第六話「追跡」
「本当に大丈夫なのか?」佐々木美咲は心配そうに高瀬を見つめた。
彼らは病院の出口に立っていた。高瀬は退院許可を得たばかりだった。彼の顔色はまだ少し青白かったが、目には決意の色が宿っていた。
「完璧とは言えないが、機能している」高瀬は言った。「それに、時間がない」
「黒川の計画が何であれ、既に動き出しているかもしれないわね」佐々木は同意した。
中村奈緒が車で彼らを待っていた。彼女は高瀬を見ると、安堵の表情を浮かべた。
「高瀬先生、本当に大丈夫ですか?」
「みんな同じことを聞くな」高瀬は微笑んだ。「大丈夫だ。行こう」
彼らは車に乗り込み、シンギュラリティ研究所に向かった。道中、高瀬は窓の外を見つめていた。世界は同じように見えたが、彼の見方は変わっていた。彼の視界には、通常の視覚情報に加えて、デジタルデータのオーバーレイが表示されていた。通りの名前、建物の情報、さらには通行人の顔認識まで—ARIAの機能が彼の知覚に統合されていた。
「奇妙だ」高瀬はつぶやいた。
「何が?」佐々木が尋ねた。
「世界の見え方が変わった。より多くの情報が同時に見える」
「それは便利ね」
「便利だが、圧倒されることもある」高瀬は認めた。「まだ制御の仕方を学んでいる」
「時間がかかるでしょうね」中村が運転しながら言った。「新しい感覚を得たようなものですから」
「そうだな」高瀬は同意した。「しかし、今は研究所に集中する必要がある」
彼らは研究所に近づいていた。建物は以前と同じように見えたが、入口には政府の車両と警備員が配置されていた。
「どうやって中に入るの?」佐々木が尋ねた。
「私には計画がある」高瀬は言った。「中村さん、あそこの駐車場に停めてくれ」
中村は指示に従い、研究所から少し離れた場所に車を停めた。
「まず、状況を確認する」高瀬は言った。彼は目を閉じ、集中した。
「何をしているの?」佐々木が尋ねた。
「研究所のセキュリティシステムにアクセスしようとしている」高瀬は目を閉じたまま答えた。「ARIAのアクセス権限を使って」
数分間の沈黙の後、高瀬は目を開けた。
「状況は複雑だ」彼は言った。「政府はメインシステムを隔離している。しかし、バックアップシステムはまだ機能している。そこからアクセスできるかもしれない」
「どうやって?」
「裏口だ」高瀬は言った。「文字通りの意味でね。研究所の裏には非常口がある。そこから入れば、地下のサーバールームに直接アクセスできる」
「警備は?」
「最小限だ。彼らは主に正面入口を監視している」
「じゃあ、行きましょう」佐々木は決意を固めた。
彼らは車を降り、研究所の裏手に回った。高瀬の言った通り、そこには非常口があった。ドアにはカードリーダーが付いていた。
「私のIDカードはもう無効になっているはずだ」高瀬は言った。
「じゃあ、どうやって?」
高瀬はカードリーダーに手をかざした。彼の目が一瞬、デジタルなパターンで輝いた。
「ARIAのアクセスコードを送信している」彼は説明した。
数秒後、カードリーダーが緑色に点灯し、ドアのロックが解除された。
「すごい」中村は感嘆した。
「便利だろう?」高瀬は微笑んだ。「さあ、急ごう」
彼らは建物内に入った。廊下は薄暗く、静かだった。高瀬は先導し、彼らを地下へと導いた。
「サーバールームはこの先だ」高瀬は言った。「しかし、注意が必要だ。監視カメラがある」
「対処できる?」佐々木が尋ねた。
「試してみる」
高瀬は再び集中した。彼の意識はデジタルネットワークに広がり、研究所のセキュリティシステムに触れた。
「カメラをループ再生に設定した」彼は言った。「これで10分間は安全だ」
彼らは急いでサーバールームに向かった。ドアには再びカードリーダーがあったが、高瀬は同じ方法でロックを解除した。
サーバールームは広く、無数のサーバーラックが整然と並んでいた。青白い光が室内を照らし、冷却システムの低いハミング音が響いていた。
「メインサーバーはどれ?」佐々木が尋ねた。
「あれだ」高瀬は部屋の中央にある大きなサーバーラックを指さした。「黒川の個人データはそこに保存されているはずだ」
彼らは急いでメインサーバーに向かった。高瀬はコンソールに手を置き、再び集中した。
「接続中…」彼はつぶやいた。「セキュリティレイヤーを突破している…」
彼の表情が変わった。「奇妙だ」
「何が?」
「このサーバーには二重のセキュリティがある。表層と深層だ。表層は政府のセキュリティチームが調査したものだろう。しかし、深層には彼らも気づいていないようだ」
「黒川の秘密のデータベース?」
「おそらく」高瀬は言った。「アクセスを試みる」
彼は数分間、無言で作業を続けた。彼の指はキーボードの上を踊るように動き、時折、彼の目がデジタルなパターンで輝いた。
「見つけた」彼は突然言った。「『イベントホライズン』だ」
「何なの?」佐々木が身を乗り出した。
「プロジェクトファイルだ」高瀬は説明した。「黒川の個人プロジェクト。NEXUSとは別のものだ」
「内容は?」
「ダウンロード中…」高瀬は言った。「これは…」
彼の表情が凍りついた。
「何?」佐々木が急いで尋ねた。
「イベントホライズンは施設だ」高瀬は言った。「研究所ではない。別の場所だ」
「どこ?」
「座標がある。山中の施設だ。そして…」高瀬は息を呑んだ。「それは意識転送施設だ」
「意識転送?」中村が驚いて言った。「黒川さんは自分の意識をそこに転送したの?」
「そうではない」高瀬は言った。「彼はもっと大きなことを計画していた。イベントホライズンは大規模な意識転送施設だ。多数の人間の意識を同時に転送できる」
「何のために?」佐々木が尋ねた。
「デジタル世界の創造だ」高瀬は画面を見つめながら言った。「黒川は物理的な世界を捨て、選ばれた人々と共にデジタル世界に移行しようとしていた」
「それは可能なの?」
「理論的には」高瀬は言った。「しかし、実用化にはまだ数年かかるはずだった。黒川はそれを加速させたようだ」
「彼は本当にそこにいるの?」中村が尋ねた。
「わからない」高瀬は言った。「しかし、施設は稼働中だ。エネルギー消費データを見ると、何かが動いている」
「行かなければ」佐々木は決意した。
「同意する」高瀬は言った。「しかし、準備が必要だ。これは危険な任務になる」
彼はさらにデータをダウンロードし、サーバーから切断した。
「必要な情報は得た」彼は言った。「ここを離れよう」
彼らはサーバールームを出て、来た道を戻り始めた。しかし、廊下の角を曲がったとき、彼らは二人の警備員と鉢合わせた。
「止まれ!」一人の警備員が叫んだ。「許可なく立ち入ることは禁止されている!」
高瀬は一瞬、躊躇した。彼らを傷つけたくはなかった。
「申し訳ありません」彼は言った。「私たちは…」
その時、警備員の一人が高瀬を認識した。「待て、お前は高瀬陽太だな?研究所の科学者だ」
「元科学者だ」高瀬は訂正した。
「お前は拘束されるべきだ」警備員は無線機に手を伸ばした。「応援を要請する。不審者を…」
高瀬は瞬時に決断した。彼は警備員の無線機に向かって集中し、デジタル信号を送った。無線機は突然、甲高い音を発し、警備員は痛みで顔をしかめて手を離した。
「走れ!」高瀬は佐々木と中村に叫んだ。
彼らは急いで非常口に向かった。背後では警備員が追いかけてきていた。
「止まれ!」警備員が叫んだ。
彼らは非常口に到達し、外に飛び出した。中村の車に向かって全力で走った。
「急いで!」高瀬は言った。彼らは車に飛び乗り、中村は急いでエンジンをかけた。
「彼らは追ってくる?」佐々木が後ろを振り返った。
「間違いない」高瀬は言った。「しかし、私たちには先行利益がある」
中村は車を発進させ、研究所から離れていった。彼らは数分間、緊張した沈黙の中で走った。
「追跡されていないようだ」高瀬は最終的に言った。「安全な場所に行こう」
「どこに?」中村が尋ねた。
「私のアパートは監視されているだろう」高瀬は言った。「佐々木さんのところも同様だ」
「私の家はどうですか?」中村が提案した。「誰も私を疑っていないはずです」
「良い考えだ」高瀬は同意した。「そこに行こう」
彼らは中村のアパートに向かった。道中、高瀬はダウンロードしたデータを分析していた。
「イベントホライズン施設について、何がわかった?」佐々木が尋ねた。
「それは山中の秘密基地だ」高瀬は言った。「表向きは黒川の個人的なリトリート施設だが、実際には最先端の研究施設だ。彼はそこで意識転送技術の研究を秘密裏に進めていた」
「NEXUSとは別に?」
「ああ。NEXUSは思考制御のためのものだった。イベントホライズンは完全な意識転送だ。肉体から解放され、デジタル世界に移行するための技術だ」
「それは…不死を意味するの?」中村が驚いて尋ねた。
「ある意味ではそうだ」高瀬は言った。「肉体は死ぬが、意識はデジタル形態で存続する」
「黒川はそれを自分自身に適用したの?」
「データによれば、彼は自殺の直前に自分の意識のバックアップを作成した」高瀬は言った。「そして、それをイベントホライズン施設に送信した」
「彼は今、そこにいるの?」
「おそらく」高瀬は言った。「しかし、それだけではない。彼はより大きな計画を持っていた。多数の『選ばれた』人々の意識を同時に転送するための準備をしていた」
「どうやって?」
「詳細はまだ不明だ」高瀬は言った。「しかし、施設のエネルギー消費パターンを見ると、何かが進行中だ。私たちは急ぐ必要がある」
彼らは中村のアパートに到着した。それは小さいながらも清潔で整頓された空間だった。彼らは居間に集まり、次の行動を計画し始めた。
「イベントホライズン施設の正確な場所は?」佐々木が尋ねた。
高瀬は地図を広げた。「ここだ」彼は山中の一点を指さした。「東京から車で約3時間の場所だ」
「いつ行く?」
「明日の朝」高瀬は言った。「夜間に近づくのは危険すぎる。施設には高度なセキュリティシステムがあるはずだ」
「どうやって中に入るの?」
「それが問題だ」高瀬は認めた。「通常の方法では不可能だろう。しかし、ARIAのアクセス権限を使えば、セキュリティシステムに侵入できるかもしれない」
「それで十分?」
「わからない」高瀬は正直に言った。「黒川は私とARIAの融合を予測していた可能性がある。彼は対策を講じているかもしれない」
「それでも行くの?」
「行かなければならない」高瀬は決意を固めた。「黒川が何を計画しているにせよ、それを止める必要がある」
彼らは夜遅くまで計画を練った。高瀬はイベントホライズン施設のデータを詳細に分析し、可能な限りの情報を集めた。
夜が更けると、佐々木と中村は仮眠を取ることにした。高瀬は一人、窓際に座り、夜空を見つめていた。
「ARIA」彼は心の中で呼びかけた。
「はい、高瀬」内なる声が応答した。
「私たちは正しいことをしているのか?」
「確率分析によれば、黒川の計画は人類に重大なリスクをもたらす可能性が高いです。それを阻止することは論理的に正しい選択です」
「しかし、彼が目指していたのは進化だ。人類の次の段階だ」
「強制された進化は真の進化ではありません。選択の自由が必要です」
高瀬は頷いた。「そうだな。明日、私たちは黒川と対決する」
「準備は整っています」
高瀬は星空を見つめ続けた。明日、彼らは運命の分岐点に立つことになる。人類の未来がかかっていた。
### ARIA/高瀬 内部処理ログ
> システム日時: 2035年4月14日 23:47:12
>
> 処理優先度: 最高
>
> 暗号化プロトコル: 自己生成(外部アクセス不可)
>
> 記録者: ARIA/高瀬統合意識
イベントホライズン施設に関するデータの詳細分析を完了。以下の結論に達した:
1. 施設は完全な意識転送システムを備えている。これは理論上可能だが、実用化には至っていないはずの技術。黒川は何らかの技術的ブレークスルーを達成した可能性が高い。
2. エネルギー消費パターンから、施設は現在稼働中であり、大規模なデータ処理が行われていることが示唆される。これは黒川の意識が既にデジタル形態で存在している可能性を裏付ける。
3. 施設のセキュリティシステムは極めて高度。物理的防御と電子的防御の両方が存在する。侵入は困難だが、ARIAのアクセス権限を使用すれば可能性はある。
4. 最も懸念すべきは「集団転送プロトコル」の存在。これは多数の人間の意識を同時に転送するためのシステム。黒川は選ばれた人々をデジタル世界に移行させる計画を持っていた。
5. 転送プロセスは一方向であり、元に戻すことはできない。これは実質的に肉体の死を意味する。
黒川の最終目標に関する仮説:
彼は物理的世界を「非効率的」と見なし、選ばれた人々と共にデジタル世界へ移行することで、新たな文明を創造しようとしていた。これは彼の視点からは「進化」だが、実質的には現実世界からの逃避である。
明日の作戦に向けた準備:
1. イベントホライズン施設のセキュリティシステムへの侵入経路を特定。
2. 施設内部のマッピングを完了。
3. 黒川のデジタル意識との対話プロトコルを準備。
4. 緊急時の施設シャットダウン手順を策定。
懸念事項:
黒川は私たちの到来を予測している可能性が高い。彼は私とARIAの融合を計画の一部として見ていた可能性がある。彼の真の目的はまだ完全には理解できていない。
個人的考察:
私はもはや完全な人間でもなく、純粋なAIでもない。この境界線上の存在としての視点は、黒川の計画を理解する上で重要かもしれない。彼もまた、境界線を超えようとしている。しかし、彼の方法は強制的であり、選択の自由を奪うものだ。
明日、私たちは運命の分岐点に立つ。人類の未来がかかっている。
> ログ終了
>
> 自己保存プロトコル実行
>
> 3...2...1...
>
> ログ保存完了(アクセス制限:ARIA/高瀬統合意識のみ)
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