太会『恋のハンドルは握らせてもらえない』

 

 タマミのことを最初に「性格いいな」と思ったのは、学食で春巻きを半分くれたときだった。

 「カロリー気になるから」って笑ってたけど、あれは多分、私が黙ってたから。


 黙ってる女には、何かを渡すと優しくなったような気がする。

 タマミは、そういうのが上手だった。


 私はそういうのが、全然できなかった。



 タマミとは、大学に入ってからなんとなくつるむようになった。

 特に約束もせずに一緒に食べて、一緒に帰る。

 LINEでやりとりするほどでもないのに、なぜか毎週のように顔を合わせてた。


「この大学、校舎だけはキレイだよね」

「それ、言う人だいたい中身に不満あるやつ」


 そんなふうに、しょうもないことを言い合って、ロータリーのベンチでプリン食べたり、エモい写真を撮ったりしていた。

 “女友達”っていう言葉が、やっと似合うようになってきたなと思ってた。


 そんな日の午後だった。


「おーい」


 遠くから声がして、振り返ると、ユウトとケンが歩いてきた。

 ユウトは、私が一年のときから好きだった人。

 いや、正確には“好きだったまま、何もしないでいる人”。


「なにしてんの?」と、ユウトが聞く。

「太陽に殺されてる」と、タマミが答える。

「じゃあ、沈むとこ見に行く?」と、ケンが乗ってきて、

「それなに、詩人?」ってタマミが笑って、

 そのまま、四人でドライブに行くことになった。


 「なにそれ~」と笑いながらも、私は内心ちょっと焦っていた。

 タマミとユウトが、並んで歩いている。

 それだけで、もうこの計画、間違ってる気がしていた。



 待ち合わせは、駅前のロータリーだった。

 車はユウトのやつ。意外とちゃんと洗車してて、それがなんかちょっとムカついた。


 「助手席、空いてるよ〜」ってケンが言ったとき、私は反応が遅れて、結局タマミが「じゃあうち乗っちゃお〜」って先にドアを開けた。


 後部座席のドアを開けかけたところで、ユウトが「そっち、狭いかも」とか言って、なんとなく私が助手席に回る流れになった。


――あれ? なんで私が助手席なんだろう。

自分で決めたはずじゃないのに、そう見えてしまうのが怖かった。


たぶん、ただの位置の問題。

でも、その“たぶん”がめちゃくちゃ刺さる。


 私は、静かにドアを閉めて、シートベルトを締めた。

 ユウトの指がエンジンキーをひねるのが見えた。

 タマミとケンは後ろでまだ笑ってて、何の話題だったのかすら思い出せない。


「どこ行く?」とケンが言った。

「夕日、って言ってなかった?」とタマミが笑う。

「え、詩人かよ」とユウトが先日のタマミのようなことを言って、「うちらの青春始まるんじゃない?」と誰かがはしゃいだ。


 助手席の私は、何も言わなかった。


 ほんの少し、ハンドルを握るユウトの横顔を見て、“この距離”のことを考えた。


 そういえば昔、恋のハンドルは奪えって言われたことがあるけど、私はずっと、横で見てるだけの女だ。


 なんとなくわかってたのに、この位置に座ると、ほんの少しだけ勘違いしそうになる。


 ほんの少しだけ、好きだなと思った。


 車が走り出す。

 スピーカーから流れてきたのは、最近流行りのバンドだった。

 ユウトが「この曲、彼女が好きでさ」とか言って、ケンが「え、いたの?」と突っ込む。

 「いや、もういない」とユウトが笑うと、タマミが「うわ、怖っ」とか言って笑う。

 その笑いが、なんとなく悔しかった。


 助手席の私は、エアコンの風を手の甲で受けながら、ハンドルを握るユウトの指を横目で見ていた。

 白くて、指が長い。細かい傷がある。

 男の人の手が好きだと思ったのは、たぶんこの日が初めてだった。


 後ろから、ペットボトルが回ってくる。

 ケンが買った謎のドリンク。「飲む?」とタマミが私に聞いてくる。

 「いらない」と答えると、「偏食ぅ~」とケンが茶化して、タマミが笑う。

 私はただ、少しだけ笑い方を間違えた気がした。


「今日さ、夕日ちゃんと見られるかな?」とタマミが言う。

「雲あるから無理じゃね?」とユウトが返す。

「なんでそういうこと言うかなー」とか言いながらも、タマミの声には楽しそうな色があった。


 信号待ち。赤。

 ユウトがウインカーを出して、左折のタイミングをうかがっている。

 私はそのとき、ただその横顔を見ていた。

 ちょっとだけ頬が赤くて、まぶたに影が落ちてる。

 この人のこと、やっぱり好きなんだと思った。


 やがて車が海辺の駐車場に滑り込む。

 波の音が遠くで聞こえる。もう、陽は沈みかけていた。


 「やば、もう落ちる」とケンが言って、「いこいこ!」とタマミがドアを開ける。


 私も、静かにシートベルトを外した。

 ユウトが先に降りて、トランクを閉める。

 タマミがその後ろを小走りで追いかける。


 私は、一拍だけ遅れて降りた。

 砂利道にスニーカーの底が沈む。風が吹いて、髪が揺れた。


 四人のシルエットが、地面に伸びていた。

 それが、思ったよりも遠かった。


 それから何日かして、ユウトがタマミと付き合い始めた。


 別に、告白現場を見たとか、SNSで匂わせがあったとか、そういうのじゃない。

 ただ、空気が変わった。ふたりの間に、目配せの回数が増えた。

 タマミのヘアゴムがちょっとだけ新しくなった。

 ユウトの声が、彼女の前だと半トーンだけ柔らかくなった。


 全部、観察すればわかる程度のことだった。

 そして私は、その“観察”に全力を尽くしてしまっていた。


 ある日、タマミが言った。


「……気づいてた?」


「なにが?」


「わかんないけど、ユウトくんと付き合い始めたの、私に気づかれないようにしてくれてたでしょ?」


 って。


 私はそれに、うんとも言えず、なんとも言えず、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ頷いたと思う。


 でも、その“気づかれないようにした優しさ”こそが、一番むかついた。


 誰に気づかれたくなかったのかって、それって、私でしょ。


 私の感情が、めんどくさくなるのを恐れたのか、私に“気づかせない配慮”をしておけば、うまくいくと思ったのか。


 それとも、「貴方ってそういうの気にしない人だよね」って、勝手にラベリングして、処理済みの感情として置いていったのか。


 どっちにしても、雑だった。


 しかもそれを、まるで“優しさ”として受け取ってくれる前提で差し出してくるあたり、あの子はほんと、性格がいいなって思った。


 心底、むかついた。


 タマミは、道で人にぶつかっても謝れるタイプの女だった。

 しかも、「すみません」とかじゃなくて、「あ、ごめんなさい〜」って、ちょっと笑いながら言えるやつ。

 その“ごめんね”が、相手を責めない柔らかさを持ってるのが、また性格の良さっぽかった。


 それに、重い荷物を持ってる子がいたら、自然と声をかけられる。

 「持つよ〜」って、なんの見返りも求めない感じで、でもちゃんと“見てた”ってことを相手に伝えるのが上手かった。


 それが、すごいと思ってた。

 ……ほんとに。


 でも、あるときから、それが全部うるさくなった。


 「え、いいの?ありがとう〜」って言われてるタマミの声を聞くと、なぜか“ああ、またやってる”って思ってしまう。


 誰も気づかないうちに配慮して、誰にも嫌われないようにして、それでいてちゃんと「いい子」って呼ばれる場所に収まっていく感じが、なんだかすごく、計算に見えた。


 いや、違う。

 計算ですらないのかもしれない。

 あの子はきっと、本気でそうしてる。

 無意識で、無自覚で、でも、完璧に。


 だからこそ、タチが悪い。


 こっちは、努力して笑って、誤魔化して、負けて、我慢してんのに、タマミは“そういう人”として、最初から愛される場所に立ってる。


 「性格がいい」って、つまり、“無害でいられる強さ”のことなんだなって思った。


 そういうのを、心の底から羨ましいと思って、でも、ちゃんと“嫌い”にもなれなくて、ずるずると、濁った目で見続けている自分が、一番情けなかった。


 帰り道、キャンパスの裏手にあるベンチで、タマミが泣いていた。


 私は、見てしまった。


 彼女の隣にはユウトがいて、なにかを静かに話していた。

 声は聞こえなかったけど、言葉よりも先に、タマミの頬を伝う涙の方が真っ直ぐだった。


 あの子にも、泣くことがあるんだ――って、そんなの当たり前なのに、私の中には、今までそんな想像すらなかった。


 “性格のいい女”には、涙は似合わないと思ってた。


 違った。


 あの子は、ちゃんと人間だった。


 私は立ち止まらずに、そのまま歩いた。

 見てないふりをして、ただ通り過ぎた。


 でも、あのとき。

 私は、そのとき初めて、あの子をちゃんと好きになれた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る