4-3
碧の連勤が終わって最初の週末、黒木は彼女に言った。
「ドライブ、行こうか」
「え?」
碧は振り返って、意外そうに彼を見上げた。
「ドライブですか」
「うん。俺の車で」
「いいんですか?」
「いつもおうちデートだから、たまには出かけようよ。気晴らしに」
「そうですね。どこ行きましょうか」
「そうだなあ。海にでも行こうか」
「海ですか。いいですね」
「まだ寒いかなあ」
事務所まで行って、車を出す。
天気がいい。やわらかな日差しが、きもちよかった。
車のなかで、碧は黒木に色々なことを話した。職場のこと、花のこと、職場の人間のこと。黒木はそれを、笑いながら聞いている。
いつものような、穏やかな時間が流れている。
「あ、海が見えてきましたよ」
刷毛ではいたような青い海が、凪いでいる。
この車を運転するのも久しぶりだが、当分お預けになるわけだ。その間の保管を、課の誰に頼むかな。そんなことを考えながら、黒木は最後に碧と乗った時のことを思い出していた。
あれは大変だった。碧ちゃんの運転、すごかったからな。
と、思うと同時に、なぜかこんなことを口走っていた。
「碧ちゃん」
碧がこちらを向いた。
「運転してみる?」
「え?」
馬鹿。俺はなにを言ってるんだ。
「いいんですか?」
見ろあの目。すっかり乗り気じゃないか彼女。
心の声とは裏腹に、あれよあれよと話が決まってしまい、海の手前で車を止めて運転席を下り、碧と交代してしまった。
碧は例の歌を歌いながらシートベルトを締めると、猛スピードで急発進した。
うおっ。俺、生きて帰れるかな。
「あーっ」
ごいん、というにぶい音がして、嫌な予感がした。
車が止まると、二人はそこから下りてフロントに回った。
擦ったような跡が、できていた。
「……」
「ごめんなさいっ」
碧は平身低頭して、ひたすら謝った。黒木はなにも言わずに立っているだけで、碧は怒りのあまり声が出ないのかな、怒鳴る準備でもしてるのかな、とそればかり考えていた。
黒木は擦れた黒い部分を手でなぞると、
これも、いい思い出になるんだな。
「……ははっ」
と小さく笑った。
半泣きになっていた碧は、
「……なにがおかしいんですか?」
と首を傾げた。黒木は口元に笑みを浮かべて呟いた。
「いや。俺はもう、君なしじゃやってけないんだなあって思ってさ」
と、これはあまりに声が小さく、碧には聞こえなかったようだ。
「え?」
「なんでもないよ」
黒木は顔を上げると、
「じゃ、交代だ。今度は俺が運転する番」
と言って運転席に座った。
「怒ってないんですか?」
「海まであとちょっと」
「獅郎さーん」
緑色の車は海岸沿いに消えていった。
その晩、黒木は碧を抱いた。
碧を抱く時、彼はいつも彼女がどんな気持ちでいるかを理解したいと思っている。
身体のあちこちについた傷跡に碧が一瞬、悲しい顔をしたのも見逃さない。
「……そんな顔しないで」
彼は囁く。
「ほら、俺の目だけ見てて」
と穏やかに笑う。本当はそれどころではないほどに切羽詰まっているし早く動きたいのはやまやまだが、我慢して何度も碧にくちづけする。
「痛くない?」
そして彼女の濡れた髪を整えて、静かに達するのだ。
「好きだよ碧ちゃん」
ぐったりした碧を抱きしめながら、彼は言う。
「愛してる」
いつものようにうたた寝してしまった碧をそのままにしておいて、黒木はベランダに煙草を吸いに出た。碧にもらったジッポーが、手に馴染む。
にゃあ、オレンジが足元にすり寄ってきた。
「おう」
彼はそう返事をすると、そのオレンジ色の背中を撫でた。
「……さみしくなるなあ」
碧が起きると、彼は言った。
「おじさん、走ってくるね」
「はい」
いつもの日課だと、碧は気にせずに送り出した。
彼は平生と変わりなく、出ていった。
そしてそのまま、帰ってこなかった。
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