ー13ー
「いや……。そうじゃねぇ。けど、結果論としてはそうなっちまう」
きょう何度目か、といえるため息をキヅキはまたつく。
「いろんな原因と、状況とで……、事態はそれでしかなかった。おれもオロチとやりあったけど、勝てたのはキヅキに教えられた戦闘術のおかげだ。それとロビンばぁの義足のおかげ」
「いや……。おまえ自身の力だよ」
結果としては、サキを助けられたわけだし、そこまで苦い思い出として残っているわけではない。小学校でのいじめのほうがよほど、心には傷として残っている。
「あ、あと……」おれはすこし姿勢を正して、「ユヅキに会った。カンドゥで」
やっぱりそうだよな、という顔でキヅキはしばらく黙ってから、しずか口を開いた。
「カンドゥの街なかで紙喰いの騒ぎがあったとなれば、まっさきにあいつの顔が浮かんださ。会ったときは、初対面みたいな感じだったろ? あれでも、おまえのおしめを変えたことあるんだぜ」
「まったく記憶にない」おれはすこし笑った。「小説が売ってるかも、と思って古本屋に入ったら—— まさかの弟だった」
「……元気してたか?」
「ああ。普通にしてた」
「そうか……」
おれが顔を知らないくらいだし、キヅキにとっても遠い存在になっていたのかもしれない。
「ケンカ別れでもしたのか?」
「いや、そうじゃねぇ。ただ——血に汚れるあいつに対して、おれができることがなにもなかった。それだけだ」
「……デシカントの件、だろ?」
「聞いたんだな。おまえの雰囲気からして、そんな気はしてた。じゃなきゃ、ユヅキの話をするおまえの顔から笑顔が見えるわけがねぇ。あいつは、なんつうか……」
「ひねくれてる?」
「まぁ、初対面にはいい印象を与えないようにしているかもな。きらわれてなんぼ、みたいな考えがどっかにある」ここでやっと、キヅキは笑顔になった。「そんなんで店主なんかよくやってんな、って話だけどさ。でも、人を助けるのは好きなんだ。だれよりも、といってもいいかもな……」
いざとなれば自分の命よりも、他人の命を優先する——そんなところが、たしかにユヅキにはありそうだ。
「ユヅキの店の近くで、パン屋の主人が急死したんだ」
「まじか!? 紙喰いのせいか?」
「いや、それとは関係ない。病死なんだけど、容体の悪化は紙喰いが来る直前のことだった。だから、直接の因果はない。で……、そこにはひとり娘がいたんだけど。そいつのことを、ユヅキは助けようとしてくれてた」
おれが言うと、キヅキは顔を固めてこっちを凝視した。
「……なに?」あまりにもなにも言わないので、おれは怪訝に突いた。
「その娘、まさかおまえ、好きになったのか?」
「ちがう」
「そうか……」なぜか残念そうだ。
「もう、なんなんだよ。クルミもそんなこと言ってたぞ。いい加減にしてくれ。おれが恋愛になんか興味ないって知ってるだろ?」
「——いや、顔だ」
「なんかついてるか?」
「りんごがついてる」
「はぁ?」
食卓にりんごなんか出てなかった。
「なんだよりんごって」
「ほっぺたが赤くなってんだよ。初めてだ、おまえのそんな顔」
「……疲れてんだよ。それだけだ」
おれは口をとがらせて言った。キヅキはそれからずっと、にやにやとうれしそうなままだ。
「あ、そうだ、アンザイは?」
気が落ちつかなくて、話題をそらしたくなった。
「あー、あいつは引退して、リカドナで暮らしてる」
「そうだったのか……。コロも一緒に?」
「そうだな。——どうした?」
「いや、ちょっと気になって」
「大丈夫。みんな元気にしてる」
「それなら、よかった」
「人のことより、おまえは自分を休ませたほうがいい。明日に疲れを残すなよ。なにかあったら、すぐに言え。パンでもなんでも、部屋に届けてやるから」そう言ってキヅキは優しく笑った。
「ありがと。早めに寝るよ」
やっぱり連会はおれの故郷で、育ての親は、本物の親かってくらい、おれのことを心配してくれている。見すぎなんじゃないかってくらい、おれをよく見ている。
帰る場所がある——その事実が、いつも以上にうれしかった。
毎夜、描かれる弧のてっぺんに月が届くころ。おれはもくもくと自分の部屋を掃除していた。口に白い布を巻いて、ほこりを吸わないようにしていたけど、ほうきを動かすたびに舞う塵に鼻の奥がむずむずした。
しばらく家を空けると、ねずみの一匹くらいは現れたりするが、きょうは見なかった。もうすぐ雪が降る季節だからかもしれない。なぜすがたを見せないのか、そもそも近くにいないのか——その理屈はおれにはわからない。
ほこりをやっつけて、濡れたぞうきんで拭き掃除をすれば終わりだ。バケツは外の物置にある。外は冷えるから、クローゼットにあるコートを羽織った。しばらく着ていなかったから、カビのにおいがした。
ドアを開けようとすると、顔の前でノックの音がした。思わずおどろいたが、すぐにドア越しから声が聞こえた。
「夜分にすいません……。ヒナです。あの、明かりが見えたので、まだ起きておられるかな、と……」
人と話すスイッチを完全に切っていたので、気持ちを切り替えるのに数秒かかった。
「……ちょっと待ってくれ、いま、掃除してる」ドア越しに言った。
「あ、それなら手伝いましょうか?」
「いや、大丈夫。これから物置にバケツを取りに行くところなんだ。ドアから離れてもらっていいか?」
「あ——」
ざっ、ざっ、と足音がした。ヒナが離れたことを音で確認してから、ドアを開けた。
「す、すいません、お忙しいところ」
星空を背負いながら、ヒナは九〇度で頭を下げた。昼間はベージュ色の探検服を着ていたけど、いまはピンクのチェックシャツで上下おなじ柄だ。きっとパジャマだろう。足元だけは変わらず、ごついトレッキングシューズだ。三つ編みだった髪も解かれていて、ミディアムのストレートが天使の輪をつくっている。
「大丈夫だけど、あんたこそ寝なくていいのか?」
「ええ。あの、あすの午前にはここを発つので……。その前にお話しをしたくて」
寝耳に水というほどでもないが、そんなに早くいなくなるのか、と思った。
「……そうなのか」おれは口の布を下げた。冷たい夜風が湿った口元を刺すような心地がした。「忙しいんだな」
「すぐにカンドゥにもどろうと思ってるんです。そこですこし滞在をしつつ、執筆でもしようかな、と……」
「まぁ、ここら一帯よりは栄えているから、そのほうがいいと思う。あと——寒いから、なかに入ったほうがいい」
「え、あ、いいのですか?」ヒナは恥ずかしそうにしている。
「訪ねてきたんだから、家に入るつもりだったんだろ?」
「あ、その、話しができればどこでも、とは思っておりましたけど……」
「なら、家のなかでいい。拭き掃除だけ、させてもらえるか?」
「も、もちろんです」ヒナは両手を広げて見せた。「ごめんなさい、ほんと、お忙しいところ……」
「気にしないでくれ」
ヒナを室内に入れてから、おれは外にある物置小屋に行った。バケツを取ってから、バスルームの蛇口で水を溜めた。寒い外からもどると、暖房の効いていない室内でも暖かいものだと感じる。恐縮するヒナを待たせながら、ひとまず拭き掃除をはじめた。
「さすが。手が慣れてますね」
ぞうきんをしぼるおれの背中に、ヒナが話しかけた。
「シェルター維持班だったからな。掃除は得意だ」
「ネシティは、全員がその、維持班というものになるのですか?」
「そうだな。新人はかならず維持班を経験する」
答えてから、おれは床を拭きはじめた。ヒナはこちらの動きを見て、邪魔にならないように立ち位置をずらしていく。
「あの……」ヒナがちいさく言った。「やっぱりなにか手伝ったほうが……」
「いや、大丈夫だ。すぐに終わる」
「は、はい……」
もともとキレイなぞうきんではないが、床を拭くとさらに黒くなった。それだけ、床が汚れていたということだ。
「なぁ」背後にいるヒナに声を投げた。「人間って、生きているだけで悪いのかな」
急な質問だったせいか彼女は数秒黙った。
「……うーん。それをいうなら、この世の生物はみな、生きていることが罪になってしまいますね」
「人間ほど頭のいいやつはいない」
「そうですね……。自然界において、通常なんら干渉を受けるべきではない輪廻が存在していると定義したとき。それらを遮断して、自由気まま、わがままに振る舞っているのが人間である……。という見解はできるかもです」
むずかしいセリフだったせいか、こちらの手が一瞬止まった。言っていることのすべてを理解したつもりはないが、なんとなくの意味はわかった。
「現代においても?」
「木を切って整地をしたり、家畜によって肉類を調達したり、街や工場からの排汚水だったり……。キルラが存在するいまでも、人間は自然を破壊して、生命の摂理を懐柔している。そういえるかもです」
「そうか……。とりあえず、掃除を終わらせる」
「あ、ごめんなさい、ど、どうぞ焦らずに……」
さすがに、拭き掃除をしながら話せる内容ではないな、と思った。おれはまずこの作業を片付けることに集中した。
「なにもないが、ゆっくりしてくれ」
ヒナをベッドに座らせて、おれはデスクの椅子に座った。すこし距離はあるが、話すには問題ない。そもそも、部屋自体がそこまで広くない。
ぞうきんで拭き掃除した直後の、生乾きで湿ったにおいがほのかに漂っているのも気になるが、それは仕方ない。窓を開けても寒いだけだ。
「い、いいのですか? わ、わたしの尻がベッドを懐柔しています——あ、ちがった、蹂躙していますが……」
「かいじゅうでもなんでもいい。気にせず座ってくれ。そこが、この部屋のなかでいちばんクッション性がある場所なんだ」
「はぅ……」閉じた足をもじもじと動かしながら、ヒナは顔を赤くした。「と、殿方のお部屋にお邪魔したことはもとより、べ、べべべベッドの上に案内された経験などなくて……」
さらに合わせた両手をふともものあいだに差しこんで、今度は全身をもじもじさせはじめた。もしかして、寒いのだろうか。
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