第25話
青森、雪解け間近の春。回想
高校の卒業式を目前に控えたこずえは、どこか上の空だった。窓の外を眺める視線の先には、港で漁船のロープを引く若い漁師、健太の姿があった。彼の無骨な笑顔を思い出すたび、こずえの胸は高鳴った。しかし、その高鳴りには、甘い期待だけでなく、言いようのない不安も混じっていた。
放課後、裁縫教室を開いている実家に戻ると、母の八重子がミシンの前に座っていた。八重子は、地元の奥様方に手芸を教える傍ら、腕利きの仕立て屋としても知られていた。
「こずえ、あんた、またぼんやりして。針の持ち方もなってないね。うちの娘がこんなんじゃ、生徒さんに示しがつかない。」
八重子の言葉は厳しかった。こずえは、小さい頃から裁縫を習っていたが、どうにも八重子のような才能はなかった。
「ごめんね、お母さん。でも…、私、ちょっと話したいことがあるの。」
こずえは、意を決して切り出した。
「…健太さんの、子どもを…、妊娠したの。」
八重子の手が一瞬止まった。ミシンの音が止まり、部屋には沈黙が訪れた。八重子は、ゆっくりと顔を上げ、こずえを睨みつけた。その目は、いつも優しかった母の目とはまるで違っていた。
「…何を言ってるんだい、こずえ。冗談じゃないだろうね?」
「冗談じゃないわ。本当に妊娠したの。」
「ばっかだね!あんた、本当に馬鹿だ!高校卒業を目前にして、そんなこと…!相手は漁師じゃないか!そんな苦労ばかりの生活、あんたにできるわけないだろう!」
八重子の声は、震えていた。怒りだけでなく、悲しみも滲んでいるようだった。
「でも…、私は健太さんのことが好きだし、この子を産みたいの。」
こずえは、必死に訴えた。
「好きだからって、現実を見なさい!あんたには、まだ何もできないじゃないか!裁縫だってろくにできないくせに、母親なんて務まるわけがない!」
「裁縫ができなくても、愛情があれば育てられるわ!」
「愛情だけじゃ、子供は育たないんだよ!生活費はどうするんだい?健太さんの稼ぎだけじゃ、やっていけないよ!それに、あんたの将来はどうなるんだい!」
八重子は、感情をあらわにした。普段は物静かな八重子の、これほど激しい口調を、こずえは初めて聞いた。
「もういい!とにかく、その子は堕ろすんだ!今ならまだ間に合う!」
こずえは、首を横に振った。
「…もう堕ろせない。私、どうしても産みたいの。」
数日後、こずえと八重子は、改めて話し合いの場を持った。お互いに冷静さを取り戻し、膝を突き合わせて座った。
「…もう堕ろせないって言うなら、仕方ないね。」
八重子の言葉は、意外にも落ち着いていた。
「でも、あんたにはまだ無理だよ。だから、とりあえず、産みなさい。そして、落ち着いたら、いつでも赤ちゃんを迎えに来ればいい。」
「…どういうこと?」
こずえは、戸惑った。
「それまで、私がちゃんと育てるよ。あんたが一人前の女性になるまで、私がこの子を預かる。」
八重子の目は、優しさを取り戻していた。
「お母さん…。」
こずえの目から、涙が溢れた。
「感謝するのはまだ早いよ。これは、あんたのためでもあるけど、私のためでもあるんだから。…大切な孫だもの、ちゃんと育ててあげたいじゃない。」
八重子は、そう言うと、少しだけ微笑んだ。
その春、こずえは高校を卒業し、健太と結婚した。しかし、こずえは、すぐに子供を連れて行くことはできなかった。八重子の言葉通り、こずえは、一人前の女性になるために、青森を離れ、東京へと旅立った。
そして、数年後、こずえは、シノハラという名前で、一流デザイナーとして成功を収めることとなる。しかし、心の奥底には、常に青森に残してきた子供への罪悪感が、静かに燃え続けていた。
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