流れ星堕ちた *奏葉・1*

奏葉そわちゃん、待って」


 あぁ――……。今朝もあのひとの声が私の一日を台無しにする。


 スマホを弄って音楽の再生音量を最大にすると、イヤホンを耳に押し込む。無言で玄関を出ようとすると、あのひとが私の肩をたたいて何か話しかけてきた。目の前で口をパクパクとさせる彼女の声は聞こえない。私の耳に流れ込んでくるのは、ジャカジャカと派手なドラム音が響く海外バンドの曲だけだ。


 何も聞こえないのに必死になっている彼女の姿はひどく滑稽だ。ふっ、と鼻で笑うと、彼女の瞳が傷ついたように揺れる。


 だけど、そんなことはどうでもよかった。彼女を避けて家を出ようとすると、誰かに肩をつかまれて後ろに引っ張られる。同時に、私の右耳からイヤホンが無理やり引き抜かれた。


奏葉そわ、母親に対してその態度は何だ!?」


 イヤホンが外れた耳に、父の怒鳴り声が飛び込んでくる。


 母親……? 誰が? このひとは私の母親なんかじゃない。


 私は朝から怒鳴りつけてくる父親を睨んだ。


「なんだその目は?」


 そんな私を、父が怖い顔で見下ろしてくる。


祐吾ゆうごさん、いいんです。気にしないでください」


 火花を散らし合う私と父のあいだに、あのひとが慌てて割り込んできた。


「あんたなんかに庇われる筋合いない」


 私の前に立つ彼女を憎しみを込めて睨む。それを見た父が、何か言いたそうに眉を寄せた。


 父はいつだって、このひとの味方だ。実の娘よりも死んだママよりも、数年前まで赤の他人だったこのひとがよほど大事らしい。これ以上この場所に居たら、窒息しそうだ。私は父と彼女に背を向けると、玄関のドアに手を掛けた。


奏葉そわちゃん、お弁当作ったの。持って行かない?」


 家を出て行こうとする私の背中をあのひとが呼びとめる。


「奏葉!」


 無視して出かけようとすると、父の怒声が聞こえてきた。仕方なく、ため息混じりに彼女を振り返る。


「いらない。余計なことしないで。母親でもないくせに」


 傷つけるためにわざと口にした攻撃的な言葉に、彼女の顔が泣き出しそうに歪んだ。


「奏葉!」

「祐吾さん、いいの。私が勝手なことしたから……」


 あのひとが、私を咎めようとする父をなだめる。


 どうして――?


 父が気遣うのは、いつだってあのひとのばかりだ。本当に気遣うべき相手は、ほかにちゃんといるはずなのに。


 私は父とあのひとの声を断ち切るように、開いた玄関のドアを乱暴に閉めた。


「お姉ちゃーん」


 苛立ちをうまく鎮められないままに学校へと向かう私を、妹の春陽はるひの声が呼び止める。振り向いて立ち止まると、追いついてきた春陽が私の隣に並んだ。


「お姉ちゃん、今朝も派手にケンカしてたね」


 春陽が私の顔を覗き込みながら、くすくすと笑う。


「あんたには関係ないでしょ」


 横目で睨むと、春陽はおどけた顔で肩を竦めた。


 四年前。私が中学一年生のときに、ママが死んだ。癌だった。


 ママの体に癌が見つかったのは、私が小学生のとき。それからのママの闘病生活は数年に及んだ。ママの病状は良くなったり悪くなったりでなかなか安定せず、治療のために入退院を繰り返すことが多かった。だから、私たち家族がみんなで家で過ごせた時間はとても少ない。


 それでも、春陽より四歳年上の私には、ママとの思い出が彼女よりもたくさんある。入院していることが多かったけど、家にいて体調のいいときはよく私を公園まで遊びに連れて行ってくれたし、お菓子を作るのが上手で一緒にクッキーやケーキを焼いた記憶もある。


 優しくて、綺麗で、自慢のママだった。ママが死んで四年たった今でも、私はママのことを忘れられない。私のママは、ママだけだ。


 それなのに、二年前、あのひとがうちにやってきた。父も春陽もママのことなんてすっかり忘れて、突然やってきたあのひとことを何の躊躇いもなく『おかあさん』と呼ぶ。


「お姉ちゃん、いい加減大人になりなよ。パパだってオトコなんだからさー。恋だってするでしょ」             


 しかめ面のまま歩き続ける私に、春陽がやたら大人びた口調で言う。


 中学に入って、春陽は急に生意気になった。ママがいる頃は私のあとをついて回るだけの泣き虫だったのに、今は大人みたいに一丁前のことを私に向かって言ってのける。


「何が『オトコなんだから』、よ。ママが死んでまだ四年しかたってないんだよ? それなのにパパは、ママが死んでからたった二年であのひとを家に連れてきた。ママに対して何も感じないの? どう考えても裏切りだよ」


 私の言葉を聞いて、春陽がまた肩を竦める。


「でもさ、パパは生きてるんだし……恋はいつやってくるかなんてわかんないじゃん」

「私にはあんたのその思考回路が分からない」


 睨みつける私を見て、春陽が笑う。


「ねぇ、お姉ちゃん。ママがいなくなって、もう四年も経つんだよ? そろそろ許してあげてもいいんじゃない? じゃないとかわいそうだよ、おかあさん」    


 春陽があのひとを差して、また『おかあさん』と言う。


「違う。四年しか経ってないの。それなのに、どうしてあんたはあのひとのことを気安く『おかあさん』なんて呼べるのよ? 私、先に行くから」


 そう言うと、私は一人で駅に向かって歩き出した。


「お姉ちゃん」


 後ろから聞こえてくる春陽の困惑した声を無視して進む。これ以上会話をしていると、春陽にまでに心ない言葉をぶつけてしまいそうだった。


 駅に向かって歩きながら、父に庇われていたあのひとの顔を思い出してため息が溢れる。


 可哀想なのは、あのひとじゃない。遠くのほうに見え始めた駅のロータリーを睨みながら、そう思った。


 本当に可哀想なのは、あのひとじゃなくて、パパにも春陽にも忘れられてしまったママだ。


 だから、私はあのひとのことが許せない。二年前に再婚相手としてあのひとを連れてきたパパのことも。あのひとのことを簡単に『おかあさん』と呼べてしまう春陽のことも。


 私はスカートのポケットからスマホを取り出すと、そのカバーに付けている、小さな星型のモチーフが垂れ下がったストラップをきつく握りしめた。


 ママ、大丈夫。私だけはずっとママを忘れない。これからもずっと永遠に、ママだけの味方だよ。

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