2話 Don't worry,sweetie

 ジャックは鍵を差し込み、ぐいと回す。


 そうしてガチャリと軽やかに解錠された戸のノブを引き、「ただいま」とやや強張った声を張り上げながら内へ踏み入る。


「お帰りなさい」

 パタパタとスリッパの音を立てながら、一人の女性がやって来た。


 女性らしい柔らかな曲線美が艶めかしく描かれているものの、その線はかなり細い。男であるジャックは「華奢過ぎやしないだろうか?」と日々心配を抱いていた。

 緩やかな癖が付いた、美しいブロンド色の髪は横で一つに結んでいる。

 そして、穏やかさが溢れるおっとりとした相貌。ジャックからしてみれば、出逢った頃から変わらぬ可愛さを覚える顔なのである。


 ジャックはその女性を見るや否や、堪えているものが溢れそうになった。


 嗚呼、ハンナだ。ここに居るのは、間違いなく、俺の妻のハンナだ。


「ただいま、ハンナ」

 ジャックはふらりふらりと歩を進め、ハンナに向かって大きく手を広げた。


 ハンナは朗らかに相好を崩し、自分を抱きしめようとする夫に応えて同じ様に手を広げる。


「ちゃんと買ってきてくれたのね、ありがとう。助かったわ、ジャック」

 長く開かれていた距離がドンドンと縮まり、互いに己の愛情で相手を包み込もうとした。

 その時だった、ジャックの頭にが蘇る。


「ま、待ってくれ!」

 抱き留めようと腕を広げていたハンナは、突然のストップに「えっ、何? !」と面食らい、そのままの状態で固まった。


 ジャックは目の前で怪訝を浮かべるハンナに「ごめん、でも、ちょっと待ってくれ」と、口早に告げてから、自分の手にスッと目を落とす。


 あの時を思い返してみても「一体、何がどうしてああなったのか」なんて、さっぱり分からないし、腑に落ちる答えは見つからない。

 でも、細かい所を切り取って見ると……ロイの時も、レオン現場長の時も、俺の手が身体のどこかに触れていた。


 ジャックはゴクリと息を呑む。


 この世界が、まだクラウンの狂気に脅かされているのならば、俺が触れた事でハンナにもが及ぶかもしれないんだ。


 ジャックの心の中で、「ハンナには触れない方が良いのかも知れない」と言う、悲しい決断が下されようとしていた。


 その時だった、呆然と見つめていた手の平に「棘でも刺さったの?」と、小さな手が伸びる。


 ジャックはその手にギョッとし、バッと手を自分の方へ引っ込めた。

「触れちゃ駄目だ!」

 夫の悲鳴じみた怒りに、ハンナはパチパチと目を瞬きながら「えぇ?」と困惑する。


 ジャックは、「訳が分からないのだけれど?」と言わんばかりの顔を見せるハンナにキュッと唇を軽く横に結ぶ。


 そして「心配なんだよ」と、弱々しく吐露した。

「俺が触れる事で、君があんな事になってしまわないか……ここは現実のはずだから、そんな事が起きるとは思えないし、思いたくないよ。でも、どうしても、どうしても不安なんだ」

 ここは、本当に俺の知る普通の現実世界なのかって。


 ドンドンと弱まる語勢で紡いだ為に、最後の一言はあまりにも弱々しい呟きになってしまった。


 けれど、ジャックはもう一度ハッキリと、大きな声で伝えなおそうとはしなかった。


 今のジャックには、余裕がまるでない。

 それもそのはずだ。心内で、形付いた不穏が「さて、どうかなぁ?」と嘲笑う様に蠢いているのだから。


「……ジャック、やっぱり外出先で何かあったんでしょう?」

 ハンナは、自分の前で弱々しく項垂れる夫に問いかけた。その声には、温かい心配と動揺を混ぜた不安が込められていた。


 長い付き合いだ、彼女から向けられた感情の全てをジャックはすぐに悟る。

 それでも、彼は何も言わなかった。いや、言えなかったのである。


 すると

「大丈夫よ、スウィーティー」

 ハンナの温かい優しさが、サッとジャックを包み込んだ。


「何があったのかは分からないけれど。貴方に触れられただけで、どうにかなっちゃう程、私は柔じゃないのよ」

 ハンナは自分よりも広い背中に回す腕にぎゅうっと力を入れる。

「私は大丈夫よ」

 声にはなっていないが、その強さは彼女からの確かな言葉だった。


 ジャックはギュッと唇を噛みしめ、おずおずと彼女の腰に手を当てる。


「ね、大丈夫でしょ?」

 耳元で朗らかな笑みが零された。


「……どこか、苦しくないか? 辛くないか?」

「そんなの、ちっともないわよ」

「本当に?」

「えぇ、元気いっぱいよ」

「……ハンナ、顔を見せてくれないか」

「良いわよ」

 ピタリと密着していた上半身に距離が少しだけ出来ると。ジャックの胸の内からぴょこんと言う様にして、ハンナの顔が上がる。


 目の前で弾ける、可愛らしい笑み。

 ジャックはまじまじとその笑みを見つめた。


 美しいダークブラウンの瞳は、しっかりと自分を見つめている。色を失ってもいないし、瞳孔が大きく開かれてもいない。

 ロイ達みたいに、突然口から血を吹き出す事もない。

 何も、ならない。


 ジャックはそっと手を伸ばし、彼女の唇の端に触れた。

 ちょんと親指の先が触れただけだが、ぷるっと柔らかでつややかな感触が強く伝わる。


 それでも、ハンナの笑みは崩されなかった。


「嗚呼、良かった」

 心底の安堵が吐き出される。


「本当に良かったよ、ハンナ」

 ジャックは溢れた想いをぶつける様にして、ガッとハンナを抱きしめた。


 先程よりも、うんと強く、うんと優しく、彼女を自分の内へと引き寄せた。

 そうして彼女の無事をゆっくりと噛みしめ、この世界はと言う想いに満たされると。ジャックはゆっくりと身体を離した。


 すると「ちょっと待って」と、不満げな声が前から飛ぶ。

「それだけなの? ダーリン?」

 ハンナは唇をツンと尖らせて、そっぽを向いている。


 ジャックはそんな可愛らしい妻に「まさか」と、フッと朗らかな笑みを零した。

「そんな訳がないだろう?」

 からかい混じりに言うや否や、サッと彼女の顎を掬いあげ、トンッと自分の唇を落とす。


 ハンナの唇は嬉しそうに受け入れた。

 そうしてチュッと軽やかなリップ音が弾けると、ハンナは満足げに「お使い、ありがとうね」と、棚の上で放置されていた袋を手に取る。


 ジャックはその手を素早く掴み、「ハニー」と甘い声で囁いた。

「これで終わりとは、まだ言いたくないなぁ」

「もう、貴方ったら。まだ夜じゃないんだし、掃除もしなくちゃいけないから駄目よ……って、ちょっと、ジャック!」

 キャアッ! と、ハンナから楽しげな悲鳴が弾ける。


 ジャックは腕の中にすっぽりと収まったハンナの抵抗を聞きながら、悠々と彼女を攫っていったのだった。

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