第4章ー第1話「気持ちの手前」


翌朝、僕は妙に早く目が覚めた。


窓のカーテンの隙間から、まだ冷たい朝の光が差していた。


特に急ぎたい理由があったわけじゃない。


でも、眠気より先に、何かが“起きなさい”と背中を押した気がした。


早めに家を出て、久しぶりに誰もいない教室へ入る。


昨日のホームルームの盛り上がりが嘘だったように、静かだ。

聞こえるのは、風の音だけ。
席に座り、鞄の中から本を取り出す。



『西の魔女が死んだ』。
途中まで読んでそのままになっていた続きを読み進める。

ページをめくるたび、
「自分で決めることの意味」が、ひっそりと胸に染みてくる。


──“ちゃんと生きる”って、なんだろう。
“ちゃんと”って、誰の基準なんだろう。

物語の中の女の子は、自分の足で選んでいく。
迷いながら、でも確かに、そこに立っていた。


(……選べるかな。自分も)


まだ鞄の中で沈黙している進路希望調査票が、
今日は少しだけ、軽くなった気がした。


本を閉じたころ、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。


チャイムにはまだ早い。なのに、少しずつ、教室の外が騒がしくなっていく。


「おっはよー!てかマジで間に合うのかな、準備……」


誰かの声。笑い声。

ダンボールを抱えた生徒が、軽く肩をぶつけながら通り過ぎていく。


さっきまでの静けさが、潮が満ちるように塗り替えられていく。


僕はゆっくり立ち上がって、教室のドアを開けた。


どこからか絵の具のにおいがして、隣の教室からはまだ流していいのか迷ってるような音楽がうっすら聞こえてくる。


文化祭の準備が、本格的に動き始めていた。


廊下に出ると、そこには、少しだけ早起きした生徒たちの姿。
装飾の準備で運ばれてきた画用紙やガムテープ、どこからか音楽室のアンプを運ぶ軽音部の誰かの背中。
普段と同じはずの景色が、ほんのすこしだけ、違って見えた。


「透〜!おはよー!みんな準備必死だねぇ……てか、俺らって、なに準備したらいいんだ?」

航平が、手に空っぽの段ボールをぶら下げながら近づいてきた。
その後ろから、白石がパネルボードを器用に脇に抱えてついてくる。


「俺ら……って、“未完成展チーム”ってことでいいのかな?」


白石が軽く笑いながら言うと、


航平が「そんなのあったっけ?」

と返す。



「なんか、ほら、中心メンバー……みたいな流れになってない?」

「それ、白石の独断じゃね?」


僕が小さくつぶやくと、


白石が「それを言うなよ」

って肩をすくめた。


「でもさ、何を“飾るか”より、“どう見せるか”が重要かも」


白石が思いついたように言う。


「……ってか、そもそも何飾るの?誰が何を持ってくるの?」


航平の一言に、場の空気がピタッと止まる。



案の定、その日のホームルームは地獄だった。



「でさー、未完成展って、結局何やるの?」

「それな、何持ってきたらいいの?」

「てかそもそも、展示する人って誰?みんな?選抜?」

「私、絵とか描いてないし……

未完成のものって言われても困るんだけど……準備もできなくない?他のクラス本格的にやっててやばいよ。」


質問、疑問、困惑、沈黙、そして時折かすかなため息。




担任も最初は軽く聞いていたが、

明らかに“責任の所在”がどこかへ向かい始めていた。


「……えっと、透?これ、どういう準備想定なの?」


担任の声が、半ばお手上げの空気で飛んでくる。

教室の視線が、一気にこちらを向く。


(……ああ、やっぱり、こうなるよな)


僕は、少しだけ椅子を引いて、立ち上がった。


自分でも、何を言うか決まっていなかったけれど、


昨日の若菜とのやりとり、ナギの声、そして「声を鳴らす」ということ。


それが、背中を押した。


「……うまく言葉にできないんだけど」


僕は一拍置いてから、続けた。


「“未完成”って、何もしてないわけじゃなくて。
むしろ、途中でも、まだ形になってなくても、
それでも、自分の中に“何か”があるってことだと思うんだ」

ちらっと周りを見る。みんなの顔は、まだ読めない。


「たとえば……絵とか描いてる人なら、わかりやすくて、

その途中のラフでもいいし。
そうじゃなくても、読みかけの本でも、

作りかけのお菓子でも、
途中で止まったままの、なんでもいい。


“声”っていうか、“気持ちの手前”みたいなもの……。


そういうの、たぶん誰にでもあると思うんだ。


……自分だけの“いま”を持ってきてくれたら、それでいいと思ってて」


一瞬、静寂。
でもその空気は、決して悪いものじゃなかった。


「よっしゃ、じゃあ俺さ、中一の時にハマってた曲の歌詞ノート、持ってきていい?」

静寂を破ったのは航平だった。


「え、そんな繊細そうなことしてたの?」


「保健体育のノートの余ったページに描いてたやつ!めっちゃ気合入ってるから!」


「運動部のクセにポエマー出すなよ〜」


「いや〜未完成展って“黒歴史展示”ってことだろ?」


冗談まじりにクラスが盛り上がる。


次いで運動部組が


「俺、試合前に履いてたラッキーソックス持ってこようかな〜臭いごと未完成ってことで!笑」



「ちょ、展示するなら洗ってきて!笑」

そんなやりとりに、教室の一部はドッと沸く。
その雰囲気に乗っかって、

「俺もなんか持ってこようかな〜」

みたいな声も増える。


──そのざわつきの中で、ふっと静かに漏れる声。


「……でも、そういうの、ない人はどうすればいいの?」


手を挙げたわけじゃない。


けど、透の斜め前の席に座る女子が、小さく、ぽつんと呟いた。


たぶん、本人はそんなに大きく言ったつもりじゃない。


でも、タイミングよく、空気がその言葉を拾った。


みんなの視線が、少しだけ彼女に向く。


「趣味とかって言われても、別にないし……
 なんか、そういう“持ってくるもの”がある人って、すごいなって思う」

静かな教室の中で、その声だけが、妙にまっすぐ響いた。


僕は、咄嗟に言葉が出なかった。


でも、その子の“ない”って言葉が、自分の昔と重なった気がした。

言葉にするつもりじゃなかった。
でも、気づいたら口が動いてた。


「わからないけど…きっと“ない”って思ってるだけで…


たとえば、今朝なんとなく見上げた空とか、最近気になってる曲とか


ほんのちょっとでも、自分の中で動いたものがあるなら、
“それ”でもう十分、

“持ってる”ってことなんだと思う。


だからこそ、そんなみんなが、自分の中で動いた瞬間や迷いや悩みとか、
そんな瞬間が見える未完成展がしたい....かな」


気がついたら、自分で意識するより早く、答えていた。



教室に少しだけ、やさしい空気が残る。
その余韻の中で、結が手を挙げた。

「じゃあさ、今日中に“出せそうなもの”思いついた人は、ノートに書いてみようよ。
ジャンルとか、名前じゃなくて“中身”だけ。展示の並び方考えたいし」


「あと、用意するもの。画用紙とか写真立て、ケースとか。
必要な人はこのあと教えて。私、まとめて買いに行くよ」


「ノートに書くって、名前はナシ?」


「うん。名前出すのは展示のときでいいと思う。
そのほうが、“誰かの声”として見てもらえる気がするから。とりあえず、黒板の横に置いておくね。」


そんな結の言葉に、何人かが静かに頷いた。



航平が

「じゃ、俺、小さな恋の歌って書くわ」

とボケると、
教室の空気が、少しだけ軽くなった。

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