第13話

 ──休養日・昼下がりのリンク観覧席 


 営業中のリンクは子どもたちの歓声で賑わっていた。俺は最上段に腰を下ろし、ノートにペンを走らせる。氷面では一般滑走の合間にスタッフがコーンを並べ、ミニレッスンの準備をしている。

 由真は観客席の通路を小走りに上がってきた。昨日の疲れが残るはずなのに、足取りは軽い。手にはスポーツドリンクと、氷嚢を包んだタオル。


「コーチ! ちゃんと家でストレッチしたよ。それと、ほら」

 差し出されたノートには、彼女が自分で書いたストレッチの記録と体調メモ。左右の張り、睡眠時間、食事内容まで細かい。

「いい習慣だ。自分の身体を言葉にできれば、怪我の前兆を見逃さない」

 そう言うと、由真は嬉しそうに笑った。頬の上気は昨日より引き、目の奥だけが熱を宿している。


 リンクを滑る子どもたちを見下ろしながら、俺はポケットから小さなメトロノームを取り出す。

「昨日“音”の話をしたな。今日はその続きだ。陸でリズムを刻み、氷で同じテンポを感じる練習をしよう」

「リズム……跳ぶときの助走にも使える?」

「もちろん。助走、踏切、空中姿勢、着氷――全部を音符に置き換えてみろ」


 観客席の一角で、俺たちはメトロノームのクリックに合わせて手拍子を打ち始めた。

 ♩=112。由真は目を閉じ、拍ごとに足首を揺らす。

「ワルツジャンプは三拍子。トリプルアクセルなら――」

「踏切が一拍半、空中が二拍、着氷で半拍?」

「正解だ」

 目を開けた由真が驚いたように笑った。

「音で考えると、アクセルがちょっとだけ近くなる気がする」

「頭の中で跳べなきゃ、身体でも跳べないさ」


 * * * 


 夕方、一般営業が終わり、リンクは再び静けさを取り戻す。スタッフに頼んで、氷上の一角を五分だけ借りた。滑走禁止ラインの外で、スニーカーのまま氷に立つ。

 由真は恐る恐る一歩を踏み出し、つるりと滑った。俺が腕を掴む。

「今日は走らない。氷の上で“歩く”だけだ」

「歩くだけ?」

「スケート靴を履かずに氷を踏む感覚を覚えろ。重心がずれるとすぐに滑る。これが怪我を呼ぶ角度だ」


 メトロノームを♩=60に落とし、四分音符ごとに一歩ずつ前進する。

 左、右、左。由真は爪先で氷を押し、体幹でバランスを取る。五歩目で僅かによろけ、俺の腕にしがみついた。

「氷って、靴がないと怖いね」

「怖さを知れば、エッジに乗ったときの安心感も深くなる」


 五分後、リンクを出る頃には由真の頬にうっすら汗。

「明日からリンクの外周を一周“裸足歩き”する。氷点下の刺激で足裏を起こすんだ」

「うわ、絶対冷たい!」

「冷たいからこそ、脳が覚える。嫌ならやめてもいい」

「やるよ! アクセル跳ぶんだから、何でもやる!」


 その言葉に、胸の奥がまた少し疼いた。跳ぶことへの純粋な渇望――かつての自分が置き去りにした熱だ。


 * * * 


 リンクを出ると、薄曇りの空が朱に染まっていた。駐車場で由真の母親が車から降り、こちらへ小走りに来る。

「コーチ、お忙しいところありがとうございます。由真、昨日は泣きながら寝てましたけど、今日は元気みたいで」

「泣いてない!」

 由真が慌てて否定する。母親はくすりと笑った。

「家では強がりなんです。けど、前のコーチのときは泣いても走り続けてました」

 母親の声にかすかな痛みが混じる。俺は視線を落とした。

「泣きながら走ると、呼吸が乱れて酸欠になる。昨日止めなかったら、きっと転んでいた」

 母親は小さく頷き、由真の頭を撫でた。

「この子が跳べなくなったとき、私も一緒に止まってしまった。でも今日の表情を見て、やっと前へ進めそうです」


 由真は照れくさそうに視線を逸らし、俺のジャージの袖を引っ張った。

「コーチ。今日の“音”の宿題、家でメトロノーム使ってもいい?」

「家族を巻き込むなよ。うるさいって怒られる」

「じゃあイヤホンでやる!」

 母親が笑い、俺も苦笑する。


 * * * 


 夜。自宅の小さなキッチンでプロテインをシェイクしながら、手帳を開く。

〈アクセル解禁まで あと178日〉

 数字を書き込むたび、背筋が伸びる。由真の未来を刻む数字は、同時に俺自身の再生カウントだ。


 スマホが震えた。由真から動画メッセージ。

〈コーチ! 裸足歩きの予習してみた!〉

 リビングのフローリングを裸足で歩き、メトロノームに合わせて手拍子を打つ由真。父親らしき男性が背後で驚いた顔をしている。

 俺は思わず笑い声を漏らし、返信を打つ。

〈家族サービスご苦労。足裏冷やすのは明日な〉

〈了解! おやすみ、コーチ〉


 送信を終え、天井を仰ぐ。

 半年後、あの子が空を切り裂く瞬間を見届けるまで、俺は止まらない。止まれない。

 氷も人も、削られ磨かれ冷えて固まる。だが芯まで凍らなければ、何度でも形を変えられる。


 ペンを取り、手帳の隅にもう一行書き足した。

〈明日のメニュー:裸足氷上ウォーク + アクセル3拍子イメージ〉


 インクが乾く前に、胸の痛みは温かな鼓動へと変わっていた。




 * * *



 

 あれから半年か……長かったような短かったような。俺と由真の二人三脚だったな。


「コーチ、基礎トレーニングは完璧だよ」


 半年間のトレーニングで基礎体力だけでなく、とにかく滑りが綺麗になった。昨日、医師の検査でシンスプリントの疑いも晴れた。


 由真が凄い速度でスケート場を滑る。よし、ここだ!


「由真、飛べええええええぇぇぇ!」


 半年間、飛んでなかったんだ。飛べなくても仕方がない。俺はそう思って、由真に叫んだ。その瞬間、由真の身体が宙を浮いた。


 空中を滑空する。一回、二回、三回転、そのまま着氷。


 由真は全く乱れることなく、氷の上に着氷した。


「いける! いけるぞ! お母さん、これは加点ですよね!」


「ありがとう、ありがとう」


 由真の母親は俺の隣で涙を流していた。全く飛ばない練習。一度もしたことがなかっただろう。不安は大きかったはずだ。


「よし!」


 舞台は整った。来月の試合で、由真を優勝の舞台に立たせる。


 俺たちの戦いはこれからだ!

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