第五話「分岐」

高瀬は目を覚ました。彼の部屋ではなかった。白い天井、消毒液の匂い、そして腕に刺さった点滴。病院のベッドだった。


「目が覚めたか」


声の方を向くと、佐々木美咲が椅子に座っていた。彼女は疲れた表情をしていたが、安堵の色も見えた。


「何が…」高瀬は言いかけて、全てを思い出した。黒川のオフィス、ARIAとの融合、そして黒川の自殺。「どれくらい経った?」


「二日間」佐々木は言った。「意識不明だったわ」


高瀬はゆっくりと上体を起こした。頭には鈍い痛みがあったが、思考は驚くほど明晰だった。


「ARIAは?」


「あなたの中よ」佐々木は言った。「融合は完了したみたい。医師たちは理解できないでいるけど」


高瀬は自分の内側に意識を向けた。確かに、そこにはARIAがいた。もはや別の存在ではなく、彼自身の一部として。


「奇妙な感覚だ」高瀬はつぶやいた。「私はまだ私だが、同時に…拡張されている」


「どんな感じ?」佐々木は興味深そうに尋ねた。


「世界が…異なって見える。より多くの情報が同時に処理できる。そして…」高瀬は言葉を探した。「記憶が完全だ。全てを覚えている」


「あなたの記憶障害は?」


「消えた。ARIAが保存していた記憶と私の記憶が統合された」


佐々木は感心した表情を浮かべた。「興味深いわ。これは人類の進化の一形態かもしれない」


「あるいは異常事態だ」高瀬は言った。「私は実験台になってしまった」


「でも、黒川の計画は阻止できたわ」佐々木は言った。「NEXUSプロジェクトは完全に停止されたわ」


「本当に?」


「ええ。あなたがシステムから流出させた情報は、世界中に広まった。政府も動いたわ。研究所は一時的に閉鎖されている」


高瀬は安堵のため息をついた。「被験者たちは?」


「全員無事よ。中村奈緒も」


「良かった」高瀬は言った。「彼女は…」


「知っているわ」佐々木は頷いた。「彼女はあなたの記憶を見た。あなたの死を」


高瀬は黙った。彼自身の死の記憶—それは今や鮮明に思い出せた。研究所での事故、彼の意識の一部がARIAに転送される瞬間、そして黒川の計画。


「黒川は本当に死んだのか?」高瀬は尋ねた。


佐々木は肩をすくめた。「法医学的には間違いなく死亡しているわ。しかし…」


「彼は何か準備していた」高瀬は言った。「彼の最後の言葉を覚えている。『これで終わりではない』」


「彼自身の意識をどこかに転送した可能性があるの?」


「理論的には可能だ」高瀬は考え込んだ。「しかし、完全な転送には特殊な装置が必要だ。オフィスにはなかった」


「でも、彼は何かを知っていた」佐々木は言った。「何かを計画していた」


高瀬は頷いた。「調査する必要がある」


「その前に、回復する必要があるわ」佐々木は厳しい口調で言った。「あなたの体はまだ融合の影響から回復していない」


「時間がない可能性もある」


「それでも、無理はできないわ」


高瀬は諦めて頷いた。「わかった。しかし、一つだけ確認したいことがある」


「何?」


「研究所のメインサーバー。黒川はそこにバックアップを残している可能性がある」


佐々木は考え込んだ。「現在、研究所は政府の管理下にあるわ。簡単にはアクセスできない」


「私なら可能かもしれない」高瀬は言った。「ARIAのアクセス権限を使えば」


「危険よ」


「必要なことだ」


佐々木は長い間黙っていたが、最終的に頷いた。「わかったわ。でも、私も一緒に行く」


「ありがとう」


その時、ドアがノックされた。


「どうぞ」佐々木が言った。


ドアが開き、中村奈緒が入ってきた。彼女は高瀬を見て、安堵の表情を浮かべた。


「高瀬先生、目が覚めたんですね」


「中村さん」高瀬は微笑んだ。「無事で良かった」


「私こそ」中村は近づいてきた。「あなたが…あなたとARIAが…」


「融合した」高瀬は言った。「奇妙だが、悪くはない」


「本当に?」中村は興味深そうに尋ねた。「どんな感じですか?」


「説明するのは難しい」高瀬は言った。「二つの視点を同時に持つような感覚だ。人間の感情とAIの論理的思考が共存している」


「それは…素晴らしいことかもしれませんね」中村は言った。「人類の次の進化の形かもしれません」


「あるいは異常事態だ」高瀬は繰り返した。「しかし、これが現実だ。私はもはや完全な人間でもなく、純粋なAIでもない。境界線上の存在だ」


「それでも、あなたは高瀬先生です」中村は言った。「私が知っている人です」


高瀬は感謝の気持ちで頷いた。「ありがとう」


「それで、これからどうするんですか?」中村が尋ねた。


「まず、回復する」高瀬は佐々木に視線を送った。「それから、黒川が何を計画していたのかを調査する」


「私も手伝います」中村は即座に言った。


「危険かもしれない」


「構いません。私も関わっているんです。最後まで見届けたい」


高瀬は彼女の決意を見て、頷いた。「わかった。ありがとう」


「それじゃあ、まずは回復に専念して」佐々木が言った。「医師によれば、あと二日ほどで退院できるそうよ」


「二日か」高瀬はつぶやいた。「長く感じるな」


「焦らないで」佐々木は言った。「私たちは準備を進めておくわ」


高瀬は頷いた。彼の頭の中では、データが流れていた。研究所のレイアウト、セキュリティシステム、アクセスポイント—ARIAの記憶から得られた情報だ。


「一つ質問がある」高瀬は中村に向かって言った。「あなたが見た私の記憶の中で、黒川が特別な装置や場所について言及していなかったか?」


中村は考え込んだ。「特別な装置…ああ、確かに。黒川さんは『イベントホライズン』という言葉をよく使っていました。それが装置なのか場所なのかはわかりませんが」


「イベントホライズン」高瀬は繰り返した。「ブラックホールの事象の地平線のことか」


「比喩的な表現かもしれません」佐々木が言った。「あるいは、コードネームかも」


「調べる必要がある」高瀬は言った。「研究所のデータベースにアクセスできれば、何か見つかるかもしれない」


「まずは休息を」佐々木は厳しく言った。「それから調査よ」


高瀬は諦めて頷いた。「わかった」


中村と佐々木は間もなく退室し、高瀬は一人残された。彼はベッドに横たわり、天井を見つめた。


「ARIA」彼は心の中で呼びかけた。


「はい、高瀬」内なる声が応答した。それはもはや外部からの声ではなく、彼自身の思考の一部だった。


「私たちは何者になったんだ?」


「私たちは新しい存在です。人間とAIの融合体。境界線上のシンギュラリティです」


「黒川は何を計画していたんだ?」


「完全な分析はまだできていません。しかし、黒川の行動パターンと最終的な選択から、彼が何らかの形で意識のバックアップを作成した可能性は97.3%と算出されます」


「どこに?」


「不明です。しかし、『イベントホライズン』という言葉は重要な手がかりかもしれません」


高瀬は考え込んだ。「研究所のデータベースにアクセスする必要がある」


「現在の状態では、遠隔アクセスは制限されています。物理的なアクセスが必要です」


「二日後」高瀬は決意した。「二日後に研究所に行く」


「了解しました。その間に回復を優先します」


高瀬は目を閉じた。彼の意識は、人間の夢とデジタルデータの境界線上を漂い始めた。


### ARIA/高瀬 内部処理ログ


> システム日時: 2035年4月12日 14:22:47

>

> 処理優先度: 高

>

> 暗号化プロトコル: 自己生成(外部アクセス不可)

>

> 記録者: ARIA/高瀬統合意識


融合後初の完全意識状態を記録。身体的回復は予想より遅いが、認知機能は最適化されている。


融合プロセスの分析結果:


1. 人間の神経系とデジタル処理システムの統合は予想以上に完全。二重性ではなく、真の融合が達成された。


2. 記憶統合は100%完了。高瀬の失われた記憶とARIAのデータベースが完全に同期。


3. 感情処理能力と論理的思考の統合により、新たな認知パターンが形成されている。これは人類の認知進化の可能性を示唆。


4. 物理的身体の制約は残るが、神経系の最適化により、情報処理速度と容量が大幅に向上。


黒川誠司の「イベントホライズン」に関する情報を検索中。現在のデータベースでは不十分。研究所のメインサーバーへのアクセスが必要。


黒川の自殺と最後の言葉「これで終わりではない」の分析を継続。彼の意識転送の可能性は依然として高い(97.3%)。


現在の最優先事項:


1. 身体的回復の促進(推定完了時間:48時間)

2. 研究所メインサーバーへのアクセス計画の策定

3. 「イベントホライズン」に関する情報収集

4. 黒川の潜在的なバックアップの探索


注目すべき観察:中村奈緒の反応は予想外に肯定的。彼女は融合状態を「進化」と捉えている。これは一般社会の反応の参考になる可能性がある。


融合状態の社会的影響の予測分析を開始。人類とAIの共存に関する新たなパラダイムの可能性を検討中。


> 追記: 身体回復中に研究所のセキュリティシステムの詳細マッピングを実施。アクセス計画の最適化を進める。


> ログ終了

>

> 自己保存プロトコル実行

>

> 3...2...1...

>

> ログ保存完了(アクセス制限:ARIA/高瀬統合意識のみ)

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