ー14ー



「暖房、つけるか?」

「あ、いや、大丈夫です」


 慌てながら言って、ふたたび両手を広げて見せてきた。ヒナのこれを見るたび、銃でもつきつけたような気分になる。


「寒くないのか? そういえば、あの探検服もこの時期にしては薄着だった。いま着ているのだって、外ではじゅうぶん寒いはずだ。風邪、ひかないのか?」

「だ、大丈夫なんです。わたし、普通の人よりも筋肉の質が優れているらしくて。同年代の同性とおなじサイズの筋肉でも、発揮できる筋力が異常なまでに高いんです……。それにともなうかたちで、代謝がおかしいんです。体温がいつも高めで、冷えとはほぼ無縁でして……。歩く湯たんぽなんて呼ばれたりなんかして、ははは……」


 恥ずかしそうに笑いながら、ヒナは言った。もしかして笑うところだったのかもしれないが、おれの顔は無表情を貫いた。


「とはいえ、化学的に証明されたわけではないのですが、人体に詳しい医師からすると、そうとしか考えられないと……」


 ゴンドラの縄をぶっちぎった理由がやはり、このちいさな躰に隠れていた、ということか。


「すごいな。得じゃないか」

「どうせなら筋肉じゃなくて、脳のほうが優れていたかったなぁ、なんて……、ははは」


 笑ってはいるが、目は途方に暮れて、まるで生気が抜けている。


「頭のほうだって、じゅうぶん賢いだろ?」

「そんなことないです。楽園には賢い人が多い……。あ、だからといって、セトさんやほかの街の方が頭わるい、というわけではないです。ただやはり、書物に溢れているので、それなりの学は身についてしかるべし、ではあります」


 上には上がいて、その世界にはその世界の優劣が存在しているのだろう。


「楽園も大変なんだな」

「楽園……、ですか」ヒナは顔を曇らせた。「むしろ獣の巣窟といったほうが近いかもです。みな、それなりに賢いものだから、悪知恵やなんかもよく働きます。直接殴りあったりはせずとも、裏から狡猾に手をまわして、相手が社会的に身動きできなくするとか……。他人の弱みほど価値のあるものはない——そんな空気のなかで、あいつよりもいい生活を、あいつよりもいい生活を、って……」


 語るヒナの手が、だんだんと拳に変わっていくのがわかった。


「毎日毎日、他者との比較と、あげあしの取りあいばかり。くだらないんです。心がすり減ってどうしようもないです。頭がいいなら、それを、他者のために使うべきなんです。自慢と保身のためだけに使われたんじゃ、知恵も賢さも、虚しいだけです」


 どこもおなじか、と思った。楽園は書物に溢れていて、みなが活き活きとして、心も生活も、それ相応に豊かなのだろう——と考えていた。この楽園への印象は、一般論でもあるはず。


 しかし賢ければ賢いほどに、豊かならば、豊かなままに、人はをする。見た目がちがうだけで、内容はおなじ。自分だけが守られればいい。自分がいちばんなら、それでいい。そのためにだれかが傷ついたとしても、それは、弱いほうがわるかった——それで済ませてしまう。


「だからわたしは、ひとりで飛び出しました。みなから笑われました。そんなことをしてなんになる? いまが楽しければいいじゃない。楽園が豊かなら、それでじゅうぶんじゃない、って」


 会ったことはないが、ヒナにそう言ったやつの顔が浮かぶようだった。


「……でも、楽園だっていつまで安全かわからない。そりゃ、アトラは広範囲かつ高性能の街周電気柵に守られています。しかも楽園は、ただでさえ豊かな街とされるアトラの、さらに中心地——。だれがどう見ても安全であると思われがちです。ただ……、わたしはあえて杞憂しているんです。もしかしたら、セトさんなら、わかってくれるかもしれない」


 これまでにない、神妙で、真剣で、そして暗い雰囲気を醸しながら、ヒナは次のひとことを放った。


「紙喰いが、いつか飛べるようになるんじゃないかって」


 それは、だれしもが一度は考えるけれど、すぐに抹消する思考だった。なぜなら、紙喰いは進化の過程で飛行能力を失っているからだ。


 虫が起源のやつでも、鳥が起源のやつでも、例外はない。やつらが空を飛ぶことはない。ありえないし、あってはならない。


「セトさんは、何匹も紙喰いを討伐されていますよね?」

「ああ」

「なら、翼や羽をご覧になったことは、何度もあるかと……」


 うねうね、ぱたぱた……、とても飛ぶために動いているとは思えない光景ばかりが去来する。闘うときも、やつらの翼や羽を意識したことはない。


「あいつらのは、ただの飾りだ。羽ばたくような仕草をするやつもいる、たしかにな。——でも飛べない。躰が重すぎるのか、翼が弱すぎるのか。原因はわからないけど、共通はしている。あいつらは、ぜったいに飛べない」


 反論するつもりなどない。けれど、事実を口にすれば、自然とヒナの考えを否定する流れになってしまう。ヒナは口を固く結んで、黙ってしまった。


「わるい、気に障ったか?」

「あ、ええ!? そんな、まさか」例の両手の仕草だ。「むしろごめんなさい。紙喰いに関しては、わたしなんかよりもセトさんのほうが、まちがいなくプロなのに……」


 これに関しては議論のしようがない。これまでに、飛んだ紙喰いを見たやつがいない以上は。


「——でも、これからのことは、だれにもわからないんです」ヒナが言った。


 なにも見えない暗闇で、真実を探しているようなものだと思った。不安と、たしかにあるはずだという、不安定な信憑——。しかし見えないものが見えた瞬間、事態は急激に変化する。いまは見えないだけだ、といっているのは、この世でヒナひとりだけ。


 いつか漆黒が光に照らされたとき。

 もし、そこに飛べる紙喰いがいるのなら。

 そいつは楽園を——


「焼き尽くす……」


 ぼうっと考えながら、おれはちいさく言った。


「焼き……?」ヒナはこちらの顔をのぞいた。

「いや、なんでもない。つづけてくれ」

「あ、それじゃあ……」んん、とヒナはノドを整えて、「なぜ、そう思うのかという、話になるのですが……」

「いつか、紙喰いが飛ぶかもしれないと?」


 いま放った言葉が煙のように宙を漂って、どちらも喋らない数秒が流れた。


「……二〇〇年前。キルラなんてものが現れるとは、だれも思っていなかった。キルラ発現の半年前から、一部の地質学者は騒いでいたようなのですが……、だからといって防ぐ手立てなんか、なかった」


 沈む口調で言って、ヒナは深い息をついた。


「急だったんです。地球の地下、とてもとても深い場所に、幾千もの影が観測された。それらが急激に地表に向かって成長している、という事実もです。その観測においても、日毎にノイズが増えていった。まともに測れるものではなくなっていった。そして事態は、専門家どうしが情報交換するだけでは済まなくなった。世界じゅうの人々が、気づいたのです。、と」


 いったん、ヒナの言葉が途切れた。どこからか遠吠えが聞こえた。たぶん、野良のオオカミかなにかだ。そういえば、きょうは満月だった。


「ネットがつながりにくい、電話がノイズだらけでまともに使えない。メールも届くけれど、文字化けしまくりで、なんのことやら……。テレビやラジオも影響を受けはじめ、社会は、文明は、刻々かつ急速に蝕まれていった」


 そして、きたる日は、きた。


「地球は病気になった……」

「教科書にも、多少は正確に書いてあります。けれど、キルラ発現当初、まだ出版業界が最後の息をしていた時分に制作された本があります。そっちほうが、より詳しくて、生々しいです」

「やっぱり、そういう本があるんだな」

「……ええ。楽園の、かぎられた人しか、読めないです。楽園のなかに博物館があるんですけど、そこに飾ってあります。ほとんどの人はガラスケースのなかで鎮座している本の、表紙を見るだけで終わってしまいますが」

「……なら、あんたはどうやって?」


 問うと、ヒナはまた恥ずかしそうにもじもじと全身をくねらせた。


「えと……、父が、その……。館長でして、博物館の……」

「ああ……」なるほど。「それは得だ」

「あ、あの……、もし、アトラに来ることがあったら、その……。楽園に行きませんか?」


 まさかそんな誘いを受けるとは。あまりにも現実味がなくて、反応に困った。

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