第10話
病院・検査室
由真は、淡いブルーのスポーツウェア姿で診察台に腰を下ろし、少し緊張した面持ちで俺を見上げていた。横では、スポーツ医学の専門医である松永先生が、カルテをめくりながら準備を進めている。
「心配しなくていい。今の状態を調べるだけだ。痛いことはしないからね」
「……うん、分かってる」
けれど、由真の小さな手は震えていた。俺はその手をそっと握り、落ち着かせる。
「ほら、リラックスして、深呼吸。大丈夫だよ。これまでの練習での状態を見るだけだからね」
由真は俺の目を見て、少しだけ笑った。その笑顔に救われるような気がして、俺も自然と口元を緩める。
「さて、それじゃあ始めようか」
松永先生が声をかけ、検査が始まった。関節の可動域、筋肉の柔軟性、バランス、筋力、そして疲労の蓄積具合──細かく丁寧に診ていく。俺は医師の補助をしながら、必要なデータをノートパソコンに記録していった。
──そして、結果が出た。
「身体のバランスは悪くない。ただ、…すねの内側に軽い炎症と圧痛がある。分かるかい? これ、シンスプリントになりかけてる兆候なんだよ」
「シンスプリント……?」
由真が不安げに聞き返す。松永先生は穏やかに頷いた。
「疲労の蓄積によって脛骨の内側に炎症が起こる。フィギュアスケートの選手では、ジャンプの反復が原因になることが多い」
由真は驚いたように目を見開き、それから、そっと視線を落とした。
「由真ちゃん、もしかして前のコーチの指導ってジャンプ中心だったの!?」
「……うん、ジャンプの回数、かなり多くて……“跳べるうちに跳べ”って……」
俺はその言葉を聞いて、両手を握りしめた。自分の知名度のために由真の将来を奪おうとしたのだ。許せない!
何が元名スケート選手だよ! 由真の身体のことなんて、何も考えてなかったじゃないか。
「今のところ、まだ軽症だ。でもこのまま負担をかけ続ければ、いずれ疲労骨折の危険もある」
俺は、先生の言葉に強く頷いた。
「由真ちゃん、今後しばらくはシンスプリントにならないようストレッチ、基礎トレーニングとスケーティング技術、あとフォームの見直しをしよう」
由真は一度だけ唇を噛みしめ、それから俺の目をしっかりと見据えた。
「……分かった。もう、無理しない」
「由真ちゃん、痛くなったら、教えてね。その痛みが積み重なれば、シンスプリントになり、やがては疲労骨折につながる」
由真の今の状況が過去の自分と重なる。俺はシンスプリントになってるにも関わらず、身体を酷使し、疲労骨折になりかけていたにも関わらず無理して、アスリートの道を諦めなくてはならなくなった。
胸が熱くなる。由真の身体は誰にも潰させない――そう心に誓った。
⸻
帰り道・夕暮れの車内
車は夕焼けに染まった街を静かに走っていた。助手席の由真は、検査結果の用紙を膝の上に置いたまま、ぼんやりと窓の外を眺めている。
隣の席から声をかける。
「……痛み、気づいてたの?」
「うん。少し前から、すねの内側がジンジンして。でも、跳ばなきゃって思ってたから……前のコーチ、跳ばないと怒るから……」
「わたしからもごめんなさい。わたしがついていながら、由真の身体を壊すところだった……」
母親は運転席から謝罪の言葉を呟くように言った。
「いえ、このタイミングで病院に来れてよかった、と思います」
そう言って、俺は由真をじっと見た。過去のことは思い出すのも嫌だったが、今の由真にこれ以上無理をして欲しくない。由真は向上心が高い。例え、今回のことがコーチの指導によって引き起こされたことであっても、由真自身が言ってもらえないと気づかないかもしれない。
「由真ちゃん、これは俺が中学生の時に起こったことなんだ。聞いてもらえるかな?」
「う、うん! お兄ちゃん、ちが、コーチのこと知りたい!」
由真は真剣な眼差しで俺を見る。俺は思わず頬が赤くなってしまう。
「いや、俺のことを知ってもらうんじゃなくてね。由真ちゃんが無理をしないように、と思ってね」
「分かった!」
「俺はね。中学生の時、スプリンターになりたかった」
「スプ……リンター?」
「あ、短距離選手のことね」
由真は俺の言葉に手を叩いて納得してくれた。
「自分で言うのもなんだけどね。凄く、凄く努力したんだ」
そうだ。俺はあの頃、必死だった。当時、日本人で数人しか到達していない夢の九秒台を目指して、毎日必死になって走った。
「その結果、シンスプリントにも気がつかず、骨折の一歩手前まで行った。骨が折れそうになると少しは休んだけども、治ればギリギリの練習。結局……」
医師から告げられた言葉が胸に刺さる。忘れたかったあの言葉。苦しくて、辛くて、目から熱いものがこぼれ落ちるのを感じた。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ。辛いなら、話さなくてもいいから……」
由真はハンカチを取り出して、涙を拭ってくれた。
「ありがとう」
俺の過去のトラウマなんて、どうだっていい。今、由真に必要なものは、身体を大事にすること。少しでも異変を感じたら、俺に伝えてくれることだ。俺は震える唇をなんとか押し留めて、絞り出すように言葉を出した。
「靱帯断絶をした。それでも俺は、治れば走れると思った。走りたかった。9秒台の世界を見たかったから……」
「お兄ちゃん、もういいよ。それだけ聞けば充分だよ!」
俺は震える手でパンドラの箱を開けた。
「俺は二度と本気で走れない身体になったんだよ!」
由真が俺の背中を摩ってくれる。運転席の母親が口に手をあてているのが見えた。
「だからね。絶対に、絶対に由真ちゃんはコーチの俺に言うこと! 絶対だよ!」
「うんっ、うんっ、分かったよ。由真、知らなかった。お兄ちゃんにそんな辛い過去があったなんて……」
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