第八話 第二回合評会(2/5)

 「次は、太会さんの『恋のハンドルは握らせてもらえない』。関係性の解釈や、語り手への距離感について意見を聞かせてください」


 この作品は、語り手・私と、性格の良い女友達・タマミが大学生活を送る。タマミと、「私」の好きだった男・ユウトが付き合うも、最終的に破局する話だ。


『 そういえば昔、恋のハンドルは奪えって言われたことがあるけど、私はずっと、横で見てるだけの女だ。


 なんとなくわかってたのに、この位置に座ると、ほんの少しだけ勘違いしそうになる。


 ほんの少しだけ、好きだなと思った。』


 ここ、共感できた。あの、“ほんの少しだけ”好きだなって思う感覚。

 勘違いでも、思い込みでも、ちゃんと気持ちとして残る。

 太会さんのこの語りは、どこか私にも似ているような気がした。


『 彼女の隣にはユウトがいて、なにかを静かに話していた。

 声は聞こえなかったけど、言葉よりも先に、タマミの頬を伝う涙の方が真っ直ぐだった。


 あの子にも、泣くことがあるんだ――って、そんなの当たり前なのに、私の中には、今までそんな想像すらなかった。


 “性格のいい女”には、涙は似合わないと思ってた。


 違った。


 あの子は、ちゃんと人間だった。


 私は立ち止まらずに、そのまま歩いた。

 見てないふりをして、ただ通り過ぎた。


 でも、あのとき。

 私は、そのとき初めて、あの子をちゃんと好きになれた気がした。』


 ……最初は、“性格のいい女”と爽やかで少しビターな大学生活を描いた話だと思った。でも、途中から、その語り手の目線そのものが、どんどん濁っていく。“無害な強さ”への羨望と苛立ちと、でも嫌いにはなりきれない気持ち。それが、最後の涙のシーンで、やっと肯定に変わっていく。その変化がすごく静かで……でも、ちゃんと届いた気がした。


 「こういうのって、気づかれないように怒って、気づかれないように傷ついて、でも、気づかないふりをしてる自分も嫌になって……」。そういう、言葉にしづらいモヤモヤを、ものすごく器用に形にされてしまった感じ。やっぱり太会さんってずるいなあ、って、思った。


 「はいっ!」と宮北が相変わらず、感想を真っ先に言う。


「えっと……あの、“助手席”のところ、めっちゃ刺さりました」


 助手席のところ。好きな人の隣の席を確保するために、早めに動くことができなかった「私」のシーンだ。


「ふ~ん? ほんとに?」


 太会さんが半目になって問う。


「はい……わたし、ああいう場面ですぐ動けないタイプなので……、すごく“ある”なって思って……」


 宮北は、言葉を選ぶように目線を伏せてから、ぽつりと言った。


「……最初、“性格のいい子”を揶揄してるだけかと思ったけど……最後、泣くのを見て、その子のことを“好きになれた”って言ったのが……よかった、です。嫌って終わらないのが……」


 それから少しだけ沈黙があって、言う。


「あの、勝手な読み方かもしれないんですけど……この“好き”って、“赦す”って意味じゃないんですよね? ただ、その子を……ちゃんと見ようとしたっていう。……私は、こういうの、好きです。すごく」


 宮北は「ちゃんと人間を見ること」を読み取ったのであろう。そして、最後の“好きになれた気がした”の抑制された表現の誠実さを、深く評価していた。


「はい」


 次に男川さんが手を挙げる。


「感情の推移をあえて明文化せず、関係性の輪郭だけで語る選択に誠実さを感じました。“好き”を口に出さずに、助手席という位置や距離感で語らせたこと、“性格がいい”という言葉の反復と、そこに滲む苛立ちが、この作品の倫理を担っていた気がします。優しさの表層を疑う視線には、自己嫌悪と共感が入り混じっていて、“見てないふりをして通り過ぎた”というラストの距離のとり方に、この語り手の精一杯の強さがあったと思います」


 今回は、男川さんは太会さんへのお説教をしなかった。この作品が倫理的に見える理由――それは「感情に抗うことではなく、感情に対してどう責任を持つか」「優しさに見えるものに潜むズレを、どう見抜くか」「他者を“概念”から“人間”として見直す瞬間があること」。それを彼女は高く評価しているようだった。


 「ほほぉ、光栄だわ、部長サン」と太会さんは軽く返した。


 ……二島さんのことだから「他に感想のある方」なんて言わずにまとめに入りそうだな。もう、この間までの私とは違うんだ。


「はい」


 私は手を挙げる。太会さんが、パチクリと瞬きをした。


「あの……最後の、“性格のいい子”をちゃんと好きになれるっていう終わり方が、すごく印象に残りました。読み終わったあと、語り手の感情の変化をちゃんと信じられたというか……その、嫌いになれない気持ちをずっと見せてたのに、そこでやっと“好き”って言えるのが、すごく綺麗だと思いました……」

「……へえぇ~~」


 太会さんが、また半目になった。じとり、と。私は恥ずかしくなって、顔を逸らした。沈黙。


「ありがとうございます。皆さんのご意見からは、語り手の“好き”という感情が、単なる恋愛感情ではなく、相手を“概念”として見ていたまなざしから、“人間”として捉え直す視線へと変わる過程に評価が集まっていたように感じます」


 二島さんが、まとめに入る。


「また、“助手席”や“性格のいい子”という繰り返される語の中に、感情の揺れとそれに抗わない語り手の在り方が見えていた、とも言えるかもしれません。それらの読みのすべてが、“赦し”ではなく“見ようとしたこと”への共感に向いていた、というのが印象的でした。──以上です」


「──ってことに、されちゃうんですね。ま、それで収まるなら、どうぞご自由に。私は“好き”なんて書いたつもり、なかったけど。それって“倫理的な作品”ってまとめれば、ちょっと綺麗になる、って話だよね。ほんと、本質が見えてない子なんだから」


 太会さんが、二島さんのまとめに喧嘩を吹っ掛けた。


「は?」


 二島さんが冷たい声で返す。太会さんの方を見ないまま、手元の冊子をぱら、と捲った。


「本質って、誰のですか?」


「語り手の、に決まってるでしょ。そっちの勝手な共感の眼差しで、“倫理”とか“成長”とか括られるの、気持ち悪いんだけど」


「それは“括られた”のではなく、“読まれた”のでは?」


 その言葉に、空気が一瞬だけ凍る。


「……あのさ、読まれたくないことを、わざと出してるときってあるじゃん?」


 太会さんの声に、刺が混じる。笑っていた口元が、今は真一文字だった。


「ちゃんと読まれるより、“見落とされる自由”を選びたかっただけだよ。わかってくれない?」


「“読まれたくないなら書かない”が原則でしょ。それでも書くのは、誰かに届いてもいいと、どこかで思ってるからだと思いますよ」


 “読まれたくないなら書かない”──そうだと思う。前回の私は、それが怖くて“白紙”にした。でも今回は、それでもいい、と思えた。“届かなくても、読まれても、どっちでも”と思えた。


「じゃあ、“書く人間は読まれる責任を全部負え”ってわけ? きれいなまとめして、納得できなかったら“書いたあんたが悪い”って?」


「そうは言ってません。でも、“まとめられること”への怒りって、時々、単なる自己愛の痛みにすり替わるじゃないですか」


「……あんた、ほんとそういうとこ、冷たいね」


「あなたは、私のこと、熱いと思ってたんですか?」


 う、うわぁ……!! またマジモンの喧嘩してる……!!

 二島さんと太会さんの声が、ぱちん、とぶつかる。空気がしん……と沈黙していくのがわかる。


 私は何も言えなかった。二人の言ってること、どちらも間違っていない。でも、たぶん、その正しさでどちらかを押し潰すとしたら、今この空気が壊れる。

 “私は書いた。でも、全部を読まれたいわけじゃなかった。”そんな気持ち、知ってる気がする。


 なのに私は、前回“白紙”で出した。

 それを考えた瞬間、口が勝手に動いた。


「……あの、すみません」


 全員がこちらを向いた。太会さんも、二島さんも。私は、一拍おいてから、言葉を継ぐ。


「二島さんのまとめも……太会さんの違和感も、どっちもあると思います。“読まれること”と“見逃してもらうこと”って、たぶんどっちも、書き手にとって必要で……」


 それでも言葉が足りない気がして、私は目を伏せた。


「……だから、今日は、どちらの言葉も大事にしたいし、書いた人の“沈黙”も、読んだ人の“読み”も、両方あっていい気がしてます」


 その場に、再び沈黙が走る。しばらくしてから、「……その通りね」と二島さんが頷いてくれた。太会さんは、目を逸らして腕を組む。


「……では、次に移りましょう」


 間をあけてから、二島さんがそう言った。声は変わらず淡々としているけれど、先ほどの小競り合いの余韻がまだ部屋に残っている。


「富戸さんの『加工された私たち』です。今回は、SNSをめぐるまなざしや、“写る”ことと“写らない”ことの線引きが、どう描かれていたか──そんな視点からのご意見をお待ちしています」


 冊子のページをめくる。富戸ちゃんの作品が目に飛び込んできた。

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