第3章ー第3話「音を聴く、その一歩前で」


賑やかだった空気が少しずつ抜けていき、窓の外では夕焼けが街を染めていた。

みんなが帰ったあとの廊下は、どこか音が反響して、少しだけ別世界のようだった。


どこからか—ギュイーン!



とギターをかき鳴らす音が聞こえてくる。



僕は、音に吸い寄せられるように廊下に出た。


音の正体は思ったよりも近く、隣の教室からだった。


教室の扉の隙間から、淡くオレンジ色の光がこぼれていた。


そっと、覗く。

そこには—
髪を耳にかけながら、若菜がひとりギターを弾いている。



細い指でコードを探し、目を閉じて、静かに音と向き合っていた。

彼女の弾く音は、どこか教室の空気を震わせていた。


コードを探る指。


目を閉じて、少しだけ表情をしかめながら、音を選んでいる。


僕は気づけば、呼吸を忘れていた。


ただ、彼女の鳴らすどこか芯のある“未完成な音”に聴き入っていた。


不意に音が切れた。


最後の余韻だけが、静かに、床の上を転がるみたいに残った。


「びっくりした!まだ、人いたんだ!……いつから、そこにいたの?」


その声に、僕はびくっとなって扉に手をかけたまま固まる。


若菜は、こちらを見てギターを立てながら言った。


「ギュイーンって鳴ったあたりから?」

僕は静かに頷く。


「……ってことは、ほぼ全部じゃん」

それからようやくこちらを見て、
ちょっとだけ困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。


「……変なとこ聴かれてなきゃいいけど」

若菜はそう言って、ギターの弦を軽く爪弾いた。


「練習ってさ、ちょっと恥ずかしいね。まだ形になってないものを、誰かに聴かれるのって」

その“まだ形になってないもの”という言葉が、
なぜだか、胸の奥にすっと沁みた。


若菜はギターを抱えたまま、少し首を傾げるようにして言った。

「……透くん、だっけ?こうして話すのは、初めまして、だよね」


僕は驚いたように頷いた。


声をかけられると思ってなかったし、
何より彼女が、僕の名前を知っていることが少し意外だった。

「うん。……そうだね。話すのは、たぶん、はじめて」

若菜は、ギターを膝に立てかけながら、にこっと笑った。


「私のこと、知ってる?」


「えっと……名前は、隣のクラスの。若菜さん、だよね?

軽音部で…..ヴァイオリンも全国入賞したことあるって、噂で。なんだか同い年なのにすごいね。」


「そっか。
……でも、たぶん透くんとは、どっかで“似た音”を聴いてる気がする。昨日言ったこと覚えてる?」


その言葉に、僕の心臓が少しだけ跳ねた。
声じゃない。思考でもない。
“何かが共鳴した”ような、妙な感覚があった。


「確か、音に気づける人って。……“似た音”って、どういう意味?」



聞いた瞬間、たぶん意味はわかっていた。

でも、それを言葉にしたら、もう“戻れない”気がして。

僕は問いの形にして、そっと彼女に返した。


「んー……うまく言えないけど、“音じゃない音”っていうか
 ……誰かの想いが、揺れるときに鳴る、種が割れるような音。聴こえたことあるでしょ?」

僕はすぐには答えられなかった。


でも、頭の中では、いくつかの“音”が同時に鳴っていた。


澄の問いかけ。

掲示板の前で、結がパンフレットを閉じたときの音。

鞄の中で折れたままの、進路希望票の静かな重み。

そして、昨日教室で若菜から聞こえた人一倍強い”ばきっ。”という音。

──たぶん、それら全部が、“似た音”だったのかもしれない。



「……あるかも」


やっとの思いでそう答えると、若菜はそっと目を細めた。


まるで、“やっと見つけた”みたいに。


「……じゃあ、やっぱり透くんにも聞こえてるんだね」

若菜はギターを置いて、ぽつりと続けた。


「ばきって大きな音、聞こえたんだ。……あれ、ちょっと恥ずかしいね」

若菜は笑う。でもその目は、少しだけ遠くを見ていた。


「なんか……たまに、こうなるんだよね。

自分の中で黙ってたものが、勝手に音になるみたいな。

ちゃんと言葉にしたわけでもないのに、先に音だけが出ちゃうの」


「僕はまだ、まだあんな風に鳴ったことはないけど……。でも、なんとなくだけど、鳴る手前で止めてるだけな…..」


「気がする。」

若菜が被せて続ける。


「小さい頃から、ずっとクラシックヴァイオリンをやってたの。

親もそれを信じてくれてて。……でも、ある時から、音が、ただ“正しい”だけのものに聴こえちゃって……きれいなんだけど、なんか、自分の音じゃないって思った」


僕は、若菜の言葉にうなずけなかった。

聞こえたことは——ない。


でも、確かに“鳴りそうになったこと”はある。


喉の奥が熱を持って、手が震えて、でもそれを「平気なふり」でごまかして、


…そうやって何度も、音を引っ込めてきた。

彼女は自分を受け入れた。僕は、うまくやれなくなるのが怖かった。

たったそれだけの差なのに、
どうしてこんなにも“遠く”感じるんだろう、と思った。

若菜は、僕の顔を覗き込むようにして、ふわりと笑った。


「……でも、きっと鳴るよ。透くんにも。 自分の声、聞いてあげて」


そういうと若菜は立ち上がって、ギターをケースにしまいながらぽつりと口にした。


「そろそろ、レッスンあるから。……次のコンクール、文化祭の次の日なんだ。」

そう言って笑ったけど、その笑顔は少しだけ、クラシックの重さを背負っているように見えた。


「……でも、こっちの音も好きだから。どっちもやるの、わがままかな?」
若菜はそう言って、ドアに手をかける。じゃあね、透くん。また、話そ!」


若菜が出ていったあと、教室にはまた静けさが戻った。


でも、さっきまでと違って、その静けさには何かが残っていた。


──いや、きっと自分の中が変わっただけだ。


ギターの余韻がまだ、どこかにある気がした。


その余韻の中で、不意に小さな声が聞こえた。あの冷たくも芯のある声。

「……ねぇ、今なら受け入れられるんじゃない?」

ナギだった。
まるで空気の中に紛れていたように、自然に声が流れてくる。

「自分の声って、たぶんね、
最初は“聞こえる”んじゃなくて、
“誰かの音に触れて、震える”んだよ。だから、受け入れたくなっているんじゃないか?」


僕は何も言えなかった。


でも、ナギの言葉は、さっき若菜が残していった“あの音”と、確かに重なっていた。


教室にはもう誰もいなかった。


机に映る夕陽の残り香も、もうとうに消えている。


静かすぎる空間で、僕はまだ椅子に腰掛けたまま、動けずにいた。

さっきまであの部屋に響いていたギターの音も、若菜の声も、
もうすっかり遠くなっていたはずなのに、
耳の奥ではまだ、何かが反響していた。

──「どっちもやるの、わがままかな?」

その言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回ってる。



決断しないまま、進む。
“選ばないで、やる”。


それがただの甘えじゃなくて、ちゃんと自分の道として鳴らせてるって、


それってすごいことだと思った。


教室を出ると、すっかり空は暗くなっていた。


校門を出たあたりで、空気が肌に張り付くように冷たい。

街灯の明かりが、まるで別の世界の灯りみたいにぼんやり滲んで、
どこか自分が風景の中に“まぎれこんでる”ような気がした。


自販機の下で光るマックスコーヒーの表示。
誰もいない歩道橋。
信号が青に変わるたび、理由もなく胸がチクリとする。

──僕は、自分の「正しさ」を守り続けて、
その分、何かを逃してきたんじゃないか。

ふと、鞄の中で進路希望票の重さを感じる。
触れてもないのに、そこに“ある”って、わかる気がした。


家の前に着くと、いつものようにに明るい玄関照明が僕の帰りを出迎えている。

まぶしすぎるくらい白い光に、目を細める。


ほんの数分前まで、別の世界にいた気がするのに──

玄関に一歩踏み込むだけで、それが全部“普通の顔”をした日常に塗り替えられていき、受け入れてくれる。そんな光。


「あっ、おかえり〜今日は遅かったね。」


母さんの声が、リビングから軽く響いてくる。
その明るさは、いつも通りで。
変わっていないのに、なんだか今日だけは、音の“温度”が違って聞こえた。


今日は父さんも遅く母さんは、一人分の食器だけを片付けている。


食卓には、ラップがかけられた皿が2人分。

ただいまと言いながら、僕は自室へ向かった。


玄関の照明が、自分の影を背中に落としていた。
その影だけが、どこか昨日より長く、遠く感じた。


進路希望調査票に書かれた提出期限は―9月29日。
今日から7日間の文化祭準備の最終日と、まったく同じ日だった。

「これ、同じ日ってわざとかな?」



クラスの誰かがそう言って笑っていたのを思い出す。


でも僕には、それが笑い話じゃなくて、
「どっちを選ぶ?」と突きつけられている気がした。


夜、布団の中で目を閉じても、眠気はなかなか訪れなかった。
頭のどこかで、誰かの声や音がずっと巡っていた。


若菜の「どっちもやるの、わがままかな?」


ナギの「今なら、受け入れられるんじゃない?」
──そして、澄の問いかけ。

眠ろうとするたびに、思考がそこへ戻ってしまう。


時計の針の音だけが、部屋の中で小さく、律儀に時を刻んでいた。



「問いの答えなんて、たぶんすぐには見つからない。

でも、“問いが自分のものになる”って、こういう感覚なのかもしれない。」

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