4話 Here it comes?
「今から俺がする話を聞くと。きっと君は、俺は頭がおかしい奴なんだって思うかもしれないけれど」
「そんな事は絶対に思わないわ、ジャック」
おずおずとした前置きに、力強い否定が飛ぶ。
アディスは「そんな風に自分を捉えなくて良いのよ」と、優しく窘める様に言った。
「どんな出来事でも、貴方が真剣に対峙してきた事だもの。だからおかしく思う事もないし、笑う事も絶対にないわよ」
ジャックはアディスの言葉に、キュッと唇を一文字に結んだ。
語ろうと決意しているのに、やはり憚ってしまう心を見透かしてしまうなんて。凄いな、カウンセラーは。
いや、アディスだけがこうなのだろうか?
ジャックはそんな不思議を抱いたが、ぽわっと頭の隅に置いた。そして「ありがとう」と礼を述べてから、ゆっくりと語り出す。
現実味が薄れてきているものの、未だにしっかりと自分の世界に残る恐怖の数々を。
現実か、夢か。ただでさえ、曖昧な境界線が崩れた世界の話を。
ハンナ相手にはぼかしていた部分も、しっかりと打ち明けた。
アディスは、彼の口から紡がれる話を一言一句漏らさない様にと、真剣に耳を傾けている。
聞く事に真剣過ぎて、無反応と言う事もなかった。アディスは時折相槌を打って、ジャック一人だけが語りの世界に飛ばない様にしていたのである。
そうして自分を巣食う狂気的な恐怖を全て打ち明けると、ジャックの口からははぁと重々しいため息が吐き出された。
「……おかしいと思うだろう? でも、俺も何一つ分からないんだ。勿論、理解だって出来ていない。牢獄で目覚めた瞬間から日常に戻るまで、ずっと」
「えぇ、えぇ。分かるわよ、ジャック。私だって、貴方みたいな状況にポンと放られたら理解も何も働かなくなる自信があるわ」
アディスは力強く同調し、「その動揺は何もおかしくない」とキッパリと告げる。
「でも、幾つか聞いて良いかしら?」
「勿論」
「牢獄で目覚める前は、至って普通だったって言っていたけれど。その日、自分がこれはトラブルだと感じる様な事はあったかしら?」
アディスは全てを肯定する聖母の様な顔から、臨床心理士の顔に変わって尋ねた。
ジャックは自分の記憶と言う本棚の中から、突飛な事態に陥る前日が刻まれた本を取り出して読み進める。
「……いや、自分の知る限りでは何もなかった様に思う。自分の陰ではそうじゃなかったのかもしれないが」
「成程ね」
アディスはコクリと相槌を打ち、手元にあるバインダーを開いて、何かを書き留めた。
ジャックは彼女のバインダーを一瞥してから、すぐに彼女の顔に視線を戻す。
「対人関係をピックアップすると、どうかしら?」
「……うーん」
こう尋ねると言う事は、きっと彼女は俺と関わりがある人間が要因となっているんじゃないかと思っているのだろう。
でも、今の所、人間関係は皆良好だ。妻や友人は勿論だが、会社の上司・同僚・後輩とも良い関係を築けている。
だからこそ、自分を心理的に苦しめる様な存在は思い当たらない。
ジャックはあれこれと思案し、一人一人との出来事を思い返した。
その結果、彼は首を横に振る。
「良好だと思いたい、と言う所だろうね」
弱々しく肩を竦めて答えた。
アディスは「ここ数日、誰とも揉めたりはしてないの?」と、新たな質問を投げかける。
「あぁ、思い出せる限りは」
ジャックはコクリと頷いた。
「凄いわね、ジャック」
アディスはやや目を丸くして言うが、すぐに「まぁでも、そうなのも分かる気がするわ」と可愛らしく肩を竦める。
「貴方は人が良いんだもの。きっと周りも自然とそうなっていくのでしょうね」
フフッと口元を綻ばせた、その時だ。
コンコンッと、部屋の扉が軽やかにノックされる。
「ラングレー先生。申し訳ありませんが、少々よろしいでしょうか?」
クリニックで働く女性の声が、廊下から飛んで来た。声を聞いた感じ、受付の女性だろう。
アディスはジャックに「ごめんなさいね」と謝ってから、ギュッと眉根を寄せて「今は歓談中よ、後にしてちょうだい」と撥ねのける。
「えぇ、承知しております。ですが、ラングレー先生宛に緊急のお電話が入りましたので」
扉の向こう側に居る人物はひどくばつが悪そうに告げてから、「今は先生の手が空いておりませんので、折り返しをとお願いしたのですが……」と、申し訳なさそうに弁明を紡いだ。
アディスは、はぁとため息を吐き出す。
「ごめんなさい、ジャック。少し出ても良いかしら?」
「勿論だよ」
こっちの事は何も気にしないでくれ。と、ジャックは朗らかな笑みを浮かべて答えた。
アディスは「ありがとう、すぐ戻るわ」と微笑み返し、サッと急ぎ足で部屋を出て行く。
部屋に一人残されたジャックだったが、もの寂しさは襲ってこなかった。
この部屋のどこにも、虚しい孤独をかき立てる様な物はない。
ジャックはふかふかのクッションに沈んでいる身体をもぞもぞと動かし、軽く体勢を整えた。
もふもふと心地よさが包み込む。
ジャックはその心地よさに浸りながら、ぼんやりと考え始めた。
何度あの話を口にしても、やっぱり何も理解が出来ないな。現実か夢かどうかさえも、ひどく曖昧だ。いや、今となっては夢だったと言う結論に落ち着き始めているが。
夢だったとしても、あれは異常な夢だ。
「本当に、アレは何だったんだろうな」
ジャックはボソリと呟いた、刹那。
ダンッ
突然、何かがガラス張りのテーブルに打ちつける音がする。
音の出所はすぐに分かった、ジャックの視界にソレが弾ける瞬間が映っていたのだから。
ジャックの視線の先にある、机の上に置かれたアディスのバインダー。
見られない様にと配慮して閉ざしていったはずのバインダーが、突然バッと開かれたのだ。
誰かによって、荒々しく開かれた様だが。それは間違いなく、ひとりで勝手に大きく開かれたのだ。
ジャックは捉えてしまった光景に絶句し、あんぐりと口を開いてしまう。
な、何だ? 今のは、一体、何だったんだ?
呆然とする中で考えを訥々と巡らせるジャック。
そんな彼を嘲笑う様に、異様はカラカラと笑いながら駆けていく。
ペラリと大きく紙が捲られたばかりか、突然、ペンがむくりと起き上がった。
そして見ろ、と言わんばかりにコンコンッと紙の上で跳ね始める。
呆然と固まるばかりのジャックに、「もしや」と言う恐怖がじわじわとせり上がっていく。
ジャックはゆっくりと起き上がり、恐る恐るそちらの方へ歩んだ。
一歩を前に刻む度に、彼の顔色はドンドンと青白くなっていくが。ジャックは、今の自分が死人の如く青冷めているなんて、少しも気付かなかった。
今の彼が気に留めているのは、眼前の異常だけである。
ジャックはゴクリと生唾を飲み、ゆっくりと紙を覗き込んだ。
その瞬間、ジャックの口から声にならない悲鳴がヒュッと零れる。
「Here it comes? また、その話かい?」
紙の中央部にしっかりと刻まれた、端的な文章。丁寧な字体で、一つ一つの単語がハッキリと分かりやすい。
だからこそ、と言うべきか。そこに含まれた狂気が、際立っていた。
ジャックの息が浅薄になり始め、ガタガタッと身体の芯から震えがやってくる。
こ、これは、きっと、アディスが書いたものじゃない。
「……ク、クラウンだ」
彼の者の名を呟くや否や、紙に刻まれていた文字がスウッと消えていく。
そしてHereと書かれていた部分に、「I」と言う文字がスウッと現れる。
ジャックは目を見張って、息を呑んだ。
紙面の文字は、ジャックの恐怖を大いに煽る様にしてゆっくりと文字を刻み、文章を作り上げていく。
そうして描かれた文章は……。
「It comes here. ソレはここに来る」
戦慄がビリビリッと走り、身体の力が一気にフッと弛緩した。
その時だった。
「ハイ、ジャック」
耳元から蠱惑的な低い声が、いや、ぞわぞわっと冷たい恐怖が這って全身に伝った。
ジャックはその恐怖に弾かれる様にして、バッと振り返る。
「ク」
ジャックの悲鳴は、飛ばされなかった。
いや、消されてしまったのである。
声も、意識も、何もかも……。
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