5-1
5
「調子はどうだ」
「変わりない。よく寝てる」
「仕事は」
「楽しいよ。みんないいひとだし、ちょっとお給料安いけど、満足してる。イラストでコンペ勝ち続けてるから、そっちの心配はない」
「男はどうだ」
「……」
黙ってしまった碧を見て、主治医はうーむ、と唸った。
「いきなり消えたっていうのがなあ」
「いいの、もう」
「忘れられるか」
「そういうんじゃないよ」
「……そうか」
碧の歯切れが悪くなってしまったので、医者はそれで診察を終えた。
受付で処方箋をもらって、碧は病院を出た。
薬局へ行って、いつものように薬をもらう。
外へ出た拍子に、桜の花びらがはらりと足元に落ちてきた。それで思わず、顔を上げる。
ああ、また桜が咲いた。
――獅郎さん。
碧は青い空を見ながら、黒木の名を呼ぶ。
どこ行っちゃったの? もう、桜が咲いたよ。
事情をよく知る友達は、引っ越しちゃいなよ、と何度も勧めた。忘れなよ、そんなひどい男。最低じゃん、なんにも言わないで消えるとか。
しかし、黒木がかつて言った、なにも言わずに突然消えることはないという、その言葉が碧はどうしても忘れることができず、また彼がそんな嘘を言うとはどうしても思えず、碧は引っ越すことができないでいる。
黒木の使っていたマグカップは、彼がいなくなってしまうと完全に持ち主を主張し始めて、もう黒木以外の人間は使えなくなってしまった。
その黒いタオルにあの煙草のにおいが染みついているようで、自分では使えなった。
ベランダを見ると、あの背中が見えるようで切なくなる。
部屋のあちこちに、彼の面影が残っている。
引っ越すなんて、できなかった。
オレンジは当初黒木を恋しがり、しきりに探し回った。
ああ、この子もさみしいんだ。碧は思った。
私だけじゃないんだ、獅郎さんを想っているのは。そう考えると、ちょっとだけ孤独を覚えないですんだ。猫が二匹も側にいるから、なんとかやってこられた。
五月になって、碧が今の職場にやってきて初めての連休がやってきた。
「連休なんてものはね、この職場ではないわよ」
各務が言った通りに、五月の大型連休は連勤になった。
母の日が来るからだ。いつも通りの月水金は通常業務を、火木土でカーネーションの葉っぱを取る、脱っ葉という作業をひたすらした。脱っ葉が終われば、箱を組み立てたりした。
そうして連休が終われば、いよいよ母の日が近づいてくるので帰りも遅くなる。連日、八時過ぎまで会社に残ってラッピングの袋にカーネーションを入れたりしていた。
職場のある駅から碧の住む駅までは電車で十五分ほどだが、徒歩も入れれば三十分はかかる。帰宅は九時過ぎになった。それから入浴して髪を乾かすと、食事は十時ごろになった。
繁忙期なので連勤だから、翌日も起きなくてはならない。だから、寝るのは十二時だ。
そうすると、十一時半には寝支度をしなくてはならない。
自分の時間というものがいっさいなくて、ストレスが溜まった。
碧は携帯ゲームをしまくって、その憂さを晴らした。ちょうど好きだったアニメのゲームをやっていて、そのゲーム内でガチャをやる時期で、碧の推しキャラがレアものとして出るというので、課金しまくった。
そうして、黒木がいない寂しさと忙しさのストレスを発散させていた。
毎日毎日、くたくたになって帰った。
ああ、腰、痛い。もう限界。肩が重い。辛い。足が痛い。マッサージ行きたい。行っちゃおう。
五月の十日の土曜日、その日もきっと帰りは遅いかとばかり思っていたのに、もう出荷するものもほとんどなく、することは事後処理ばかりで必要なのはパート二人ぐらいと言われ、
「宇藤さん、帰っていいわよ」
と各務に言われ、碧は正午には上がることができた。それで、時間ができた。
地元のデパートに入っているマッサージの店に行って事情を話し、たっぷり二時間揉んでもらった。
「こんなに凝ってるひと、久しぶりです」
と言われたくらい、全身が硬くなっていた。
終わった頃には身体ってこんな風に軽いものだっけ、と錯覚するほど全身が軽く、碧は今度からここに通う、と心に決めて回数券を買った。身体を揉んでくれたのは青井という男の人で、若いのに力が強くて、感じがよかった。
ああ、やっと連勤が終わった。次の連勤は七月か。すぐだな。
六月はそんなに忙しい時期ではない。だからといって立ち仕事でなくなるわけではないから、二週間に一回はマッサージに通った。青井とはいつも楽しく会話を楽しんでいたが、ある日、いつも携帯ゲームをしていたアニメのTシャツを着ていったら、その背中に書かれた碧の推しキャラの決め台詞を読んだ青井が、
「宇藤さん、もしかしてあのアニメお好きですか」
と言ってきた。それで、アニメの話になり、話題に花が咲いた。
あらやだ、お互いアニメが好きだったんだ。観てるアニメ、ほとんどおんなじたったな。教えてもらったアニメ、今度観てみよう。
もうすぐ梅雨が終わる。
そうしたら、彼岸と盆だ。連勤三昧だ。
――九月が来る。
碧の胸が痛む。
獅郎さんの誕生日が、来る。
今ごろ、どうしてるんだろう。なにしてるんだろう。ごはん食べたかな。
曇った空を見上げながら、碧はそんなことを考える。
捨てられた、とは、思っていない。
だとしたら、オレンジを自分のところに置いていくのは不自然だからだ。
なにか、事情があったんだ。
きっとそう。きっと、きっと。
あんまり会いすぎてると、そのうち突然いなくなっちゃうわよ。
いつか言われた言葉が、脳裏に蘇る。
しかし、こんな言葉も同時に戻ってくる。
俺が突然いなくなるなんてことは、ないよ。
私はそれを、信じる。
信じて、待つ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます