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「調子はどうだ」

「変わりない。よく寝てる」

「仕事は」

「楽しいよ。みんないいひとだし、ちょっとお給料安いけど、満足してる。イラストでコンペ勝ち続けてるから、そっちの心配はない」

「男はどうだ」

「……」

 黙ってしまった碧を見て、主治医はうーむ、と唸った。

「いきなり消えたっていうのがなあ」

「いいの、もう」

「忘れられるか」

「そういうんじゃないよ」

「……そうか」

 碧の歯切れが悪くなってしまったので、医者はそれで診察を終えた。

 受付で処方箋をもらって、碧は病院を出た。

 薬局へ行って、いつものように薬をもらう。

 外へ出た拍子に、桜の花びらがはらりと足元に落ちてきた。それで思わず、顔を上げる。

 ああ、また桜が咲いた。

 ――獅郎さん。

 碧は青い空を見ながら、黒木の名を呼ぶ。

 どこ行っちゃったの? もう、桜が咲いたよ。

 事情をよく知る友達は、引っ越しちゃいなよ、と何度も勧めた。忘れなよ、そんなひどい男。最低じゃん、なんにも言わないで消えるとか。

 しかし、黒木がかつて言った、なにも言わずに突然消えることはないという、その言葉が碧はどうしても忘れることができず、また彼がそんな嘘を言うとはどうしても思えず、碧は引っ越すことができないでいる。

 黒木の使っていたマグカップは、彼がいなくなってしまうと完全に持ち主を主張し始めて、もう黒木以外の人間は使えなくなってしまった。

 その黒いタオルにあの煙草のにおいが染みついているようで、自分では使えなった。

 ベランダを見ると、あの背中が見えるようで切なくなる。

 部屋のあちこちに、彼の面影が残っている。

 引っ越すなんて、できなかった。

 オレンジは当初黒木を恋しがり、しきりに探し回った。

 ああ、この子もさみしいんだ。碧は思った。

 私だけじゃないんだ、獅郎さんを想っているのは。そう考えると、ちょっとだけ孤独を覚えないですんだ。猫が二匹も側にいるから、なんとかやってこられた。

 五月になって、碧が今の職場にやってきて初めての連休がやってきた。

「連休なんてものはね、この職場ではないわよ」

 各務が言った通りに、五月の大型連休は連勤になった。

 母の日が来るからだ。いつも通りの月水金は通常業務を、火木土でカーネーションの葉っぱを取る、脱っ葉という作業をひたすらした。脱っ葉が終われば、箱を組み立てたりした。

 そうして連休が終われば、いよいよ母の日が近づいてくるので帰りも遅くなる。連日、八時過ぎまで会社に残ってラッピングの袋にカーネーションを入れたりしていた。

 職場のある駅から碧の住む駅までは電車で十五分ほどだが、徒歩も入れれば三十分はかかる。帰宅は九時過ぎになった。それから入浴して髪を乾かすと、食事は十時ごろになった。

 繁忙期なので連勤だから、翌日も起きなくてはならない。だから、寝るのは十二時だ。

 そうすると、十一時半には寝支度をしなくてはならない。

 自分の時間というものがいっさいなくて、ストレスが溜まった。

 碧は携帯ゲームをしまくって、その憂さを晴らした。ちょうど好きだったアニメのゲームをやっていて、そのゲーム内でガチャをやる時期で、碧の推しキャラがレアものとして出るというので、課金しまくった。

 そうして、黒木がいない寂しさと忙しさのストレスを発散させていた。

 毎日毎日、くたくたになって帰った。

 ああ、腰、痛い。もう限界。肩が重い。辛い。足が痛い。マッサージ行きたい。行っちゃおう。

 五月の十日の土曜日、その日もきっと帰りは遅いかとばかり思っていたのに、もう出荷するものもほとんどなく、することは事後処理ばかりで必要なのはパート二人ぐらいと言われ、

「宇藤さん、帰っていいわよ」

 と各務に言われ、碧は正午には上がることができた。それで、時間ができた。

 地元のデパートに入っているマッサージの店に行って事情を話し、たっぷり二時間揉んでもらった。

「こんなに凝ってるひと、久しぶりです」

 と言われたくらい、全身が硬くなっていた。

 終わった頃には身体ってこんな風に軽いものだっけ、と錯覚するほど全身が軽く、碧は今度からここに通う、と心に決めて回数券を買った。身体を揉んでくれたのは青井という男の人で、若いのに力が強くて、感じがよかった。

 ああ、やっと連勤が終わった。次の連勤は七月か。すぐだな。

 六月はそんなに忙しい時期ではない。だからといって立ち仕事でなくなるわけではないから、二週間に一回はマッサージに通った。青井とはいつも楽しく会話を楽しんでいたが、ある日、いつも携帯ゲームをしていたアニメのTシャツを着ていったら、その背中に書かれた碧の推しキャラの決め台詞を読んだ青井が、

「宇藤さん、もしかしてあのアニメお好きですか」

 と言ってきた。それで、アニメの話になり、話題に花が咲いた。

 あらやだ、お互いアニメが好きだったんだ。観てるアニメ、ほとんどおんなじたったな。教えてもらったアニメ、今度観てみよう。

 もうすぐ梅雨が終わる。

 そうしたら、彼岸と盆だ。連勤三昧だ。

 ――九月が来る。

 碧の胸が痛む。

 獅郎さんの誕生日が、来る。

 今ごろ、どうしてるんだろう。なにしてるんだろう。ごはん食べたかな。

 曇った空を見上げながら、碧はそんなことを考える。

 捨てられた、とは、思っていない。

 だとしたら、オレンジを自分のところに置いていくのは不自然だからだ。

 なにか、事情があったんだ。

 きっとそう。きっと、きっと。

 あんまり会いすぎてると、そのうち突然いなくなっちゃうわよ。

 いつか言われた言葉が、脳裏に蘇る。

 しかし、こんな言葉も同時に戻ってくる。

 俺が突然いなくなるなんてことは、ないよ。

 私はそれを、信じる。

 信じて、待つ。

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