6話(2) Dope
「だって、貴方は結婚なんてしていないもの」
「何を」
言っているんだ! と、ジャックは食ってかかろうと口を開く。
だが、彼の言葉は飛ばなかった。いや、飛ばされなかったのである。
ハンナがトントンと頬杖を突いた左手の薬指を叩き、「指輪をしてないでしょ」と力強く封じたのだ。
ジャックは「そんな馬鹿な!」と、彼女の指先が示す場所に目を落とす。
ジャックの身体に、ドンッと力強い衝撃が迸った。
……ない!
ジャックはビリリとする衝撃に痺れたまま、自分の左手を眼前に運んだ。
目を大きく見開き、瞬きの一つもせずに見入る。
だが、やはり、左手の薬指には填められていなかった。お互いのイニシャルが内側に刻まれた、結婚指輪が。
指輪を外す事なんて、滅多にない。それなのに、今の自分の指に指輪が填められていない。と言う事は、つまり……。
ジャックはギュッと左手をキツく握りしめたまま「隠したな!」と、怒髪天を衝いた。
ハンナは直ぐさま「そんな面倒な事、しないわよぉ」と、気怠げに打ち返す。
「じゃあ、なんでないんだ!」
ジャックは猛々しく噛みつくが。直ぐさま「貴方が結婚していないからよぉ」とピシャリと一蹴された。そればかりか、「証拠は指輪だけじゃないのよ」と追撃される。
「携帯に、奥さんらしき人物の登録がないわ。写真フォルダにだって、奥さんとの写真は一枚もなかったもの」
何より、貴方自身がバーで言っていたわ。と、彼女は毅然と言葉を継いだ。
「この前、彼女と別れたばかりだって。重たくて振った、貴方はうんざり気味にそう話してくれたわよ」
きっぱりとぶつけられる真実に、ジャックは遂に限界を迎えてしまう。
「ち、違うっ! そんな事はない! あり得ない!」
荒々しく叫び、彼女がぶつけてくる真実を否定しようと、ジャックはバッバッと慌ただしく部屋を見渡した。
そして机の上に放られているスマホを引ったくる様にして取り、ぎゅうっと握りしめたまま起動させる。
暗闇に覆われていたディスプレイが、パッと光り、スタート画面を表示した。
ジャックは眼前に広がる画面に、「そんな」と絶句してしまう。
設定していたはずのハンナの姿はそこになく、代わりに好きなアーティストの姿が収められている。
ジャックは目を剥いて、ホームに移った。
コンコンッと指先で素早くディスプレイをタッチし、アプリを開き、サーッとスクロールしていく。
指が何往復も小さな長方形の上を滑った。
そしてまたコンコンッと指先が別に移り、またスクロールしていく。その繰り返しだった。
ただ、単調に繰り返される動作の中で、ドンドンと変化していくものが一つあった。
それは、ジャック自身である。
彼の顔からドンドンと血の気が失せていき、ヒュウヒュウと呼吸が浅薄になっていく。瞬きをされない目は、ズキズキと血走り、じんわりと涙を溢れさせていた。
ない、ない、ない……どこにも、ない! ハンナとの思い出も、ハンナ自身も! そればかりか、俺が歩んできたはずの思い出だってなくなっている!
「そんな、馬鹿な」
ジャックはボソリと戦慄を吐き出した。すると
「言ったでしょぉ? お薬の量が多すぎたから、ぶっ飛んじゃったんだってぇ」
ベッドの上で、ハンナがカラカラと面白さを弾けさせる。
ジャックは、鼓膜が震わせる甲高い笑みに、ギュッと唇を強く噛みしめた。
……薬のせいで、俺の全部が塗り変わった?
そんな事、ある訳がない! あって良い訳がないのだ!
「認めないぞ!」
ジャックは高らかに張り叫ぶ。
「こんな世界が、俺の本来の世界だなんて認めるもんか!」
本音を荒々しくぶつけるや否や、彼はダッと駆け出した。
様々な感情がドカドカッとぶつかり合い、己を主張していく。
ぐちゃぐちゃとあちこちから色々な言葉が生まれ、整理もされずに、滅茶苦茶に羅列し始めた。
感情と言葉、それぞれが容赦なくジャックを揉み込んでいく。
その中をジャックは、無我夢中で走り続けた。
己を保つ為に、そして自分を迎え入れた今の世界を力強く否定する為に。
ようやく、彼の足が止まる。目の前には、カリフォルニア州の自宅があった。ハンナと共に暮らす、温かな我が家だ。
「ハンナ、ハンナ! 俺だ、ジャックだ!」
ジャックは必死に戸を叩いた。いや、求めた、と言うべきだろう。
自分の考えを肯定してくれる世界を。
「ハンナ、ハンナッ! 開けてくれ、ドアを開けてくれ!」
ジャックは力いっぱい、ドンドンッと、戸を叩いた。
するとガチャリと鍵が開かれる音がし、内側からドアノブが押される。
ジャックは大きく胸をなで下ろした。
嗚呼、良かった!
「ハンッ……」
ナ。興奮気味に飛ばされた名前の最後だけが、間抜けにポロリと零れる。
「どちらさん?」
内側から戸を開いた人物は、これでもかと言う程に怪訝と警戒を露わにしていた。
その一方で、ジャックの意気が、生気がみるみる消沈していく。
……そんな、ハンナじゃ、ない。
片言の言葉が心に並ぶと同時に、彼の瞳に入り口の戸を開いた人物がくっきりと映る。
「あぁ。その様子だと、やっぱり尋ねる家を間違えてんだな?」
ラッパースタイルの黒人の男は、警戒をやや緩めて、ガシガシと後頭部を荒々しく掻いた。
ジャックは、自分よりも長身で厳めしい体つきをした男の登場に、ゆっくりと息を呑む。
「あ、あの……し、失礼ですが、ここは」
「俺の家だよ。もう一つ言っておくと、ハンナなんて女はここに居ねぇ。リンキーって言う女は居るがな?」
男はジャックの問いを遮る様にして答えると、「リンキー!」と叫んだ。
すると廊下の奥からワンワンッと野太い吠え声が飛び、ドーベルマンがドタドタッと駆けてくる。
ドーベルマンは、器用に力を抜いて彼の傍らで足を止め、ぶんぶんと尻尾を振って佇んだ。
よくよく見れば、彼女が駆けてきたカーペットの上は古く、痛んでいる。
それは長年、彼と彼女がその上を歩き、そして駆けてきた証拠であった。
……そんな、馬鹿な。
ジャックはボソリと呟いた。
刹那、身体の力が一気にガクンッと抜ける。
ジャックは踏ん張ろうともしなかった。いや、全身の力が抜けた事にすら気がついていなかったのだ。
何故なら、抜けてしまったのは力だけではなく、意識までもだったからだ。
ジャックの世界は、再び、暗く塗りつぶされる。
抗う力は、ない。無論、黒を塗り替える力も、彼は持ち合わせていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます