第37話 いつかきっと、

 見送りの声が遠ざかり、小道を二人で歩く。

 先ほどまでの賑やかさが嘘のように、辺りはしんと静まり返っている。

 だけど、寂しいという気持ちはまったくない。

 心は新しい未来への期待と高揚感で満ちていた。


「これからどこへ行く?」

「んー、決まってない」


 ふいに隣から投げかけられた問いに、マナは空を見上げながら気の抜けた声で答えた。

 レイが小さく息をつくのが聞こえる。唖然としたような反応に、マナはくすりと笑った。


「でもね、ちゃんと進みたい道は決まってるの。これから訪れる場所、出会い、経験……そのすべてを大切にしたい。それが私の成長に繋がると思うから」


 自分の言葉を心に留めるように噛みしめ、レイの方に顔を向ける。

 

「それで、いつかあの写真の場所、海に行くの」


 自分が生まれた場所。そして、そこはきっと母が残した最後の道標みちしるべ

 一人では難しいかもしれない。けれど、今は隣にレイがいてくれる。

 二人でなら、絶対に辿り着ける。

 

「海くらい、今すぐにでも飛んで行ってやるが?」


 彼らしくない唐突な申し出に、少し驚いた。

 早く面倒事を終わらせたいようにも思えたが、いつもの意地の悪さや利己的な感情はあまり感じられない。

 レイの言葉は嬉しかったが、そうするのは違う気がした。


「ううん。自分の足でしっかり歩いて行く。一歩一歩を踏みしめて、成長して。それで、最後に『ただいま!』って海に叫ぶの」

「相変わらず脳天気な奴だ」


 ふふっと得意げに顔を上げる彼女に、レイは再度ため息をついて少しだけ歩調を早めた。


「……ねえ、レイ。一つだけ、約束して」


 歩みを緩め、ふと足を止めたマナは彼の背中に声をかけた。

 普段と少し違う、重みがある声。

 彼女の呼びかけに反応したレイも、歩みを止めて振り返った。

 

「私が大聖女になって、レイに心臓をあげるときが来たら。その前に、もう一度だけみんなに会わせて」


 マナの茶色い瞳は、いつか訪れる未来を想像しているように深く煌めいている。

 

「……お母さんは突然死んじゃったから。やっぱり、お別れはちゃんとしたいかな」


 眉を少し下げながら、マナはえへへと笑う。

 寂しさと切なさが混ざっていて、過去のことを思い出しているようでもあった。


「……覚えていたらな」

「大丈夫。もし忘れてたら、私が命令するから。それがレイへの最後の命令になるかもね」


 マナは冗談を言いうかのように明るく笑ったが、その笑顔には運命を受け入れている刹那的な強さが感じられた。

 

「さっさと行くぞ」


 つれないようにレイは前へと歩き出す。

「ちょっと待ってよ」と慌てて後を追おうとした、そのときだった。

 

「マナ」


 風が、止んだ気がした。

 ふいに呼ばれた名前に、足も、呼吸も、時間も、すべてがぴたりと止まる。


 フェアラートに名前を呼ばれたときとも、伯母おばに呼ばれたときとも、タクトやリラ、アルトに呼ばれたときとも違う。

 心臓が大きく跳ねて、身体中に熱が巡る。

 彼を見る目が自然と開いて、彼の声が胸の奥にまで染み込んでいく。

 全部、初めての感覚。


 レイの横顔は、見たことないほど優しいものだった。

 

「……今、名前呼んでくれた?」


 小さく問いかける。

 けれど、気のせいじゃない。確かに呼ばれた。

 なのに彼はそっけなく肩をすくめる。


「さあな」

「呼んだよ! ね、どうして呼んでくれたの?」


 冷たい態度のはずなのに、今はなんだかくすぐったく感じてしまう。

 マナは駆け足で隣に並び、レイの顔を覗き込むようにして詰め寄った。

 

「呼んでない」

「嘘! 聞こえたもん」

「知らん」


 軽く流されるのが悔しくて、むっと唇を尖らせた。


 ──でも……。

 

 ただ名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも嬉しくて、胸が高鳴るのだろう。

「マナ」と呼んでくれる人は、たくさんいる。

 特別なことではないはずなのに、レイに初めて名前を呼ばれて、はっきりと実感した。

 彼だけは、特別なんだと。

 もっと聞きたい、何度でも呼んでほしい。

 

「……ねえ。また名前、呼んでね」


 小さく微笑みながら、そっと視線を向けた。

 彼はいつもみたいに無愛想に遠くを見ている。

 けれど。

 

『覚えていたらな』

 

 彼の唇が、そう動いたように見えた。

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