は、俺にとっても胸の痛みだった。


 望月沙夜――かつて由真の才能を「効率よく磨くべき素材」と見なした冷徹な指導者。理詰めの練習メニュー、限界ぎりぎりまで追い込むジャンプ反復。彼女の手法は一部のエリート選手には効果的だが、感受性の高い由真には、あまりにも鋭すぎた。


 由真の母が呟く。


「前のまま……怖いくらい無機質な顔」


 リンクの中央。滑走の合図もなく、黒い衣装の少女が動き出す。


 スピンから始まる演技は、一糸乱れぬ精度だった。細かなブレすらない姿勢、エッジに無駄な圧がかからず、氷面は一切の音を立てない。滑走音すら聞こえないほどの“静かなる速さ”に、由真が息を呑む。


 少女は流れるようにスパイラルからトリプルルッツへ。瞬時の加速と、滞空時間の長い跳躍。さらにそこからループジャンプを繋げた。


「……トリプルルッツ。しかもコンビネーションでループを乗せた」


「加点を狙う完成された構成だ……」


 リンクを駆けるその姿に、拍手が巻き起こる。氷の上に“敵意”のような美しさがあった。


 由真は隣で、小さく自分の両手を握っていた。唇をかみ、目を逸らせずに凝視している。


「彼女、誰……?」


「城崎真白。全関東三位。今年のダークホースだ。望月コーチが引き受けてから、急成長してる」


「私の後に……あの人の“新しい子”になったんだ」


 由真の声が、少しだけ掠れていた。思い出したくない記憶が、皮膚の下から浮き上がるようだった。


 リンクサイドで演技を終えた真白に、望月沙夜は頷きすらせず、淡々とメモを取っていた。その無表情に、懐かしい苦さが蘇る。笑わない。褒めない。ただ結果だけを見つめる目。


 その視線の冷たさを、かつて由真も浴びていた。


「……あの人の指導を受け続けてたら、私もあんな風になれたのかな……」


「――やめろ。由真」


 思わず、俺の声は強くなった。由真が驚いたように顔を上げる。


「お前があのまま望月に教わっていたら、今ごろはリンクに立てていない。身体も、心も壊れていたはずだ」


「……でも、怖いよ。あんなに綺麗に跳ばれたら、負けそうで……」


「負けそうって思っていい。怖くて当たり前だ。だけど――その怖さを“音”に変えるんだ。お前には、お前にしかない武器がある」


 俺は胸ポケットからメトロノームを取り出す。


「跳ぶ前の呼吸、踏み切りのリズム、着氷までの旋律。お前のスケートは“音楽”だ。真白が“切り裂く風”なら、お前は“空を運ぶメロディ”なんだよ」


 由真は胸に手を当て、深く息を吐いた。


「跳ぶよ、コーチ。私の音で、跳ぶ」


 その声は、震えていなかった。



――その日の夜・練習後のリンク脇


 リンク練習が終わった後、選手たちは散っていったが、俺たちは最後まで残っていた。観客席にはもう誰もいない。


 由真は氷上に立ち、スケート靴の刃先で円を描いていた。リンクのライトが淡く彼女の姿を照らす。氷の上を歩くように、小さな音でリズムを刻む。


 ♩=112。三拍子。


 一、二、跳ぶ、着氷。空中の「間」を想像しながら、由真は自分の呼吸と動きを合わせていく。


 そこに、誰かの拍手が響いた。背後から。


「……相変わらず、素人なりに楽しそうなことしてるのね、沢田さん」


 振り向くと、そこに立っていたのは望月沙夜だった。


 スーツの胸元に手を添え、整った口元には皮肉めいた笑み。まるで、舞台裏に迷い込んだ観客を見下ろすような目だった。


「フィギュアスケートって、“音楽”だけで勝てる競技だったかしら? まさか、あの子にまで“素人ごっこ”をさせてるわけ?」


 ぐさりと来る言葉だった。だが、俺は動じずに一歩踏み出した。


「俺なりのやり方で、彼女と向き合ってるだけだ」


「“やり方”? それが、メトロノーム? 感覚? ……笑わせないで。ジャンプの回転軸も、エッジの使い方も教えられないのに、コーチを名乗るなんて、滑稽よ」


 望月は肩をすくめ、氷上の由真を一瞥する。


「彼女のポテンシャルは確かだった。でも、あなたが指導してから、滑りは甘くなってる。表情ばかり豊かで、技術が追いついてない。まるで――学芸会ね」


「……そう思うなら、大会で確認すればいい」


 俺はその視線を正面から受け止め、応戦するように言葉を返す。


「望月コーチ。“結果”しか見ないあんたと違って、俺は“心”も見てる。彼女が自分の足で立って、自分の意思で跳ぶことに意味があるんだよ」


「そう。じゃあ、その“心”とやらが、ジャッジにどこまで通用するか楽しみにしてるわ」


 そして最後に、にこりともせずに付け加えた。


「……あなたみたいな部外者が、指導者面してるのを見ると、こっちが恥ずかしくなるわ」


 その言葉を残し、望月沙夜はヒールの音を残して去っていった。


 リンクの静けさだけが残る。


 しばらく黙っていた由真が、氷の上からぽつりと言った。


「悔しい。でも、少しだけ合ってる気もする。私、跳ぶことばっかり考えてて、技術から逃げてたかも……」


「逃げてたんじゃない。今は、自分の“跳びたい”って気持ちを育ててるだけだ」


 俺は笑って、メトロノームをポケットにしまった。


「大丈夫。お前は“素人の俺”と、ここまで来た。だったら、どこまでだって跳べるさ」



――深夜・由真からのメッセージ


 その夜、スマホが震えた。由真から、短い動画が送られてきた。


 自室の床にメトロノームを置き、三拍子に合わせて足踏みしながら、目を閉じて跳ぶ真似をしている由真。


〈“真白ちゃんの風”には、勝てないかもしれない。でも、私は“音”で飛ぶよ。きっと、跳べる〉


 その言葉に、胸が熱くなる。


〈そのために、明日も一緒に練習しよう。おやすみ、コーチ〉


 俺は笑みをこぼしながら返信を打った。


〈もちろん。朝イチで待ってる〉


 画面を閉じ、手帳を開く。


〈大会本番まで、あと3日〉


 数字の下に、俺は小さく書き足した。


〈対・真白戦:由真の音楽を信じろ〉


 そして、ペンを置く。

 真白の完成された風と、由真の未完成なメロディ。

 本当の勝負は、もうすぐだ。

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