第二話 第一回合評会 後編
「でははい、次は『夏の日と蝉』。えーっと、これは……うん、読んだ人は、わかると思うんだけど……なんだったんですかね」
夢崎さんの声が、少しだけ笑いを含んでいた。
私はこの作品、昨日の夜に読んだ。けれど今、こうして冊子をめくっても、なぜか中身が霧のように掴めない。印象があるのに、言葉にならない。言葉にしようとすると、手が滑る。
それも掌編だった。あらすじは、蝉を拾って飼う男の話。ラストは、なぜか翌朝死んでしまっていた蝉を冷蔵庫に入れる。文字数は少ないのに、読んでいて息が詰まる。いや、むしろ酸素が足りていない感じ。どこか、変だった。
『そいつの住むところは虫かごにした。虫かごじゃなくてもよかったけど、虫かごだった。』
ん? いや、意味はわかるけど……だから何?
『蝉、蝉かあ。そういえば、あの夏の日も八月だったなあ。入道雲がもくもくしていた。で、どうなったんだっけな。』
なんか、記憶喪失のポエムみたいになってきた。これは、シュールギャグ……? いや、私は笑えなかった。ただ、頭の中に「?」が渦巻いて、ページが進まなくなった。
『死体は墓っぽいものを作るでもなく捨てるでもなく、冷蔵庫に入れた。
蝉のこと、ちょっと忘れてて。冷蔵庫の奥で、まだ夏が固まってる。』
……。相変わらず、意味が分からない。うん。
我がサークルの、感想が鋭い二大巨頭・中本さんと男川さんを見ると、目を伏せ静観モードだ。中本さんのつけまつげは今日は白く、神秘的な雰囲気が出ていた。男川さんの黒い睫毛も長いが、あれは天然だろう。
「はーい、感想ある人~」
「は、はい!!」
「はい、宮北ちゃん」
夢崎さんが感想を募ると、また真っ先に宮北が手をあげた。
「えっと……」と一瞬だけ視線を落とし、それでも顔を上げて、宮北は言った。
「……セミさんが可哀そうだと思いました。えっと、以上です」
その言葉は、拍子抜けするほど素直だった。でも、もしかしたらあの場で、蝉にちゃんと目を向けたのは、彼女だけだったのかもしれない。
「プッ……フフフ」
音がした。視線を向けると、太会さんが口元を押さえて震えていた。肩が小刻みに揺れている。目が潤んでいる。
やがて、「くっくくく……!!」と腹を抱えてうずくまった。
夢崎さんはそれに釣られるように、「あっはははは!!」と大声で笑った。
「そうやね、かわいそうだね!! ……他に意見はなかね。次」
次って、そんな、あっさり……?
作者の子をちらりと見ると、彼女は項垂れていた。
あの姿を見て、なんとなく一年生だった頃の自分を思い出す。 私も、ポエムみたいな作品を出して、太会さんに笑われ、男川さんに「意味不明」と切り捨てられた。
でも……スルーされたことは、なかったかもしれない。今回、男川さんは何も反応しなかったし、太会さんは笑うだけ笑って、何も言わなかった。あれだけ爆笑していたのに、作品への言葉はひとつもない。そちらのほうが、きついのかもしれない。
「宮北ちゃんの『あなたへ』やね」
夢崎さんの声からは笑いの色が抜け、先ほどの空気に戻る。また、冊子をめくる。
『拝啓、と書き出してみたけれど、
あなたの名前は、まだ、わからないままです。』
あらすじは、受験期に匿名の手紙に救われた少女が、その手紙に返信する体で書かれたというもの。これも掌編小説だ。なんなら、次の私の作品もそうだ。
『わたしは、その言葉に救われました。その情熱に心が揺さぶられ、透明な雫が頬をつたいました。』
眩しかった。誰かに届かないけど語りたい、という創作の原点のような手紙だ。
『あなたの声が、いつかわたしに届いたように。
わたしのこの手紙も、どこかのあなたに、いつか届きますように。』
「は~い、感想ある人~」
宮北の作品は、私を負かした。この子の想いに完敗だ。いや、「負けた」なんて言葉すら生ぬるい。語ることの根っこから、引き剝がされるような読後だった。
でも「これは“感想を言わせるための作品”じゃない」って、思ってしまう。これ、なんかすごくわかる気がする。でも……「わかる」なんて言ったら、失礼かもしれない……。
でも私は、こんなふうに書けない。「救われました」とか、「届きますように」とか――そんな真正面からの言葉を、自分の口から出した瞬間に、全部が嘘になる気がする。
だからだろう。語ったら壊れる気がしたのは。
この作品は、解釈されることより、“信じられること”を望んでる。
読者を試してくるような語りじゃない。そういう文章に、私はいまだ出会ったことがなかった。私は、手を挙げなかった。語った瞬間に、壊れそうな気がしたから。この語りは、きっと“解釈”されることを望んでない。
そして、宮北のいる右隣が目に入らないように視線を左にやったとき、「はい」と田代さんが手を挙げた。
「……あの、言葉が綺麗で……すごく静かな気持ちになりました。なんか、“届かないかもしれないけど、それでも書く”っていうのが……わたしは、そういうの、勇気いるなって思って……すみません、うまく言えなくて……」
その言葉を聞いて、つい右を見た。宮北は、嬉しそうにはにかんでいた。
私も、その感想には「わかる」と思った。けれど、その「わかる」はあまりにも安易で、たった今語られた“想い”の深さには届いていない気がした。そう感じている自分が、恥ずかしかった。
「は~い」
続いて、太会さんが、だらりと手を上にする。
「え、なにあれ……素直すぎてビビる、って感じ。あたしがやったら絶対嘘っぽくなる。マジで真似できない。ってことです、はい」
太会さんにとって、“素直”はある種のスリルなのかもしれない。
彼女はいつも軽妙に話すけど、実は誰よりも、自分の言葉が嘘くさく響くことを恐れている。と、思う。多分。
だからこそ、宮北の語りに対するこの驚きは、本音なんだろう。茶化しながらも、彼女なりの最大級の敬意だ。
太会さんがそう述べたあとに、音もなく、男川さんが手を挙げた。
「感情表現が強い文章は、往々にして浅くなる傾向がありますが――これは違う。むしろ、感情の“根”が見えていたと思います。」
男川さんは、“感情”に一番慎重な人だ。「感情」を倫理と論理で律するのが、彼女の基本姿勢だ。
その彼女が、ここまで言い切ること自体、異例だった。
だからこそ、これは理屈ではなく、“見えた”から言ったのだとわかる。彼女が、語りの奥の奥に「根」を見た。それがすべてなんだと思った。
その次、手のひらを起こすように、中本さんも挙手する。
「……読んでよかった。そう思いました。」
一拍あいて、彼女は視線を伏せた。しかし、私たちはわかっていた。感想として中本さんが覚悟を持って紡ぐ言葉は終わりじゃないことを。そのまま、もう一度ゆっくり顔をあげる。
「たまに、こういう文章に出会えると、救われる気がします。」
言葉数は少ない。でも、中本さんの「読んでよかった」は、軽くない。彼女はいつも、作品の“あり方”そのものに反応する。「救われる」という言葉もきっと、自分の何かを思い出した上で出てきたんだ。その静かな重みが、この作品にとって、いちばんの答えなのかもしれない。
それから、追加として誰も手を挙げなかった。夢崎さんは「もうおらんようやね。宮北ちゃん、一言~」と発言を促した。
宮北は「えっと……提出して良かったと思いました! 読んでもらえて嬉しいです!」とにっこり笑った。……語れなかった私の分まで、彼女のその笑顔が、この作品を締めてくれたような気がした。
そして――次だ。私の作品は。
「ラストは、渡井ちゃんの『自画像の断面』」
今度は、冊子をめくらなかった。自分の文章を直視したくなかったのだ。対照的に、部屋には紙が擦れる音がわずかにした。
本当は、自分の小説に粗がありそうで、解説したくないんだけど……。あらすじとしては、美大生が課題で自画像を描こうとしたが、最後は白紙で提出する話だ。
課題という、外的な動機で話は始まる。
しかし語り手は鏡を見ても、写真を見ても、“これが自分だ”という確信が持てない。
自分という像が“外部”にある限り、信じられない。
外界に映る「私」は、「私の感覚と一致しない」。だから、鏡を割り写真を燃やすなどの破壊行為に走る。攻撃的な行動であり、でも同時に“描こうとする意志”のあらわれ……のつもり。
この語り手はそのとき、破壊の先にしか、“私”への到達がないと考えている。
でも最終的に、記憶の中の自分の顔に頼ろうとするが、それすら確かではないことに気づく。
主観にも揺らぎがある。“私”はどこにもいない。
『「どういうつもりかね」 教授に問われた。
「提出自体はしていますよね。ふざけや逃げではございません。私の顔は、定義ができないものなのです」』
「は~い、感想ある人」
夢崎さんの声が死刑宣告のようで、逃げ出したくなる。そうしないためにぐっと、膝のうえで両こぶしを抑える。
「はい!!」「はぁい」
同時に声がした。見ると、宮北と太会さん、男川さんが同じタイミングに手を挙げたようだった。誰かに“語れる”と思われるほど、この作品は明快だったのか? 私には、自分の中でまだ言葉にならない混沌しかなかったのに。私は語れなかった。だから、即座に手を挙げた彼女たちの“理解”が、なぜか怖かった。
「あっ、お二人とも、お先にどうぞ!」
「太会。先に言うと良い」
「へいへい」
太会さんが、腕を組んでこちらを見てくる。なんだか値踏みされているようで、視線を外したいけど、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「描けなかったから描かなかったって言ってるのに、結局いちばん描けてるの、ズルくない?」
「え……」
「やられたって思ったわ。こういう語らないことで語る系、ウケがいいのよ……わかる。でもわたし、これ好き。だってこれ、“自画像“を拒否してるんじゃなくて、ちゃんと“描こうとした跡”があるから。白紙って、普通やったら寒いだけなんだけどさ。この作品、“描けなさ”のディテールが濃すぎて、“語らなさ”が逆に情報量多いの。ちゃんと勝負してるんだよね、語らなさで」
両手を自分に向けてひらひらと見せながら、肘を折り曲げた姿勢で、太会さんは語った。褒められた。褒められた……?! しかも、語り手の“描こうとした跡“を肯定してくれた。何、今の。認められたのか。胸が熱くなるような、臓腑が冷えるような感覚に陥る。たしかに、そうだ。私は“描こうとした跡”を残した。でも、それが見抜かれていたことが、少しだけ、苦しかった。
「次、男川やん」
「はい。」
次は男川さんだ。絶対、彼女は褒めてはくれないだろう。ごくり、と唾を飲む。
「これは……“逃げ”ではありませんね。少なくとも、誠実さの質として。描かないという選択に至るまでの過程が、非常に丁寧に描写されています。その不在は暴力的ですらある」
褒められているのか……? 褒められているわ。しかも、“逃げ“ではない、と言ってくれた。私、正直あの美大生の行動は課題をサボっているだけと誤読されて、受け取られても仕方ないと思っていた。けど、流石男川さん。誠実な読みをしてくれる。
「ただ、“提出はしています”という末尾の台詞には、やや説明的な気配が残った。それ以前の静けさが見事だっただけに、やや蛇足にも映りました。以上です」
私は、やっとそこで深く呼吸をできた気がした。そうだ、私なんかその程度だ。あの台詞は、この訳の分からない小説を少し分かりやすくするための、余計な親切心だった。――“これはこういう意図です”と自分で言い訳を足してしまった。読者を信じきれなかった、語り手としての未熟さだったのかもしれない。
「次は~、宮北ちゃん」
「はい……あの、私……すごく不思議な読後感で、うまく言葉にならないんですけど……でも、“描こうとしてた”ことは、すごく伝わってきて。私、そういうふうに不器用でも、何かを伝えようとする気持ち……好きです」
薄々感づいていたが、宮北は私の作品を「ちょっとよくわからなかったです」で、一蹴する子じゃなかった。恥ずかしい。とんだ第一印象の読み間違えだ。
「なんていうか、“語りたいのに語れない”っていうのも、語りなんだって、思ったんです。
私、そういうの……ちゃんと受け取りたいって、思いました」
感想のつもりなのだろう。でも、彼女の言葉は批評だった。私の“描こうとした跡”を、ちゃんと見て、言葉にしてくれていた。
「おっ、中本ちゃん」
夢崎さんがそう声を発したので見ると、中本さんもそっと手を挙げていた。
中本さんはしばらく口を開かなかった。
それだけで、他の誰よりも発言の重みがあるように感じられた。
「……読んでよかったと思いました」
一言だけ。ぽつりと、呟くように。
それだけで、どこか安心しかけてしまった。
「なんだ、想像してたよりは、浅い感想で済むのかも」……そう思ったのは、一瞬だった。彼女は言葉を続けた。
「あまりに静かで、かえって全部伝わってしまうのが怖いと思った」
カチリ、と音がした気がした。心のどこかに、スイッチのようなものがあったなら、確実に押された。
「全部」って、なんだろう。
「伝わってしまう」って、どこまでのことを?
私が隠したつもりだったものまで――見えていたということ?
自分でもよくわからない不安が、胸の内側を撫でていく。
私の作品は、誰にも届かないつもりだった。白紙にしたのは、何も言わないためじゃなかったのか。それが、“全部伝わった”だなんて――そんなの、ひどい。
中本さんの言葉は、まるでその白紙の裏側を見てきたようだった。語らなかったのに。……あれは、評価されることから逃げるための「語らなさ」だったのに。そんなこと、バレてないと思っていた。でも、気づかれていた――語らなかったからこそ、見抜かれてしまった。……そんな気がして、少しだけ、息が苦しくなった。「ちゃんと届いたよ、でも読ませた貴方も覚悟を持って書いた?」って。
……私の“語らなさ”は、誰にも刺さらないようにするための、自己防衛だった。でも結局、語らなかったことがいちばん語っていたなんて――そんなの、まるで、自分の無防備を見透かされたみたいじゃないか。
「はい」
「うん、田代ちゃん」
『プレゼント』の作者の子が、挙手していた。その隣では、『夏の日と蝉』の作者の子がまだ、黙って俯いていた。
「白紙って、びっくりしましたけど……すごく綺麗な終わり方だと思いました。私にはできないなぁ、こういうの……」
彼女の言葉に、偽りは無さそうだった。こそばゆい気持ちになる。自分の作品が、こうやって“いい”って言われることに、私はまだ慣れていない。
「……あの、ちょっと、いいですか?」
そのとき、開始時は落ち着かなそうにキョロキョロとしていた、ずっと黙っていた一年生がその場に声をかけた。彼女は地味目で、私としては親近感がわく。勝手に、だけど。声は小さかったが、誰も遮らなかった。
「最後の“白紙を出す”ってところ……ちょっと、私はわからなかったです。あの、ちょっと……。自画像って、ちゃんと“自分を見る”ことだと思ってたから、えっと、“見ない”ってどういうことなのか……わからなくて……すみません」
「浅い事言っていたらすいません」と、彼女は俯いた。私は、目を逸らした彼女のつむじを見て一拍置いてから、やや口角を引きつらせるようにして言った。
「……いえ、いいと思います。わからないって言われるの、……ちょっと安心します」
一瞬、場に柔らかな間ができた気がした。
「“描くこと”が、“見つめること”だっていうのも、たぶん正しいんだと思います。でも私にとっては、“見ないまま描くこと”も、描くことの一種で……その……なんというか……」
そこで言葉を止めた。喉がうまく動かなかった。
「うん、今のやつ、ばり良かコメントやったて思うばい」
そこに割り込んだのは夢崎さんだった。事務椅子をくるりと回しながら、彼女は言う。
「“わからない”ってさ、こういう合評会やとすごか勇気要るっちゃん。みんな“わかるフリ”して、実はようわかっとらんかったりするし。あたしも最初、“これ夢オチ?”ってなったし」
一瞬、場が笑いかけて止まる。
「でもさ、おおかたこれ、“描かんってことが、いちばんの描写”ってタイプんやつばいね。“意味がわからん”って言葉が、“意味そのもの”になっとーってゆうか」
一年生の子が「ありがとうございます」と頷いたあと、私もつられるように、夢崎さんに「ありがとうございます」と言った。目の焦点が合っていたかは、わからない。誰も何も言わなかったけど、たぶん皆、彼女の勇気をちゃんと見ていたと思う。合評会の最後に、小さな“良いノイズ”が入った気がした。
しかし、夢崎さんは「じゃ、そろそろタイムオーバーってことで……」と言いながら、まるで本気じゃない顔でにやにやと時計を指さしていた。
「お疲れ様でした~! 今年度第一回合評会、終了で~す!!」
その言葉を聞いて、ふっとこの場の基礎的な緊張がゆるんだ気がした。
「いや〜!今回も最高に不安定でよかったね!」
夢崎さんがそんな冗談を放つも、誰も笑わない。宮北だけ「面白かったです!」と笑顔で応答していた。
「じゃ、解散で~す」
*
「お疲れ様でした~」
田代さんや「蝉」の子、地味目の一年生は、そう挨拶をしてから退室した。宮北も、「お疲れ様です!」とバイトがあるのか先に帰った。
私はというと、背中を椅子の背もたれに預けて、放心している。
六人に感想を言われてしまった……なんというか、情報量飽和で死にそう。沢山受け取ってしまって処理できない。
ぼうっと、男川さんと中本さんが話しているのを見る。この二人と夢崎さんは、編集・校正を務めており、掲載する作品の決定権がある。これから、話し合ってから帰るのだろう。
「あのさ、あれ“夢オチ”かて思ったけど、白紙の方がえずかったわ」
後ろから声をかけられて、びくり、となる。夢崎さんだった。彼女は、こちらに話しかけているようだった。
「ばってん、あんたが“本当に描かんやった”のはすごかって思う。あたしやったら、最後にちょっとだけ目だけ描いてしまうもん」
「あはは……ありがとうございます」
「“全部描かん”のがいちばんの描写って、こすかね」
彼女は、笑いながらポンと肩を軽く叩いてきた。私は力なく笑った。六人の感想・批評で情報量が飽和しているのに、そこに新たに夢崎さんが加わってきたからだ。
彼女は、男川さんと中本さんの方へと歩いて行った。
そろそろ、帰らないと迷惑になるな。そう思った私は部屋を見回す。編集・校正・私以外で残っているのは、太会さんだった。彼女はスマホをいじっていた。
私は立ち上がり鞄を持ち「お疲れ様でした」と声をかけて退出した。
そのまま廊下を歩くが、明らかに自分以外の靴音が背後からする。首だけ振り向くと、なんてことない顔で太会さんがいた。
*
私たちは、大学のキャンパス近くの目抜き通りを歩いていた。
隣に並んだ太会さんのピンク髪が目に入った。根元もきちんと染め直してあるみたいで、ああ、手入れしてるんだな、と思う。この発色を保つには、けっこうな手間がかかるはずだ。
宮北の茶髪は……地毛、なのだろうか。染めている感じはなかった。
中本さんの髪型も、妙におしゃれだけど、あれはあの人だから似合うんであって、私が真似したら……たぶん、事故になる。
私はズボラだから、きっと染めても手入れが追いつかなくて、みすぼらしくなるだけだ。だったら、このまま黒髪でいいか――そう思う。
いや、思いたいだけかもしれない。ちょっとだけ、羨ましかった。
太会さんはスマホをいじりながら、「あー、部誌表紙、やっぱ花じゃなくて虫にすりゃよかったな」と言った。
彼女は、絵も描けるので表紙デザインも担当している。ちなみに、彼女の絵は普通に上手い。対して私はというと、小学生、いや幼稚園児の落書きレベルだ。
「虫……ですか?」
「うん。蝉とか。ほら、縁起よくない? 鳴いて死ぬし。儚いし。文学っぽいし」
「虫かごに詰めるんですか?」
「そう。全作品、虫かごに入れて売る。『文芸サークル・夏の虫』ってタイトルで」
「……どうかしてます」
「いや、むしろ最高にエモいって自負しとるけど?」
「……なんか、エモいを通り越してグロい気がする」
くだらなさすぎて、ふいに笑ってしまった。ああ、笑えた。今日、初めてかもしれない。
「そういえばさ、」と太会さんは話題を変えた。私は無防備だった。
「あんたの小説、めっちゃ良かったよ。文章、すごい綺麗だったし。でもさ、あれ読んで、何か返せる人って、ほとんどいないと思う」
「……」
それ、“あなたの話”をしてるだけで、読者に話しかけてないんじゃない?
そう言われたようだった。何も言えなかった。口を開こうとしても、言葉がうまく選べなかった。そんな私を見ていたかのように、太会さんは続ける。
「なんていうか、“中原中也の返信できない読者”みたいっていうか」
中原中也。『汚れつちまつた悲しみに……』の詩人だ。詳しくは知らないけど。私は読むよりも書く分量の方が多いから。かもしれない。
「それって……どういう……?」
「うーん、“全部自分の話”をしてる人ってさ、こっちが口はさめなくなるんだよ。言葉の余白がない、っていうの? あれって、語ってるようで……実は語ってない、みたいな感じ」
『届いた言葉を、“ちゃんと自分の言葉で返せてる?”』
『“わかったつもり”で語らなさに逃げてない?』
『自画像って、もっと相手に見せるものじゃないの?』
そんなふうに太会さんの言葉は、一直線に刺さってきた。まるで、右胸にストレートを打ち込まれたみたいに。
太会さんは“良かった”と褒めたうえで、わざと少し意地悪な言葉を選んだように思えた。あれは、届くことを期待して投げた直球だった――気がする。
……わからなかった。“自分の話”をしただけ、って言われてしまったことが。
でも、もしかして……それって、誰かに返してもらう覚悟すら、私は持ててなかったってこと?
胸の内側がじんわりと痛む。
さっきまで“伝わってしまった”ことが怖かったのに、今は、“伝わらなかったかもしれない”ことの方が、もっと怖い。
太会さんはそれ以上何も言わなかった。
そのまま歩きながらスマホをいじりはじめて、私のことなんて最初から気にも留めていないような顔をしていた。けれど、その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
私は少し遅れて、ついていった。彼女の歩調に合わせる。
スニーカーの足音が、アスファルトの上でぺた、ぺた、と軽く鳴る。
冷えた風が、ビルの隙間をすり抜けて頬を撫でていった。
一歩先を行く人って、こういうとき、引き際が綺麗すぎてずるい。
このひとことが、ずっと胸の内で繰り返されていた。
“全部自分の話をしてる人って、対話ができない”
私は……逃げてたんだろうか。
語ることで壊れそうだから、語らなかった。
でも、それって、最初から“返事”をあきらめてたってことじゃないか。
誰かに見せたかったはずなのに、誰にも見せないようにしていた。
届いた。届いてない。どちらにも揺れてしまう自分の不安こそが、“語らなかった”ことで暴かれたものだったのかもしれない。
だったら、今度こそ。また、語るのが怖くなる前に。
私もいつか、「描く」ってことを、もう一度……いや、今度こそ、“言葉で”してみたい。
そのときには、ちゃんと、誰かと話せるように。
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