第5話:金になる死、ならない死

師走の冷たい雨が窓を叩く音が、「縁の手」事務所に響いていた。良太は静かに茶を啜りながら、事務所の奥に新しく設けた個室を見つめていた。その部屋は「相談室」と名付けられ、依頼者との面談に使われるようになっていた。


テレビからは、JJテクノロジーに関するニュースが流れていた。


「政府の機密情報システムにおける重大なセキュリティ問題を内部告発したJJテクノロジーの故・櫻井誠一元取締役の遺志を継ぎ、今国会で『内部告発者保護強化法案』が可決される見通しとなりました。この法案は、『櫻井法』とも呼ばれ...」


良太はリモコンでテレビを消した。櫻井の「死」から一ヶ月。彼の告発は社会に大きな影響を与えていた。会社の経営陣は刑事告発され、政府のセキュリティ体制の抜本的見直しが始まっていた。一方、櫻井本人は今頃、南米のどこかで新しい身分で暮らしているはずだ。


彼の家族については、良太は時々ニュースや五十嵐からの情報で状況を確認していた。妻は強い女性のようで、周囲の支援を受けながら息子を育てている。櫻井が弁護士に託した遺書と共に、特殊なデジタルタイムカプセルサービスを利用して5年後に届くメールの設定も完了していた。このサービスは二重認証と公証人の立会いで設定され、指定日時にのみ送信されるシステムだ。それが彼の家族に真実を伝える橋渡しになるはずだった。


ノックの音がして、若い女性が顔を覗かせた。


「先輩、村上さんがいらっしゃいました」


声の主は優花(24歳)。社会福祉士の資格を持ち、半年前から良太のNPOで働き始めた女性だ。真面目で熱心、そして何より清廉潔白な心を持つ彼女は、良太にとって光のような存在だった。


優花が事務所に来てから、良太は自分の秘密の活動に対して以前よりも罪悪感を覚えるようになっていた。彼女のような純粋な人間を欺き続けることが、日に日に重荷となっていた。いつか彼女に真実を打ち明ける日は来るのだろうか。それとも永遠に「縁の手」の表の顔だけを見せ続けるのだろうか。


「わかった、通してくれ」


優花はドアを開け、杖をついた老人を案内した。


「村上様です。お茶をお持ちします」彼女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。


「村上さん、お待ちしていました」良太は立ち上がって老人を迎えた。


村上治(78歳)は、かつて町工場を経営していた男だ。今は年金暮らし。身なりはきちんとしているが、杖をつく手は震え、顔色は優れなかった。


「すみませんね、こんな年寄りの相談に乗ってくれて」村上は座りながら言った。


「いえ、どんなことでもお聞かせください」


村上は周囲を見回し、優花が戻ってくる気配がないのを確認すると、声を落として話し始めた。


「私は...死ぬ準備をしています」


良太はわずかに身を乗り出した。これまでの依頼者と違う雰囲気を感じた。


「どういうことですか?」


「余命三ヶ月です。すい臓がんの末期です」


「それは...お気の毒に」


「いいんですよ」村上は笑顔を見せた。「長生きしました。悔いはありません」


村上は内ポケットから封筒を取り出した。


「これは前払いです。50万円あります」


良太は困惑した。「何のお金でしょうか?」


「私の『死』を買ってもらうお金です」


「すみません、よく意味が...」


「私の話を聞いてください」村上は真剣な表情になった。「私には甥がひとりいます。妹の息子ですが、私の会社を継いで工場を経営しています。しかし、最近はうまくいっていない。経営難です」


良太は黙って聞いていた。


「私には財産といえるものはありませんが、生命保険には入っています。1500万円の死亡保険金が甥に入るはずです」


「それで?」


「問題は、私が病死では保険金が全額おりないことです。契約から3年以内の病死は半額になってしまう」


良太は状況を理解し始めた。「つまり...」


「はい」村上はうなずいた。「私の死因を、別のものにしてほしいのです」


「それは難しいですよ」良太は眉をひそめた。「死亡診断書の内容を改ざんするのは犯罪です」


「改ざんではなく...別の方法です」村上は言った。「私が死ぬ前に、事故死や自殺と見せかける方法はないでしょうか。実際に死ぬのは私自身ですが、その『死に方』を変えたいのです」


良太は息を呑んだ。これはこれまでとは逆の依頼だった。「生きている人間に死んだことにしてほしい」ではなく、「まだ生きている間に自分の死に方を準備する」という依頼。


「五十嵐さんから話は聞いています」村上は続けた。「あなたがそういった...特殊な状況に詳しいと」


良太は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。雨はますます激しくなっていた。


「村上さん、お気持ちはわかります。しかし...」


「私には時間がないんです」村上の声は震えていた。「医療費がかさみ、年金では足りない。甥には迷惑をかけたくない。せめて、私の死が彼の役に立てば...」


「でもそれは保険金詐欺になります」


「詐欺ではない」村上は静かに言った。「ただ時期を早めるだけです。どのみち数ヶ月後には確実に死ぬのですから」


良太は心の中で激しく葛藤していた。これまでの依頼は、「死にたくない人を死なせないため」の嘘だった。しかし、これは純粋な金銭目的の詐欺ではないか。


「甥御さんとは、どのような関係なのですか?」良太は慎重に尋ねた。「よく連絡を取り合っているのですか?」


村上の表情がわずかに曇った。「最近は...あまり来てくれません。忙しいようで」


「保険金のことは、甥御さんも知っているのですか?」


「いいえ」村上は首を振った。「私から話したことはありません」


良太は不審に思った。甥は工場経営に苦しんでいるという話だが、それならなぜ叔父に会いに来ないのか。そして村上は保険金のことを甥に伝えていないというが、それでは本当に甥のためを思っての行動と言えるのか。


「治療に専念されては?」良太は言った。「奇跡もあるかもしれません」


「奇跡を待つほど、私はロマンチストではありません」村上は薄く笑った。「現実主義者です。死は受け入れている。ただ、その死を無駄にしたくないだけです」


良太が返答に窮していると、ドアが開き、優花がお茶を持って入ってきた。


「お待たせしました」彼女は明るく言って、老人の前にお茶を置いた。「冷えますから、温かいものをどうぞ」


村上は優花に笑顔を向けた。その表情には、苦痛や病の影は見えなかった。


「ありがとう、お嬢さん。親切にしてくれて」


優花は丁寧に一礼して退室した。彼女には、この会話の本当の内容は知らされていなかった。優花は無縁仏の供養と支援という「縁の手」の表の活動だけに携わっていた。


良太は優花の後ろ姿を見送りながら、いつか彼女に真実を話さなければならない日が来ることを感じていた。このような二重生活は永遠に続けられるものではない。特に彼女のような鋭い感性を持つ人間には、やがて気づかれてしまうだろう。


「良い子ですね」村上は優花が去った後、言った。「そういう若い人のためにも...世の中には秩序が必要なんです」


良太は眉をひそめた。「どういう意味ですか?」


「世の中には、表と裏がある。それは秩序のためなんです」村上はお茶を啜った。「あなたのような...隙間を埋める仕事も、世の中には必要なんだ」


良太は黙って座り直した。「50万円は何に使うおつもりですか?」


「今月分の医療費です」村上は淡々と答えた。「保険は効かない高額な治療もあるんです。痛みを和らげるだけですがね」


「その医療費は、甥御さんは出してくれないのですか?」良太はさらに掘り下げた。


村上は一瞬、目を逸らした。「頼みにくくて...彼も経営で精一杯ですから」


良太は村上の言葉に矛盾を感じた。甥のために保険金を残したいという一方で、現在の医療費の援助は受けていないという。本当に甥との関係は良好なのか。あるいは、村上の話には何か隠された部分があるのではないか。


良太は深く息を吐いた。村上の提案は確かに犯罪だ。しかし彼の状況と動機には、真実を確かめる必要があった。


「考えさせてください」良太はようやく口を開いた。「一度、五十嵐さんとも相談します」


「ありがとう」村上は安心したように頷いた。「焦らせてすまない。でも...」


「わかっています」良太は言った。「お時間がないことは」


---


「絶対に嫌です」


その夜、閉店後の小さな居酒屋で、優花は良太に向かって強く言った。彼女の前には、ほとんど手をつけていない生ビールがあった。


「優花ちゃん、声が大きいよ」良太はグラスを傾けながら言った。「何の話だか、周りにばれちゃうよ」


「だって...」優花は声を落とした。「これは完全に詐欺です。犯罪です」


良太は村上の件を優花に相談していた。もちろん表向きは「仮定の話」として。しかし優花は鋭く、真相を見抜いていた。


「でも、もう末期がんで余命わずかな人が、せめて家族のために...」


「それでも詐欺は詐欺です」優花は食い下がった。「私たちは無縁仏を弔うNPOであって、保険金詐欺の片棒を担ぐ組織ではありません」


その言葉に、良太は胸に痛みを感じた。彼女の目には、「縁の手」はまだ純粋な支援団体だった。良太たちが行っている「失踪支援」のことは知らされていない。しかしそれも、いつまで隠し続けられるだろうか。


「先輩」優花は急に真剣な表情になった。「本当は何か隠していることがありますよね」


良太は驚いて顔を上げた。「何を言ってるんだ?」


「最近、夜遅くに事務所に戻ると、知らない人の書類が机に置いてあったり」優花は静かに言った。「それに、五十嵐さんという方から何度も電話がありますし...」


良太は言葉に詰まった。優花は既に何かを感じ取っていたのだ。


「ごめん、仮定の話だから」良太は再び誤魔化した。「ニュースで似たような話を聞いて、どう思うかと思って」


優花はしばらく良太の顔を見つめていたが、やがて肩の力を抜いた。


「先輩...最近、変わりました」


「何が?」


「先輩の目」優花は真剣な表情で言った。「何か...重いものを抱えているみたい」


良太は言葉に詰まった。この純粋な女性の前では、嘘をつくのが辛かった。いつか、彼女に全てを話す日が来るのだろうか。それとも永遠に隠し続けるのだろうか。


「ただ忙しいだけだよ」良太は笑顔を作った。「無縁仏が増えてるからね」


「それだけじゃない気がします」優花は諦めずに言った。「先輩、なんでも話してください。私、力になりたいんです」


良太は優花の真っ直ぐな目を見つめた。彼女の純粋さを汚したくなかった。しかし同時に、彼女を永遠に欺き続けることもできないと感じていた。


「ありがとう」良太は言った。「でも大丈夫だよ。心配しないで」


胸の奥では、別の言葉が渦巻いていた。「いつか話す。いつか全て打ち明ける」


---


「村上さんの件、どうする?」


翌日、良太と五十嵐は山谷の公園で話していた。冬の日差しは弱く、二人のベンチに冷たい光を投げかけていた。


「難しい案件だな」五十嵐は言った。「こういう『事前予約』は初めてだ」


「倫理的にどうなんだ?」良太は真剣に尋ねた。「これまでは人を救うための嘘だった。でも今回は金のためだ」


「金のためではない」五十嵐は首を振った。「村上さんは、自分の死に意味を与えたいだけだ」


「それでも保険金詐欺には変わりない」


「世の中には、様々な『隙間』がある」五十嵐は遠くを見ながら言った。「保険会社という大きな組織と、死を迎える一個人。どちらが救われるべきか」


良太は黙って考え込んだ。


「しかし、私から一つ忠告がある」五十嵐は真剣な表情になった。「自分のガイドラインを忘れるな」


良太は驚いた。「えっ?」


「第二条だったか」五十嵐は空を見上げながら言った。「『依頼者の真の動機と目的を徹底的に精査すること』だろう」


「覚えているんだな」良太は苦笑した。


「村上さんの目的は本当に甥のためだけなのか?」五十嵐は鋭く問いかけた。「彼には子供がいるのか?他に家族は?彼の死後、誰が保険金を受け取るのか、本当に甥なのか?」


良太は息を呑んだ。確かに彼は、村上の話を深く掘り下げていなかった。


「気になる点がある」良太は言った。「村上さんは甥のために保険金を残したいと言うが、現在の医療費は甥に頼まないという。それに、甥はあまり会いに来ないらしい」


「そうか...」五十嵐は考え込んだ。「それは確かに不自然だな」


「調べてみる必要がありそうだ」


「賛成だ」五十嵐は頷いた。「ちなみに、彼の甥の名前は?」


「村上...確か健太郎というはずだ」


五十嵐はメモを取った。「工場の名前は?」


「聞いていない」良太は首を振った。「詳しく聞き出す必要があるな」


「詐欺師には様々なタイプがいる」五十嵐は静かに言った。「善人の仮面をかぶった詐欺師もね」


「そうか...」良太は不安になった。「徹底的に調べる」


「それに」五十嵐は続けた。「技術的な問題もある。末期がんの患者が自殺や事故死を演じるのは難しい。彼には体力が残っているのか?医師から受ける監視はどうなっている?偽装の露見リスクは高いぞ」


「なるほど...」


「私の直感だが」五十嵐は言った。「彼の話には何か欠けているものがある。もう少し掘り下げてみるべきだ」


良太は頷いた。「村上さんにはまず保留と伝え、その間に甥の件を調査しよう」


五十嵐は同意した。「賢明な判断だ」


---


「もう少しお時間をいただきたいと思います」


翌日、良太は村上に連絡した。


「そうですか...」村上は電話越しに落胆の声を漏らした。「何か問題でも?」


「いいえ、ただ詳細な段取りを考える必要があるので」良太はごまかした。「それと、もう少し甥御さんについてお聞かせいただけませんか?工場の名前や場所など」


「あ...」村上の声に一瞬の躊躇があった。「村上鉄工所です。台東区の...」


良太は詳細な情報をメモに取った。


電話を切った後、すぐに五十嵐に連絡した。「調べてほしい情報がある」


---


二日後、五十嵐から連絡があった。良太は急いで待ち合わせ場所へ向かった。


「わかったことがある」五十嵐は資料のファイルを差し出した。「村上鉄工所は存在する。しかし、社長は村上健太郎ではなく、田中という人物だ」


「どういうことだ?」


「村上健太郎という人物は確かに存在するが」五十嵐は続けた。「彼は工場経営者ではなく、賭博場の運営に関わっている。警察の監視対象だ」


良太は驚いた。「村上さんの甥は...」


「ヤクザの構成員ではないが、周辺人物だ」五十嵐は静かに言った。「そして重要なのは、彼が何人かの高齢者から金を巻き上げた疑いがあること。いわゆる『オレオレ詐欺』の上位版だ」


良太は頭を抱えた。村上の話に疑わしい点があったのは正しかった。


「さらに調べると」五十嵐は続けた。「村上治という老人は確かに末期がんだが、彼の生命保険は最近になって契約内容が変更されている。受取人が『甥の健太郎』に変更され、保険金額も引き上げられた」


「騙されていたのか...」


「正確には、村上さん自身が騙されている可能性が高い」五十嵐は言った。「健太郎が叔父を利用して保険金を騙し取ろうとしている。おそらく、村上さんに『死に方』を変えさせることで」


「そして俺たちもその片棒を担がされるところだったのか」良太は怒りを覚えた。


「我々のガイドラインが機能したわけだ」五十嵐は満足げに言った。「第二条が村上さんと我々両方を救った」


良太は深く息を吐いた。「村上さんには真実を伝えるべきか?」


「それは難しい判断だ」五十嵐は言った。「末期の病の人に、甥の裏切りを告げるのは残酷かもしれない。しかし、彼が騙されたまま死ぬのも、また残酷だ」


「考えさせてくれ」良太は言った。


---


「お断りします」


翌日、良太は村上に結論を伝えた。


「そうですか...」村上は落胆の表情を浮かべた。「理由は?」


「いくつかあります」良太は静かに言った。「まず倫理的に難しい。そして技術的にも、あなたの状況では...」


良太は一瞬、真実を告げるべきか迷った。しかし村上の穏やかな表情を見て、言葉を飲み込んだ。


「わかりました」村上は諦めたように頷いた。「無理なことを頼んでしまって申し訳ない」


良太は封筒を村上に返そうとした。しかし村上は手を振った。


「それは取ってください。無縁仏の供養に使ってください」


「でも...」


「私の気持ちです」村上は微笑んだ。「私も、誰にも看取られずに死ぬ人の気持ちがわかります。同じ『死』でも、扱いが違うのは寂しいものです」


良太はその言葉に心を打たれた。確かに、この世界には「金になる死」と「ならない死」があった。同じ人間の命なのに、その価値に差があるという残酷な現実。


「村上さん」良太は決意を込めて言った。「あなたが...その時を迎えたら、私たちがしっかりと見送ります。誰にも弔われない死はありません」


村上は感謝の表情を浮かべた。「それだけで十分です」


良太は村上を見送った後、五十嵐に電話をかけた。


「真実は伝えなかった」良太は報告した。「彼の残された時間を平穏に過ごさせてやりたい」


「わかった」五十嵐は言った。「しかし、健太郎には何らかの対応が必要だろう」


「それは頼む」良太は言った。「ただし、法的な範囲内でだ」


「任せてくれ」五十嵐の声には確信があった。「詐欺師には、詐欺師の対処法がある」


---


村上が帰った後、良太は封筒を開けた。約束通り50万円が入っていた。このお金をどうするか。無縁仏の供養に使うべきか。それとも返すべきか。


「縁の手」事務所の扉が開き、優花が戻ってきた。彼女はスーパーの袋を手に持ち、事務所の小さなキッチンスペースに向かった。


「先輩、お昼ご飯作りますね」彼女は明るく言った。「今日は温かいおでんにしましょう」


「ありがとう」良太は微笑んだ。


優花は手際よく調理を始めた。良太は彼女の背中を見つめながら、「失踪支援ガイドライン」のノートを取り出し、新たな条項を追加した。


「第五条:金銭的利益のみを目的とする依頼は受けない。生命や尊厳を守る目的がない限り、支援はしない」


その下に、さらに続けて書いた。

「第六条:依頼者だけでなく、関係者全ての事情を徹底的に調査すること。表面上の動機だけで判断しない」


優花が振り返り、良太のノートに気づいた。「何を書いてるんですか?」


良太は一瞬躊躇った後、決断した。


「実は...私の個人的な仕事の指針だよ」彼はノートを閉じなかった。「こういうガイドラインを作っているんだ」


「へぇ、見せてもらってもいいですか?」優花は興味を示した。


「今はまだ...」良太は言葉を選んだ。「もう少し整理してからね」


優花は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は問わなかった。「わかりました。でも、いつか見せてくださいね」


「ああ、約束する」良太は真剣に言った。永遠に隠し続けることはできないと、彼は感じていた。いつか、すべてを打ち明ける日が来るだろう。


優花は台所に戻り、調理を続けた。良太はふと、彼女が事務所の片隅で無縁仏の遺影に花を供えている姿を思い出した。一人一人に声をかけるように、遺影の前で手を合わせる彼女の姿。


「誰にも弔われない死はない」


良太は心の中で繰り返した。この世界には「価値ある死」と「価値なき死」があるのではない。すべての死には尊厳があり、すべての生には価値がある。


彼は封筒を見つめた。このお金を無縁仏の供養に使うことは、「金になる死」と「ならない死」の境界を少しだけ溶かすことになるのかもしれない。


窓の外では、冬の日が傾き始めていた。影が長く伸び、事務所の壁に映る無縁仏たちの遺影が、夕日に照らされて金色に輝いていた。


良太の携帯電話が鳴った。見知らぬ番号からだった。


「もしもし、中野です」


「中野さん」低い男性の声が聞こえた。「山本と申します。あなたのことは五十嵐さんから聞きました。ある...特殊な事情があって、お会いしたいのですが」


良太は一瞬躊躇した。村上の件で警戒心が高まっていたが、この声には切迫感があった。


「どんなご用件でしょうか?」


「私の娘が...」男の声が震えた。「DVから逃れる必要があるんです。警察は役に立ちません。娘は...殺されるかもしれない」


良太は「失踪支援ガイドライン」の第一条を思い出した。「支援対象は、生命や身体の危険にさらされている者に限る」


「わかりました。お会いしましょう」


電話を切った後、良太は窓辺に立ち、夕焼けを見つめた。彼は再び行動を始めようとしていた。人を救うために。今度は、村上の件で学んだ教訓を活かして、より慎重に調査を行うつもりだった。


「先輩、おでんできましたよ」優花の明るい声が彼の思考を中断させた。


「ありがとう」良太は振り返り、笑顔を作った。


優花は良太の表情に何かを感じ取ったようだった。「何か...心配事でもありますか?」


良太は一瞬、すべてを打ち明けたい衝動に駆られた。二つの顔を持つ生活の重みに、時に耐えられなくなることがあった。しかし同時に、優花を暗い世界に引きずり込みたくないという気持ちも強かった。


「ただの仕事の相談だよ」良太は半分だけ本当のことを言った。「DVの被害者を支援できないかという問い合わせさ」


優花の目が輝いた。「私も力になれることがあれば、ぜひ言ってください。福祉士としての知識が役立つかもしれません」


良太は彼女の申し出に、複雑な感情を抱いた。優花の専門知識は確かに貴重だ。しかし「縁の手」の闇の部分に彼女を巻き込むことは、彼女の純粋さを汚すことになるのではないか。


「ありがとう」良太は静かに言った。「その時が来たら、相談させてもらうよ」


その「時」は、彼が思っていたよりも早く訪れるかもしれないと、良太は感じていた。


背後の壁に並ぶ無縁仏たちの遺影が、静かに彼を見守っていた。まるで「正しい道を歩め」と諭すかのように。

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