ー17ー
「——さかのぼること、一九五年前になります。キルラが発現してから、約五年のあいだ。あのそびえ立つ紫のトゲは、いったいなにで構成されているのかを、調べようとした学者がいました。キルラ発生以前にはノーベル化学賞を受賞されていたそうで、相当な凄腕学者さんです。そんな彼が、連絡手段のかぎられた状況下で、世界からおなじく博識の方をどうにか招集し、研究を開始した。その記録が楽園に残っています。ちょっと長くなりますが、なるべく簡潔に話しますね——」
それからヒナが語ったことは、とても興味深いものだった。わかりやすく話してくれたおかげだとも思うが。
——パソコンなどが使えない状況下での研究は容易ではなかった。学者たちは最新機器での研究をあきらめ、なるべく前時代的な手法に置き換えて、キルラの実態をできうるかぎり解明しようとした。
キルラは、ダイヤモンドよりも強度のある透過鉱石である。これが研究の入り口だった。国によっては核弾頭などで排除しようとしたところもあったが、キルラには傷のひとつも見られなかった。
大爆発によって形成された巨大なクレータ、その中央で、なにごともなかったようにそびえるキルラ——。その光景に人々は畏怖を禁じえなかった。
そして研究はすすみ、ある事実へと行き当たる。
「キルラは、ただの鉱石に見えて、実は生きているんです。——細胞の集合体です」
「うそだろ? あの、何百メートルもあるクリスタルの塔たちが、ぜんぶ生き物だっていうのか?」
「はい……。学者さんたちのあいだでも、鉱石と呼べるものを、生命と呼ぶなんてばかげている、という意見があったようですが……」
さらに研究はすすみ、どうにか解明された事実すらも、学者たちをひどく混乱させていくことになる。
「キルラの主成分は人間の脳細胞である、グリア細胞と酷似していました。さらにはコルチゾール、ドーパミンというふたつのホルモン物質を、通常ではありえない濃度で凝縮した成分も検知されたといいます」
「あのクリスタルの塔が、人間の脳みそとおなじだってのか?」
「似ている、というだけです。言葉としては、それだけなのですが……、人間の脳とおなじ成分のものが、あんなに硬質化している理由がまったくわかりません」
キルラは、もうすでに人知や化学でどうこう説明できるものではなかった、とでもいうのか。
「学者たちがどんなにだだをこねても、判明した事実は変わりません。人間の脳。そこにあるはずの、ホルモン物質。それらが、キルラという現象を構成している……。現状として、人知がたどりついたのは、その結論以外にないのです」
ばかだ、そんなの、ばからしい。
そう考えたいのが正直なところだ。
しかし、二〇〇年前の著名学者たちが命がけで調べあげた事実を一脚できるのか。それならば、キルラをだれが解明して、だれが消滅させられるというのか。
「ここからは、わたしの考古学的な見解になってしまいますが——」
ヒナは視線を落として目を横に流した。傾いた頭が証明を反射して、黒髪に浮かぶ天使の輪が、さらにはっきりとした。
「インターネットの時代。それは、ストレスの時代とも呼べるものだったと、わたしは想像します。全世界の個々人がほぼ例外なく、といっていいほど、インターネットという交流の場でつながっていました。そこでは毎日、毎秒、言葉が飛び交っていた。いや——飛び交うなんてレベルではない。溢れかえっていた。溺れていた。それくらいの表現でも足りないかもしれません」
この手の話になると、いつも思う。インターネットがあったら、ネシティは廃業になるな、と。発した言葉がものの一秒で届けられるなら、おれたちはいらない。電子メールというやつなら、純政府の文面検査が入るスキマもないだろうし。
「愛や、感謝の言葉を一瞬で届けられるメリットが、ネットにはたしかにあります。しかしその影で、ネットは比較と競争の戦場でもありました」
ヒナが言って、おれの頭に浮かんだのは炎だった。火は、躰を暖めるし、料理だって、風呂だって用意してくれる。
しかし使い方をまちがえれば、火事にも災害にもなる。インターネットもそういうものだったのだろうか。
「自分よりいい暮らしをしていたり、いいものを持っていたり……。そんなものばかりを目にする場所でもあったのです。これは心理学でいう、エンヴィー型の嫉妬をとくに刺激するものです。いいな、羨ましい——他者にそう思わせるためのコンテンツが溢れていました。むしろ、羨ましいと思わせることを意図して、コンテンツを置いていく投稿者もいた。さらに、それを讃称するシステムもありました」
突然、ヒナは親指を立ててこちらにその手を突き出してきた。
「……グッド?」
「そうです。グッドサインです」ヒナは手を下ろして、「ネット上に投稿されたコンテンツには、このグッドサインが送られます。大衆からの票です。あなたの投稿が、いいね! と称賛するものです。これをもらうと、人間の脳は凄まじい量のドーパミンを放出します。ドーパミンは依存物質でもあります。一度その快感を経験したコンテンツ投稿者は、次も、次も、と繰り返していくことになります」
もしおれに置き換えると、パンがうまかった、と投稿して、それをだれかが褒めてくれる、みたいなものだろうか。
それか、紙喰いを倒していくらの換金ができた、と投稿して、いいね、と褒められるようなものか。
「エンヴィー型の嫉妬を刺激することで、大衆の目をひこうとする投稿は、自慢という行為にも密接につながります。どうでしょう、他人の自慢を毎朝、毎昼、毎夜、いちいち確認していたら、疲れると思いませんか……?」
「まぁ……。すすんでやりたいとは思わないな」
おれが言うと、ヒナはうなずきながら胸の前で片腕を水平にしてみせた。
「ここが、自分の生活水準のラインだとします」もう片方の手を、水平にした腕のすこし上に置いた。「ここくらいなら、自分も追いつけるかも、という励みになったかもしれません。しかし、ここならどうでしょう」
ヒナの片手は、水平にした腕のずっと上のほうまで移動した。ちょうど彼女のおでこのあたりだ。
「まるで届きそうにない生活を送る人間を、ネット上で見てしまうのです。それもひとりやふたりじゃない。閲覧すればするほど、何人だってそういう人を目の当たりにできる。その度に、めちゃくちゃ羨ましい! と感じる……。それは、人間が文明社会を形成する以上は絶対的に存在する、格差というもの……。埋めようのない格差を感じたとき、完全に肯定的な見解をする人は、どれだけいるでしょう……。よし! おれもがんばっぞ! って、超前向きになっちゃう人はいいでしょうけども……。そう思えない人のほうが、ふつうは多いように思えます」
そう言って、ヒナは両腕をすっと落とした。手のひらは、ぴったり閉じられたふとももの上に置かれた。
「結果、ネットによって自己肯定感がすり減る人も増えたのが、事実です。そして誹謗中傷という行為が蔓延した。自分が届きそうにない人物を口撃して、自分と同等、あるいは、自分以下まで社会的地位を引きずり下ろそうとする、愚かでしょーもない行為です」
かなり強めのため息をついて、ヒナは肩を落とした。ネットの時代にかぎらず、いま現代においてもそれがあるんだ、と語っているような仕草だった。楽園なんかは、その最たるものなのかもしれない。
「生きている時間のほとんどを他人と比べて生きるなんて、心が疲れそうだ」
「ですねぇ……」ヒナはくちびるに力を溜めてから言った。「いつ、どのタイミングで人間の遺伝子にこんなめんどうなシステムが組みこまれたんでしょうね……。文明開拓時代だったら、嫉妬という感情はおおいに役立ったかもですけど……。二〇〇年前のように、文明がある程度安定していた時代においては、むしろ過剰に機能していた印象があります。いまのわたしたちの生活に比べたら、電話もメールもネットも使えて、いいじゃないって。こっちが嫉妬しちゃいますよね」
——きょうの天気や風。その日ごとの足の調子。
あとはこれから行く街にパン屋があるのかどうか。
それらのことが、おれにはよっぽど重要だ。
他人なんかどうでもいい。
気にしている余裕もない。
来週にも紙喰いに殺されて死ぬかもしれない。だれかよりもいい生活しているかどうかなんて、考える時間もない。すくなくともおれは、自分の人生の一瞬一瞬に納得している。
「楽園に生きる人たちも、抑揚のない平和のなかで、心の暇を持てあましているように思います。あれを買った、これを買った、だれと結婚した、だれが離婚しただの……。他者との比較に一生懸命ですよ。そんな世界から
ヒナはそう言って目を閉じ、深呼吸をした。
「舞う砂を顔に感じて、死んだ廃墟の山を乗り越えていく……。食料の管理に冷や汗を流しながら、次に着く街まで、何時間で到達できるかを計算する——。いますぐに死んでもおかしくないんだな、と何度も思いました。ヒリヒリして楽しかったです」
そしてなにかを思い出して、あっ、と言った。
「体調がどうしても優れなくて、途中で一回だけシェルターを使わせてもらいました。もう、お腹が痛くて痛くて、よくは覚えていないんですけど——。あそこって、掃除しないで出てもいいんですよね?」
「……なんとなく察していたけど、やっぱあんただったか」
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