第9話
「嘘だろ! 海斗、お前! 部活辞めるって本当か!?」
「……ああ。どうせ、陸上じゃトップアスリートにはなれないからな。だったら……」
言いながら、胸の奥がちりちりと痛む。かつて自分の夢だったものを否定するような言葉だ。けれど、その痛みは押し殺すしかない。
「またまた、由真ちゃんが好きなだけだろ!」
「うるせえよ」
「おっ、否定はしないんだ!」
俺は恭介と冬矢に、別れを告げるつもりで言った。ふたりとの馬鹿話は本当に楽しかった。心の空虚を埋めてくれた、大切な仲間だ。だからこそ、こんな形で離れるのは忍びない。
でも――由真をジュニアの舞台に立たせるためには、部活なんてしている暇はない。恭介と冬矢は夢を断ち切られて抜け殻になった自分を拾ってくれた仲間たちだ。でも今度は、由真を、守る番だ。
ノートパソコンを立ち上げる。ここには、今までの由真の試合データと、ライバルである紗良のデータが詰まっている。由真をトップに導くための、俺なりの“戦略”だ。
「おっ、また幼女のエロ動画か?」
恭介がふざけて動画を再生する。画面には、由真がリンクを滑っている姿。ジャンプのための踏み切りで、滑走時の演技がわずかに乱れる。ほんの一瞬でも、そのミスが命とりになるのがフィギュアの世界だ。
「うわっ、これはエロいね。スカート短いわ! パンツ見えるじゃん」
「殺すぞ!」
冗談でも、由真の努力の結晶である演技を卑猥な目で見ることなんか許せない。過剰に反応しているは分かっている。だけど我慢できなかった。
「ごめん、ごめん。それにしてもお前、本当に変わったよな」
「そうか?」
「うちの学校に入学した時、マジで抜け殻みたいだったじゃん」
「そうそう。あの陸上界のエースが、まさかこんなに落ちぶれるとはって、正直思ってた」
「もう……終わった話だ」
つい口調が荒くなる。だけど、終わってなんかいない。あのときの悔しさは、今も鮮明に胸を締めつける。
中学の時、俺は短距離走のトッププロを目指していた。いや、目指せるだけの素質があったと思っている。けれど、そんな自惚れは、ある日突然崩れ去った。
(何ヶ月休んだら復帰できますか? 俺、あまり時間がないんだけど)
焦っていた。早くトラックに戻りたかった。夢を追いかけていたあの時間を失うことが、何よりも恐かったから。
けれど――
(ごめん。無理なんだ……)
(無理って、どういうことですか!?)
医師は俺の肩をしっかり掴み、悲しそうな目をしていた。真剣に俺を見つめて、まるで自分のことのように苦しんでいた。
(もう二度と、トップアスリートにはなれない)
その言葉が、俺の中の何もかもを壊した。心の奥にあった大切なものが粉々に砕け散ったように思えた。
俺は数ヶ月、廃人同然だった。あの頃の自分を思い出すだけで、胃が重くなる。
そんな俺を、なかば強引にでも高校に引っ張ってきてくれたのは――
(なあ、俺らと同じ高校行こうぜ!)
(なんでだよ!)
(いいからいいから。可愛い女の子と付き合えるかもしれないぜ)
恭介と冬矢。ふたりがいなければ、俺は今も部屋に引きこもっていたかもしれない。文句ばかり言う俺と一緒に、わざわざ陸上部まで入ってくれた。だからこそ、俺はふたりに頭が上がらない。
「まあ、たまには陸上部に顔出せよ。同じ高校なんだからさ。また一緒に遊ぼうぜ」
「ああ」
「聡美達と合コンするってのもいいしさ?」
もし、由真に出会っていなければ、俺はきっと合コンにも参加していただろう。けれど今は、そんな気分にはなれない。
俺と由真は、コーチと生徒。年齢差だってあるし、そんな関係になんてなるはずがない。
だけど、不思議と心は由真に向いている。もし俺が合コンに行ったら、由真が悲しむかもしれない――そんな想像が頭をかすめた。
「ああ、海斗に合コンはないか」
「そりゃそうだろ。あんな可愛い由真ちゃんがいるんだから……」
「ちょっと待て、まるで俺が由真と付き合いたいみたいじゃないか?」
「いいじゃん。もし付き合ったら、別の世界が広がるかもしれないぜ」
ふたりは冗談混じりに笑うけど、俺には笑えなかった。由真は、俺が守りたい存在だ。それ以上は考えられない。
「俺はそんな世界、見たくない」
そう言い捨てると、ふたりは大袈裟に腹を抱えて笑い始める。
「冗談、冗談だってばよ」
「……なら、いい」
俺は苦笑を浮かべながら、じゃあまた連絡すると言い残して、スケートリンクへ向かった。
――――――――
「お兄ちゃん、やっと来た!」
由真が嬉しそうに駆け寄ってくる。その無邪気さがまぶしく感じる。
「今日からはコーチって呼びなさい」
実際、フィギュアスケートのコーチは自分が滑れなくても指導できる場合があるらしい。だが、元選手の方がジャンプや踏み込みのコツを教えやすいのも事実だ。
「はい、コーチ! よろしくお願いします!」
「わたしからもお願いします」
由真の後ろに立っているのは、母親。実質、俺の“雇い主”だ。俺が役に立たなければ、すぐにクビになるだろう。
「それじゃ、今日は病院に行くか?」
「へっ? 由真、別に何も悪いところないよ?」
「いいから、いいから」
母親から聞いた話では、前のコーチは優勝ばかりを追い求め、由真の身体をあまり気にかけていなかったらしい。
俺は、由真をあのときの俺のようにさせたくない。陸上で味わった絶望は、もう二度と見たくない。
――奇跡的に、由真は大きな怪我をしていない。でも、それはただ運が良かっただけだ。
だからこそ、俺は徹底的に彼女の身体をケアしたい。大きな故障を負わせないために、まずは今の身体の状態を把握するところから始めよう。
俺と由真は、母親の車に乗り込み病院へ向かう。その車中で、これからの練習カリキュラムを伝えた。
「今後は、基礎トレーニングを中心にやるぞ」
「えっ!? ジャンプの練習じゃなくて?」
次の大会まで一ヶ月しかないから、由真が焦るのも無理はない。
「大丈夫なの? 前のコーチの練習でも、うまく飛べてなかった。もっと上手に飛べれば、きっと勝てた……って思う」
そう言う由真の瞳は、不安と悔しさで揺れている。俺は、その瞳を覗き込むように視線を合わせた。
「えっ、ち、近いかも……」
「あっ、ご、ごめん」
昔、医者が俺に語りかけたように、“真剣な眼差しで伝えたい”と思っただけで、この距離だとは考えていなかった。由真と俺がお互いの顔を真っ赤にしながらそっぽを向くと、母親は運転席で小さく笑っている。
「別に、不埒な気持ちがあったわけじゃないぞ」
「うん、分かってる。……でも、不埒な気持ちでもいいから……」
「こーら、由真。そんな答え方したら、海斗さんが困るでしょ?」
そう母親にたしなめられて、俺はさらに照れてしまう。
けれど、俺は逃げずに由真をまっすぐ見る。俺の手が自然と彼女の肩に乗る。
「由真ちゃんに足りないのは、スタミナだ」
自分の過去を思い返しながら、喉が少し苦くなる。それでも言わなければならない。無理をすれば、身体が壊れる。夢すら砕け散る。
「……スタミナ?」
「そう。長い演技を乗り切るための体力が必要なんだ。最後まで演技を美しく保つためにも、土台になる身体がいる」
由真の瞳が大きく見開かれる。俺の言葉をどう受け止めたのかは分からない。だけど、俺は強く思う。あの地獄を、彼女に味わわせたくない。たとえ、遠回りだと言われても――
由真を過去の俺と同じ目に遭わせるわけにはいかない。
俺は強く拳を握り締めながら、由真の未来を思い浮かべた。
夢を途中で断たれる痛みは、もう二度と見たくないから。
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