神無き宇宙の護符

 世の中酷い死に方は色々とあるが、最悪と言えるものの一つは宇宙での遭難だ。想像も及ばない広漠こうばくとした真空の中を、ちっぽけな宇宙船を拠り所に、緩慢かんまんに迫る死に独り震え続けるなんて。救助は来ることなく、遺体さえ回収されずに虚空を漂うことになる。考えただけで気が狂いそうだろう。

 それが今、俺の身に起きている現実だ。星間配送業なんて危険な仕事をやっている以上、覚悟はしていたつもりだが、やはり人間の脆弱ぜいじゃくな精神で耐えられる状況じゃない。自分が徐々に発狂に迫っているのが分かる。

 事態が起こってからもう一週間が経とうとしている。母星系の重力圏を脱出して間もなく、輸送船の術式が不具合を吐きやがった。船内の機能は活きているものの、妖力による推進ができない。一切の操縦が失われたまま、自分では対処の仕様がない真赤な指示記号の羅列を眺める。こういう時に備えて、情報や修理の技師を同乗させておいてくれよ。

 この船は霊的地縛原動機による超相対論的航行という、最新の妖異技術を搭載している。効率は良いらしいが、安全性に未だ十分な信頼が置けないと聞く。しかし俺が所属する会社では、利益のために少々危険な技術も積極的に取り入れているのだ。黒い企業は潰れてしまえと今になって思うが、俺一人死んだところで会社は傾かないだろう。

 携行糧食は既に尽き、俺の命を永らえさせているのは宇宙服一式だった。生命維持装置としても機能するこれは、妖異ではなく物質科学により作られた物。着用者の生理活動を低下させ、食事、排泄、睡眠無しでも一月は生きられる。だが、いくら待ったところで救助は来ないだろう。さっさと覚悟を決めて自害すべきだと、自分の諦めの悪さが嫌になる。


『本当に死にそうな目に遭ったら、これを破りなさい』


 操縦席に座って、可視化された星々を眺めながら、人生を振り返っていると、若い頃の奇妙な思い出が浮かんできた。死の床に伏す祖母から手渡された、一枚の護符。ふすまかたどったような曲線状の模様が描かれている。困惑する俺に構わず祖母は言い連ねた。


『家に代々受け継がれてきたお守りよ。どうしようもない必死の時に破れば、一度だけ奇跡が起こる。まあ、これまで誰も破っていないし、本当のところは分からない。貴方も、使う時がこなければいいけれど...』


 それから幾言も話さない内に、祖母は亡くなった。以来、俺はずっと鞄の奥にそれを仕舞っている。今も宇宙空間にまで持って来ているが...。

 確実に効果が出るお守りなんて、信じている訳じゃない。縁起が良いという程度に思っているだけだ。護符を取り出してまじまじと確認する。代々受け継がれてきた割には、折れたり千切れたりすることなく綺麗だ。本当に由緒正しい物なのか、そこからして眉唾な話である。

 所詮は紙切れ一枚に過ぎず、それ以上の物では有り得ない。少し考えれば、信じる信じない以前に明らかだろう。仮にこの札が奇跡の御業みわざを宿しているとしよう。俺は直近の文明圏まで幾光年も離れているんだぞ?どんな神仏と言えども助けに来られる筈がない。神様が核爆原動機に匹敵する速度で駆け付けて来るのを想像して、久々に笑うことができた。神学には詳しくないが、それ程万能な存在は、人間風情一人のために慈悲を施したりしない。

 やれ阿保らしい妄想だな。かすかによぎった希望の無稽むけいさに自嘲を零し、最早次の世代に継がれることのない護符を破り捨てた。


『奇妙な迷い者だ。誰か間違った戸を開けたかな』


 眩暈めまいが酷い。酒を飲み過ぎたのか?俺は今まで何をしていた?

 目に優しい明かりが辺りを包み込んでいる。上等な木の香りが朦朧もうろうとした意識に心地良い。若い男の声が聞こえて、身体が引き摺られて行く。背が床と擦れる感触はすぐに終わり、同じ人物の声が続く。


「貴方は侵入者ですか?好きに答えて下さい」


 聞かれていることが分からない。答えようにも、何が何だか。宇宙飛行士に選ばれているのだから、俺は一応優秀な市民である。不法侵入なんてする筈がないだろう。感覚が明瞭に戻ってきたので、俺は首を横に振った。声の主が深く息を吐くのが聞こえ、安堵しているようだ。


「信じてあげます。でなきゃ、貴方を生かす理由は皆無だ」


「物騒だな。むしろそっちが誘拐したんじゃねえのかよ」


 警戒を返すように言って起き上がると、意識がはっきりして、直前の状況を思い出した。俺は星間空間で遭難して、護符を破った。すると即座にこの場所に転移したのだ。嘘だろう、お守りには本当に効力があって、宇宙でも機能したってのか!?


「俺は惑星に降りられたようだが、もしや、助かるのか?」


「錯乱しているようですね。落ち着いて、一緒に現状を整理しましょう」


「速やかに共同体へ接続して、家族と連絡を取らなければ。今頃どれだけ悲しんでいるか...俺が生きて帰るなんて、僅かな希望も持てない事故だったから」


はやらないで。ここは現世うつしよではないと、見回せば分かるでしょう」


 寄り添うように穏やかな青年の声に従って首を動かす。確かに、遭難状態から脱したという奇跡に視野が狭まっていた。過剰とも言える辺りの情報が俺の意識を圧倒する。

 純和風様式の広々として長大な廊下だ。滑らかな一枚板が敷かれ、彼方此方あちらこちらに整然と突き刺されたくさびのような木片に灯された火から、森の中を思わせる爽やかな香が焚かれている。俺と青年は廊下の隅に設えられた四阿あずまやで座っていた。他に通りかかる者はおらず、二人きりだ。

 青年は茶髪に茶色の目で、古代にあった日本に由来する形質だろうか。容姿は平凡だが、化粧をして整えているので大分綺麗になっている。部屋着らしき白い着物には花柄が描かれている。


「日本の近畿地方にある大きな常夜とこよ。僕を含む一家が住まう邸宅です」


「何という事だ...ここは地球だと言うのか?」


「ざっくりした認識ですね。宇宙人みたいだ」


 信じられない。地球は三千年も古に壊滅したのだから。史上最悪の妖異【蟲咒むしまじなまわしかご】とその支配主によって。俺は時間を遡行そこうしたとでもいうのか。


「お守りの札を一枚破っただけだぞ。こんな事態になるなんて思うかよ」


「ほう、それはもしかして、襖のような模様が描かれていましたか?」


 どうして知っている?まさか彼が、護符を作った神様なのか?いぶかしむ俺の視線を受けて、彼はとんでもないとばかりに手を振った。


「違いますよ。きっとお義父とお様です。昔、意味深な護符を下界に撒いていたと伝え聞きました」


「では、その方が恩人だな。一言礼を言えないか」


只人ただびと風情が口を利いては、無礼でしかない」


「そうか。結局のところ、俺はどうなるんだ?」


「帰れるでしょう、多分ね。この場は中継地点として通過するのかと」


 よく分からない説明をしながら、青年は立ち上がり四阿を出て行く。


「少し歩きましょう。貴方の世界について話して下さい」


 一人取り残されるのは危険なので、疑問を持たず青年と並んで廊下を歩く。それだけでも不思議な感覚があった。宇宙服を着ているのに身体が軽く、気密しているのに周囲の香りを嗅ぐことができる。現実感のない奇怪な空間だ。物理法則が現世とは違うのかもしれない。


「俺のいた時代は、現世紀元六十八世紀末。やばい妖異が地球環境を破壊して、宇宙に逃れた人類が星々に文明を築いて久しい」


「こちらの世界とは、時空間が隔たっているようです。単なる一本道の時間旅行ではなく、世界が辿り得た、可能性の歴史からいらっしゃったと」


「思ったよりも更に難しいこと説明してくれるな」


「婿入りしてから猛勉強したのです。迷い込んだ貴方に理由があるなら、お義父様の御業によって帰還が叶うでしょう」


「つまりだ、俺は宇宙空間から、ずっと過去の地球へと、時間軸を越えて神隠しされた訳か。荒唐無稽が過ぎて不安になってきたぜ。これは臨死の夢じゃないよな?あれ、視界がぼやけてきやがった...」


 歩いているのか、倒れているのかも分からない浮遊感に襲われる。ここに飛ばされた時と同じ、酷く酔ったような感覚。また何処かへ転移するのだろう。どうか元の世界に帰してくれ。


『貴重なお話をありがとう。平穏な生涯を過ごして』


 時間と空間の概念が崩壊し、あらゆる知覚を失って、俺は真暗闇を墜落していく。いつの間にか俺は芝生の上に横たわり、暖かな日差しを浴びていた。早く宇宙服を脱いで、生身に陽を受けたい。酔いが醒めるのを待つ間に、誰かの叫び声が聞こえた。いや、“誰か”じゃない。紛れもない息子の声じゃないか。


「母さん、来て!庭に宇宙飛行士が!」


「ええ?何を言って...嘘っ、貴方!?」


 妻子が駆け寄って来て、涙ながらに俺の顔を覗き込む。有り得ないことに、家庭へ帰って来られたのだ。こんな奇跡は二度とない。もう危険な仕事は辞めよう。余生は地上で平穏に過ごそう。家族を悲しませないように。

 あの青年は何者だったのだろう?俺を見送る時、羨まし気な声音をしていた。平穏を諦めた者のそれは、しかし何ら悔いることのない強かな意志を宿していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る