5-2 二年生・一月(3)

「ただいまあ」

 家に帰ったら、藍子が大シケに掠われたかわいそうなエビみたいに丸まって、ソファに打ち上げられていた。リモート出社が終わるとすぐこれになる。週末はバイクであちこち出かけているので体力がないわけでなく、単純に労働が肌に合わないだけらしい。

「アオ……?」

 藍子が+マークみたいなしょぼしょぼの目であたしを見上げてきた。あんまりにもマヌケだったのであたしはぷっと噴き出す。

「藍子、すげー顔になってる。こんな暖房ガンガンの部屋で寝てるから」

「えー、マジ……最悪。ていうか、今何時? お母さんは?」

十九しち時少し前。ママは駅で何かの行列並んでるって」

「はー、あの人、人の群れ見るとすぐ首突っ込んで……っていうか、十九時前? ヤバい、アオ、テーブルの上、伝票取って」

 そう言って、ひょいひょい、とテーブルの上を指さす。あたしが中学生の時だったら、指図するようなその態度にブチギレて「はっ倒すぞ」と即喧嘩だけど、今は何とも思わずにテーブルの上の伝票を手にする。

「なんこれ」

「クリーニングの。お父さんのジャケットとかズボン、取りにいけって頼まれてて。明日、帰ってくるから」

 パパはここ半年くらい、仕事の都合で一ヶ月に一日しか家に帰ってこない。少しでも稼ぎの良いポストを、と偉い人に相談したらそういう形態になったらしい。で、その唯一の帰宅日に一ヶ月着倒したスーツを置いて、次の一ヶ月間着倒すスーツを担いで出かけていく。

「あ、そっか。っていうか、あそこ十九時で閉まるじゃん」

「そう、だから、ヤバいの。受け取り損なったら、お父さん、しばらくパンツで仕事だよ」

「あははははは! あのリトルグリーンメン柄のパンツで?」

 あたしはスーツケースにぎっしりパンツを詰めて出かけるパパを想像して、めちゃくちゃ笑ってしまった。でも、藍子は真顔だった。

「笑い事じゃないよ! こんな顔じゃ取りにいけない! アオ、お願い、取ってきて!」

 藍子は就職して社会に出てから冗談に乗ってくれなくなったし、ぐちゃぐちゃの顔面のまま外に出ることもなくなった。こういうのが具体的に「大人になる」ってことらしい。だからこそ、クソ仲悪だったあたしとも和解できたわけだけど、なんか、物足りなさも感じてしまう。

「しかたないなあ……」

 あたしは再び寒くて暗い外へと繰り出した。階段を降りながら、あたしも含めて大半の人が将来ああいう無難な感じになってしまうなら、学生の間くらいは思う存分やってもいいじゃんか、と思う。どうしてうちの高校の人たちは、ラルヴァなんてバカローカルなしょうもないSNSのことを気にして、無難で目立たないモブみたいな立ち振る舞いをするんだろうか。

 あたしはくさくさした気分で道路を渡って、向かいのクリーニング店に入る。

「……いらっしゃいませ?」

 と、煮え切らない挨拶を耳にして、そういやそうだったな、とあたしは思い出した。カウンターの向こうでは、バイト中の健翔がMacbookカチャカチャ状態であたしを見上げていた。

「よっ、今日は客だから」

 あたしはそう言って伝票を置く。健翔は「ん」と無表情でそれを受け取ると、立ち上がって奥に引っ込んでいった。相変わらず何を考えてるのかわからないヤツ。バイト中に何してんのかと思って、軽い気持ちでパソコンの画面を覗き込んで──ぎょっとした。

 そこには思い切りラルヴァが表示されていた。なんかハッカーのやりがちなちんぷんかんぷん英数字ウィンドウも出ている。こいつ、バイト中に、バイト先の電波使って何してんだ? っていうか、ラルヴァをしれっとパソコンで表示するってどんな技術?

「そんな堂々とした覗きを」

 呆れた声に顔を上げると、健翔がパパの服をぶら下げて戻ってきた。

「ラルヴァ見てんの? あたしと麻路のこと、そんなに気になってんだ」

「それはな」

 あっさりと肯定される。まあ、立場的にこいつが気にするのは当然か。一瞬ちょっと、ゲスいって思っちゃって失礼失礼。

 それから健翔はパタン、とマックを閉じて、持ってきた品々を陳列していく。あたしは通り一遍、クリーニングの仕上がりを確認しながら訊いた。

「昼休み、ラルヴァ落ちてたよ。知ってる?」

「ああ、ちょうど調べてた。アクセス過多らしい。投稿量から三百人程度のアクセスがあったと推測できる」

 すご、一学年分じゃん。あたしと麻路、人気コンテンツだ。

「っていうか、その程度で落ちちゃうの」

「ラルヴァのサーバーは脆弱だ。サーバー用の機器でなく普通のPCを転用している可能性が高い。普通のサービスなら論外でも、ラルヴァは世曜のローカルSNSだから問題なかった」

「いや、今日、問題になってたじゃん」

「想定外としか言いようがない。むしろ、落ちたことよりも復帰したことの方が問題だ」

「え、なんで? 直る分にはいいでしょ」

 驚くあたしに、健翔は淡々とスーツを袋詰めしながら言う。

「システムの損傷は人の怪我と違って自動で直らない。今日もラルヴァの停止を確認した誰かがサーバーの復帰作業をしたはずだ。つまり、ラルヴァを管理し、保守してる人間が今もいる」

「……えっ」

 健翔の言葉にゾクッとした。ラルヴァはいわばOBOGの忘れ形見で、空き家みたいなものだと思っていた。かつての先輩たちがこしらえた場所に、後輩であるあたしたち生徒が勝手に巣くって、勝手に人のことを書き立てて、勝手に書き立てられることを怖がってる。

 だけど、そうじゃなくって、ラルヴァを管理してる人間が今も世曜にいる──今、世曜をこんなつまらん学校にしちゃってるヤツが存在してる! あたしは激怒した。

「なんだそれ! 誰だよ、そいつ! どうせ情報メディア部員でしょ!」

「可能性はあるけど、よくわからなかった。確実なのは、サーバーが世曜高校のどこかにあることと、それを管理してる誰かがいることだけ」

「健翔でも難しいんだ……っていうか、そいつは何のためにラルヴァを長らえさせてんの? お金が稼げるわけでもないのにさ」

「世曜高では貴重な娯楽だから」

「っていうけどさ、みんな、学校の外では普通にインスタもXも見るでしょ」

「そう思う。ただ、ラルヴァにはああいう公的なSNSにはない濃密で内輪的な空気がある。オープンチャットや裏垢でのコミュニティみたいな下世話で無秩序なものとも、また違う。身近な出来事が画面の向こうで話題になっていて、匿名で自由に言及できる、不思議な興奮と連帯──これは教室で顔と顔を合わせてやる噂話とは根本的に違う。一度、SNSを通して完全に透明化することで、ありきたりなコミュニケーションから別種の快楽を引き出してるんだ」

「……つまりどういうこと?」

「ラルヴァは世曜高校特有の裏空間を形成し、そこでしか得られないコミュニケーションに由来する快感を提供する。その快楽に取り憑かれた管理者が現在もラルヴァを保守している、それがおれの仮説だ」

「なんだそれ! 誰だよ、そいつ!」

「ループ入った」

 あたしにはそのラルヴァ特有の快感とやらにはピンと来ないし、話題の餌食になりたくないっていう本能も理解できない。これも奇跡みたいなスーパー上振れで、紛れ込んでしまったよそ者だからなのか? もし、うちの学校で標準的な頭脳があったのなら、同じように見ることを楽しんで、同じように見られることに怯えてたんだろうか。

 でも、もしあたしが普通の世曜高生だったら、きっと麻路と付き合ってなんかなかった。その点で言えば、ラルヴァの連中よりずっといい思いをしているはずだ。

 結局、あたしがムカついているのは、みんなが持っているはずの欲求を封じ込めて、さも存在しないかのように振る舞っていることだった。そうやって本当の心を隠しながら、その欲求不満をラルヴァで晴らすというマッチポンプ。そんな饐えたような気持ちよさを慰めにして送る青春なんか、終わってる。

「この環境、どうにかなんないんかな」

 あたしがきゅっと眉を顰めて言うと、健翔はパパの服の入った袋をあたしの方に差し向けながら首を振った。

「ラルヴァの存在は世曜の生徒たちが望んでる。一度与えた飴の味を忘れさせるのは難しい」

「はあ、それっぽいこと言っちゃってさ。そういう一般論みたいなのはいらなくって……じゃあ、健翔自身はどう思ってるわけ?」

「……おれは」

 健翔は物思いに閉じたパソコンの蓋に手を置くと、抗うような目付きであたしを見た。

「ラルヴァなんかなければいいと思ってる」

「よく言った」

 あたしは景気よく言ってパパの服を受け取る。あたしはこの男のことを、去年の十月、同じ場所で麻路について話した時よりもずっと気に入っていた。

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