5-1 二年生・一月(3)

 しかし、思えば八月から十月にかけて、あたしは健翔と麻路が付き合っていたと勘違いしていたことになる。麻路と付き合い始めた一月現在のあたしとしては、んなわけねーだろタコって感じだった。

 そんなありし日の愚かな自分を思い出しながら麻路の横顔を見ていると、つっと切れ長の眼があたしの方を向いた。

「……何?」

「ううん、なんでも」

「そう」

 麻路は真正面に向き直った。あたしも前を見て、車の往来を眺める。

 日が沈んですっかり暗くなった空の下、あたしたちはバス停前のゆったり二人がけのベンチに並んで座って、あたしをうちの近くまで運ぶ予定のバスを待っていた。麻路の自転車はその辺の邪魔にならないところに置いてある。

 あたしたちの他には三人くらい生徒がいて、中途半端に離れた位置からスマホをしきりにいじっていた。ここはギリギリ学校のWi-Fiが届くので、ラルヴァを見ているんだろう。その中の女の子なんかは手がぷるぷる震えている。見る専だったけど初めて書き込みをした一年生かな。初々しくて大変よろしい。

「自転車、乗れないのね」

 ふと、麻路が言った。麻路が口にすると映画の台詞っぽかった。雰囲気に乗せられ反射的に「うん」と喉から出かけ、慌てて引っ込める。いやいや、あたしは首を振った。

「いや、チャリくらい乗れるから」

「嘘。乗れないから、私の後ろを嫌がったんでしょ」

 麻路は重ねて言う。ニケツに加担しなかったことを相当根に持っているらしかった。

 前のあたしなら怖ぇーってなってたかも知れないけど、今のあたしなら、二人乗りしたかったんだ、かわいーって内心萌えてしまう。ただ──断ってしまったことを、どう説明すればいいんだろう。あたしは必死で考えて、言い訳をひねり出す。

「違うって。ホントに乗れるんだよ……確かに、最近はご無沙汰だけど」

「さっき見せてくれたバス定期の区間、学校からそう遠くないところだった。歩くには大変だけど、自転車ならちょうど良い距離。碧子の性格なら自転車通学を迷わず選びそうなものなのに、どうして?」

「名探偵が序盤のジャブでやる推理かよ」

「フ……誤魔化さないで」

 誤魔化してるのはあなたの方ですよ、麻路さん。今、ちょっと笑いましたよね。あたしの渾身の喩えツッコミで、ちょっと笑いましたよね……なんて頭の中の茶番は置いといて。

「まあ、いいじゃん、別に。あたしのチャリ事情なんかさ」

 あたしは結局、そんなつまらない言葉で逃げてしまった。

「──そう」

 麻路も素直に追及の手を引っ込めた。会話が途絶え、行き交う車のエンジン音が突然大きく聞こえるように感じる。その往来をぼんやり眺めているうちに、はたと気がついた。

 あれ? なんかちょっと気まずい空気?

 というか、思ったけど、麻路の方があたしのことを突っ込んで訊いてくるのって初めてな気がした。麻路は眉目秀麗頭脳明晰人類最強と名高いけれども、性格は内向的で一匹狼気質がある。人の輪の中にいても、外向きの笑みを浮かべるだけで深くは交わらない。それなのに、昼休みもあたしの共感覚を好きって言ってくれたり、あたしのことを知ろうとしてくれたり、これって麻路なりに歩み寄るように努力している、ってことなんだろうか。少しでもよりよく付き合っていくために……。

 それなのに、あたしは意地張って突っぱねてしまった。今、麻路はどんな気持ちでいるのだろう。すぐ隣に座っているのにわからない。それがもどかしくて、少し、苦しかった。

 ──私はひとりでいた方が良い。

 いつか、麻路があたしに漏らした言葉が心にこだまする。その時の麻路はとても寂しそうだった。それを思うと、あたしのトラウマを話すなんて、取るに足らない気がする。

 あたしは息を大きく吸い込むと、空を見上げて言った。

「綺麗な虹がさ、出てたんだよ」

「虹?」

 麻路は顔を上げた。そこには冬らしい澄んだ青が広がっているばかり。そんな空模様に負けないくらい澄明とした表情で、麻路はあたしの方を向いてくる。あたしは笑った。

「あ、今じゃなくて、昔の話。天気予報も予想しなかった夕立が上がった後、空いっぱい虹が出た時があったんだ。すっごくくっきりしてて、もう根元を目指したくなるくらいのやつがね。あたし、夏で中二でアホだったからさ、じーっと見ちゃって。うわー、こんな絵に描いたみたいな虹ってできるんだって、その匂いまで嗅ごうとして」

「碧子らしい」

「それが、チャリ乗って坂道で、すごい速度出してた時だったからものすごい勢いでこけた」

 麻路が目をつーっと細める。

「……アホね」

「だから夏で中二でアホだったって言ったやろがい」

「その事故のせいで、自転車乗るのが怖くなったの。自転車に触れるだけで、身体が動かなくなってしまうくらいに」

 その台詞に、あたしはいたたまれない気分になった。ええ、自転車も乗れないの? 恥ずかしい──そんな声が聞こえる。もちろん、麻路にそんな意図はない。そう思っているのはあたし自身だ。だけど、無理なものは無理なんだからしょうがない。弁明しなくちゃ。

「……ねえ、麻路、血の匂いって、何色に見えると思う?」

 麻路は目を見開く。ガーッ! とデカいトラックが、あたしたちの前を通り過ぎていった。その余韻が消え去ってから、麻路は探るように答える。

「赤……?」

「ブッブー。正解は、くすんだ灰色。血が赤いのって酸化した鉄の色でしょ。多分、その繋がりで鉄色。でね、あたし気がついたら、路上で灰色まみれになって倒れてた──」

 あの時のことを思い出すと、すーっと、目の前の世界から現実感が抜けていく。

 虹を見ていたと思ったら、乗っていたはずの自転車が消えて、上と下がなくなって、視界がメチャクチャになって、衝撃が来た。どっかの家の塀に激突したらしい。それも正面からじゃなく、斜め角度から入ってしまったので勢いが消えず、そのままゴロゴロと坂道を転げていき、ようやく止まったと思ったら、後から滑り落ちてきた自転車が腕にのしかかってきた。

 あの、この世の終わりみたいな痛みが忘れられない。

「ねえ」

 麻路の声がして、顔をあげるともうバスが来ていた。後ろに並んでいた生徒たちが、おどおどした様子であたしたちを抜かして乗車している。そのままぼんやりしていたら、バスはあたしたちなんかそこにいないかのように扉を閉めて、とっとと発進してしまった。

 麻路が腰を上げて、時刻表を見る。

「次来るの、二十分後だけど」

「いいよ。そんなことより、麻路、見て」

 あたしはコートを脱ぐと、隣に戻ってきた麻路へ左腕をまくって見せた。ミミズを埋め込んだみたいな手術痕が、あたしの貧弱で青白い皮膚の上を這っている。

「これ、その時の。ここがパカって開いてて、白いのが、骨が見えてたの」

「……そんなに」

「あと、指先でなんかプラプラしてんな、って思ったら爪。剥がれかけてて。そのあたりにももう一枚、中指のが落ちてて。もうこれが、真っ赤に熱した鉄棒ねじこまれてるのかなってくらい痛くて」

「……」

「ごめん、なんかそんな感じで、チャリ見ると、思い出しちゃって……ダメ、なんだ」

 話すうちに気持ち悪さが上ってきてあたしは大きく息を吐いた。あーあ、話しちゃった。付き合い始めて一日目に話すことじゃないな、なんて後悔してみるものの、どこか他人事だった。それくらい頭がぼーっとしていた。目の前では相変わらず車がごうごうと行き交っているけど、じわじわ視界が暗くなって、音もどんどん遠ざかっていくような錯覚を覚える。息をしてもしても、したりない気がする。細胞がひとつずつ、苦しみに置き換わっていくような、猛烈な圧迫感があたしを内側からパンパンにしていくみたいで──。

 あれ、あたし、死ぬ……?

 と、切迫した冷たさが、錐みたいにあたしの恐怖心を衝いた時。

 左手に熱いものを感じた。

「碧子、大丈夫……」

 麻路があたしの腕を取って、心配そうにあたしの顔を覗き込んでいた。

 麻路の体温は高い。その熱が、あたしの一番敏感な部分に直接触れていて──咄嗟にあたしは、逃げるように腕を引っ込めた。麻路の手を振り払うみたいに。

「ご、ごめん、大丈夫、ちょっと思い出して、貧血っぽくなっただけ、だから」

「……私の方こそ、無理に訊いて、ごめんなさい」

 麻路は思い詰めた顔をしていた。あたしが振り払ったせいだ。

 違うのに。本当は──嬉しかったのに。だけど、心とは関係なく、身体の方が勝手に逃げてしまった。自分で晒しておいて、被害者みたいな態度で袖の中にしまい込む。何してんだ、あたし。あたしは、あたしのことを麻路に知ってほしかったんじゃないの? 心的にも身体的にも、もっと麻路に近づきたいんじゃないの。

 例えそれが、たった一ヶ月間の関係だとしても──。

「ねえ、麻路」

 あたしはぐるぐるする感情と、失調する意識の中でいっぱいいっぱいになりながら、縋りつくように言った。

「やっぱキツいから──胸借りてもいい?」

「……う、うん」

 麻路は頷いて、こっちに身体を向けた。あたしは腕を伸ばして背中に手を回し、ぎゅっと抱きつく。ふわっと銀色の香りが漂う。良い匂い。それを嗅ぐだけで、嫌なものがあたしの中からじんわりと抜けていく。

 あたしはもっと求めて麻路の胸に顔を押しつける。あいにく真冬で、制服とコート越しではあったけど、その奥の方、確かに麻路の胸の膨らみを感じる。藍子ほどじゃないけど、柔らかくて、包まれるみたいでヤバかった。頭の芯から別の熱っぽさがふつふつと上ってきて、現在進行形のねっとりとした気持ち悪さと絡み合い、狂おしさのカーニバルが始まる。なんか、これはこれで何かが起きて死にそう。あたしは深く呼吸を繰り返す。

 そのうち、麻路の身体から力が抜けていくのを感じた。緊張してた? そうかも知れない。そういう子だもん。そんな麻路の手がおずおずと、ゆっくりあたしの頭を抱いて撫でてくれる。気持ち良い。

 だけど──もっと欲しい。

 あたしは麻路の手を掴むと、その指先を首筋へと持っていく。初めて会った時、手をかけられ、殺されかけたその場所に。

「ここ、触ってて」

「……いいの」

「お願い」

 く、と麻路の指があたしの頸部に触れた。その指先に、トクトクとあたしの脈が当たるのがわかる。そうして自分に血が通っていることを感じていると、びっくりするほど心が清らかになっていった。自転車に乗れない恥ずかしさも、腕の傷も、恐怖も、不安も、全部全部、首から伝わる麻路の熱に溶かされて、なくなっていく──。

「ありがと。落ち着いた」

 やがて、あたしは麻路から身を離して言った。本当はずっと麻路の腕の中にいたかったけど、麻路の体温が熱すぎて耐えられず、あえなく撤退した。

「……これで良かったの?」

 麻路が心なしか火照った顔で訊いてくる。やっぱりスキンシップには慣れてないらしい。それでも涼しい表情を見せようとする気概は凄い。あたしはその牙城を崩したくなった。

「良かったよ。藍子……お姉ちゃんのおっぱいはデカすぎるから、下手すると窒息しそうになるんだけど、麻路のはちょうどよくて」

「あのね」

 今度はちゃんと赤くなって自分の身を抱く。愛いなあ。あたしは幸せを感じた。

「ま、そんな感じで自転車にトラウマがあって、二輪の乗り物に乗れない碧子ちゃんでした、っていう」

「……改めてだけど、辛い記憶を深掘りしてごめんなさい」

 麻路は無表情で言う。いや、この子の場合はこれで内心凹んでる。つまり、麻路はしょんぼりして言った、と表現を変えなくちゃいけない。あたしは首を振った。

「違う違う。こういう時は『話してくれてありがとう』って言うの」

「で、でも……私のせいで碧子が気分を……」

「知ろうとしてくれたんでしょ、あたしのこと」

 そう告げると、麻路は文字通りに「はっ」と息を呑んだ。それからおずおずと口を開く。

「辛いことだったのに、話してくれて……ありがとう」

「へへ、いいよ。というか……正直、怪我ももちろん痛くてヤバかったけど、それ以上に周りの反応が辛くってさ」

「周り?」

「そうそう。ママもパパも半狂乱でワンワン泣くし、めちゃくちゃ仲悪かったお姉ちゃんも、骨折れてるっつってんのに、血相変えてでけーおっぱい押しつけてくるし、親戚もシフト組んでんのかってくらいひっきりなしに心配そうに見舞いに来るし……なんか、それを見てたら辛くなってきちゃって」

「……大事に思われてるってことじゃない」

「それはわかってる。もちろん、それが嫌ってわけじゃなかったんだけど……何か、このまま今までの日常が戻ってこなくなって、これからずっと、みんなそういう態度のままになっちゃうんじゃないかって不安になったっていうか……うーん、何が言いたいのかわからなくなってきた。麻路、この感じ、わかる?」

 麻路はすぐに返事をしなかった。つんと澄ました顔で車の往来を見つめている。今のあたしながら、麻路が考え込んでいるとわかる。あたしはその横顔をじっと見つめて言葉を待った。

 そのうち、別の新たな帰りの生徒たちがバス停にやって来て、あたしたちを見てぎょっとしてそれからスマホを取り出すのが見える。いいよ。たんと書き込んでくれ。あたしと麻路が、ここで会話していることをしっかり記録に残してくれ。

「私にはわからない。でも、碧子は……優しい人ね」

 やがて、麻路はそうとしか言いようがないという風に言った。優しい? どこをどうとってそう感じたんだろう。全然しっくりこない。

「優しいか? あたし。なんもかも自己満だよ」

「……私と付き合ってることも?」

「うん。はっきり言って、高校生の間に学校でこんなことできるなんて思ってもみなかった。だから、すごく今、ワクワクしてるんだよ」

 恋愛をしていると知られれば、芸能人ばりにラルヴァに書き立てられてしまうような学校で、あたしはあたしの好きな女と校内で会い、話して、その隣を独占できる。もちろん、そうする目的はあるわけだけど──その目的以上に、麻路と付き合うという手段が、あたしにとっては至福だった。

「あたしは誰からどう見られるとか関係なく、単にあたしらしくいたい。したいことをしたい。それだけのワガママなガキなんだ。優しくなんてない」

 あたしが言い切ると、麻路は少しだけ目を伏せ、それからぽつりと言った。

「そんなこと、ないと思うけど……」

「……まあ、麻路にそう思われてるなら悪い気分じゃないかな」

 なんて微妙な意地の張り合いをしているうちに次のバスがやってきて、あたしたちの前に停まった。あたしはぴょんとベンチから立ち上がる。

「ごめん、話聞いてくれてありがと。そんじゃまたね、麻路」

「うん。また明日」

 あたしたちはまるで慣れたようにいとまを告げて、自然に別れた。

 後ろの方の席に着いたあたしは、スマホを出してラルヴァを見た。案の定、バス停での出来事は暴露されていて「兎褄と朝烏が抱き合ってるの見た!」「いつの間にそんなバカップルなの?」「そんな見られたいのか……」「いつから? やっぱ朝烏が髪染めた時から?」とか遠慮のないやり取りが行われていた。あたしにとっては、バシャバシャ跳ねる池の鯉たちにパン屑を撒いてやってるみたいで愉快でしかない。片っ端からリアクションをしてやる。

 なんて調子でスマホを凝視してたら、帰路の後半はバス酔いしてしまってダメだった。あたしのこういうところは、チャリでコケても、うっかり死んでも変わらないかも。

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