第32話 初恋

 ごゆっくりと言ったアルスがルーファスと連れ立って出ていき、部屋の中はギギーとレオルのふたりきりになった。


「レオ、立ってないで座ったら?」

「……ああ」


 声をかけると、閉じられたドアの前で立ちすくんでいたレオルがようやく動き出し、ギギーの向かいのソファに腰を下ろした。視線だけで穴が開いてしまうのではないか。そう思うほどにレオルがじっとこちらを見つめてきて、落ち着かない気持ちになった。


「……レオ、俺の顔になんかついてる?」

「ん? いや、すまない。思わず……」


 尋ねられて、レオルは自分がギギーを見つめていたことにようやく気づいた様子だった。


「なにが、思わずなの?」

「おまえが見慣れない格好をしているから、思わず見入った。その格好、よく似合っている」

「あ、ありがと。レオもかっこいいよ」


 レオルも、今日はめずらしい装いをしていた。紺色の上下揃いの上着とズボンに、銀色のアスコットタイ。胸には白い薔薇のコサージュ。襟足の長い髪は細いリボンで結ばれていて、前髪は横に軽く撫でつけてある。細身ながら鍛えた肢体は、ソファに座っていても見栄えがよかった。

 レオルの視線は先ほどからまっすぐこちらに向けられていて、なんだか落ち着かない気持ちになった。


「そうだ、お茶用意するね。コーヒーのほうがいい?」


 立ち上がり、レオルの後ろに置いてあったワゴンへ向かう途中、腕をつかまれた。引っ張られるまま、レオルの隣にすとんと腰を下ろす。


「お茶なんていいから、ここに座っていろ」

「……うん」


 こくりと頷けば、整った顔立ちにやわらかな笑みが浮かんだ。大きな手がこちらへ伸びてきて、いつものように頭を撫でられるのかと思えば、レオルの指はギギーの耳に触れてきた。耳の裏を指の腹に撫でられ、ぞわりと背筋が震え、耳飾りがちいさな音を立てる。


「……そっち、なんだ」

「なにがだ?」

「頭、撫でられるのかと思ったから」


 おかしなことを言ってしまった。まるで、頭を撫でてほしいとねだったみたいになってしまった。

 ギギーが「なんでもない」と撤回するよりも先に、耳をつまんでいた指が頭に移動してきて、とっさに口を引き結ぶ。繰り返し髪を撫でる手のひらの感触に、身体の力がだんだんと抜けていった。口元も自然と緩んでいく。


「今日の格好だとずいぶん大人びて見えたが……変わらないな、おまえは。ちいさいころから変わらない。こうして頭を撫でてやるとうれしそうに笑って、かわいくてしかたなかった」


 普段の冷ややかな声音から一転した、とろけそうに甘い声。レオルも「かわいい」なんて言うのか。驚きながらも、かわいいと言われた昔の自分が少しうらやましくなった。


「レオも、変わってないよ」


 まっすぐに騎士を目指しているところも、少しぶっきらぼうなところも、すごくやさしいところも。


「そうか?」


 不服そうな顔がおかしくて笑うと、レオルはもっと不満げな表情になった。

 もちろん、レオルの外見は昔と比べてだいぶ変わっている。昔に比べればずっと背丈が伸びて、身体つきがしっかりして、顔立ちから丸みが取れて、代わりに精悍さや男らしさが加わった。声は低く、深くなった。

 レオルは昔から格好よかった。物語の中の騎士や王子様みたいに、きれいで格好よくて、普段は澄ましているのに、たまに浮かべる笑顔を見かけたときは、宝物を見つけたような気持ちになった。レオルが騎士の話をするときの、きらきらと輝く瞳がいっとう好きだった。


 なつかしい気持ちになりながら青い瞳を見つめていると、レオルも無言でこちらを見つめてきた。きれいな瞳から目が離せなくなって、吸い込まれてしまいそうだと思っていると、本当にレオルとの距離が縮んでいることに気づく。

 レオルが顔を近づけているのだとわかっても、ギギーは動かなかった。うつくしい顔立ちが近すぎて見えなくなって、代わりに間近で見る青い瞳のうつくしさに感嘆の息を漏らす。そこで、レオルの身体がぴたりと止まった。


「……すまない」


 小声で謝ったレオルが、ふいと顔を背ける。

 レオルが謝っている理由がわからず首を傾げて、あのまま顔を近づけていたらどうなったのかを考えた。もし、あのときギギーが息を吐いていなかったら、レオルが止まっていなかったら、どうなっていたのか。きっと互いの唇が触れ合っていたのではないだろうか。そう思ったら、ぶわりと顔に熱が集まってきた。


「ギギー?」


 ちらりとこちらを伺うように盗み見ていたレオルが、ギギーの表情に顔を顰める。じっと間近で見つめられて、心臓がばくばくと鳴り出した。とっさに自分の口を手のひらで覆ったが、余計に顔が熱くなってくる。


「……そんな反応、されると思っていなかったな」

「レオ、さっきの……謝らなくて、いいよ」


 そう言っても、レオルは戸惑いの表情を変えなかった。


「……俺は、おまえの意思を無視しようとしたんだぞ」

「俺、いやじゃなかった、よ」


 口元を覆ったままつぶやくと、レオルは眉間に深い皺を刻んだ。疑いの視線を向けながらも、こちらを見つめる青い瞳には隠し切れない期待が滲んでいる。


「……本当に、俺がなにをしようとしたのか、わかっているのか?」

「うん……キス、しようとしたんだよね? 違う?」

「……いや、違わない」


 口元を覆うギギーの手に、レオルが唇を押し当てた。指へ、手の甲へ、手首へ。ほんのりと冷たい唇を感じながら、それが直接唇へ触れるのを想像してしまい、どうしようもなくうろたえた。

 顔を耳まで真っ赤に染め、唇が触れるたびに身体を揺らすギギーを見て、「かわいいな」とうわごとのような声でレオルがつぶやく。青い瞳に、じんわりと熱が灯っているのがわかった。


「レオは……俺の初恋だったんだ」


 もごもごと、手のひらを押しつけたままギギーが口にしたことばに、レオルが目を見開く。それは不明瞭な声だったが、しっかりとレオルの耳に届いてしまったらしい。


「だった、か。……そうだな、おまえには殿下がいる」


 青い瞳の熱が冷めるのは、一瞬だった。


「そばにいるだけでいいと言っておきながら、こんなことをすべきではなかった。悪かった」


 苦しげに吐き出されたことばが、痛いほどに胸を締めつけてくる。レオルがつらそうな顔をしているのは、いやだった。ほかでもなく自分がそんな顔をさせているという事実に、打ちのめされる。


「エリ……エドワード殿下のことは好きだけど、そんなんじゃないよ。身分が違いすぎるし、最近はほとんど喋ってないし……俺、とっくにふられてるから」

「……そう、なのか?」

「うん……告白して、ふられた」


 笑って言ったのに、まるで自分が痛みを覚えたような顔でレオルがこちらを見てくるから、笑顔を保っていられなくなった。


「……でも、好きなんだろう?」

「うん」


 エドワードに会えなくなっても、話ができなくなっても、冷たくされても、気持ちは変わらなかった。エドワードと話をしたいのに、なんの感情もこもっていないあの瞳を向けられると、身を引き裂かれるような気持ちになる。


「殿下のことが……エリオットのことが好きだよ。でも――」


 記憶が戻ったとき、少なからず混乱した。幼いころの淡い恋心に再会してからのレオルへの好意が加わって、その気持ちは大きく膨れ上がった。


「でも、レオルのことも好きなんだ」


 最悪の告白だった。どっちつかずでふたりのことが好きだなんていちばんだめだと思うのに、ふたりに会えない日々で気持ちは大きくなっていくばかりだった。

 レオルはギギーの気持ちをわかっていながら、自分の好意を伝えてくれた。そんなレオルに嘘をつきたくなかった。それに、エリオットへの気持ちを隠したまま、レオルに自分の気持ちを告げるのはいやだった。


「ごめん、最低なこと言ってるのはわかってる。でも、これが俺の本当の気持ちだから」


 また、レオルを傷つけてしまったかもしれない。目を見開いたまま固まっているレオルが、次にどんな表情を浮かべるのか。いったい何を言われるのか。それを考えると怖くなった。侮蔑の表情を向けられても、最低だと罵られても、しかたのないことをギギーは言ってしまった。


「……レ、レオ?」


 そう思っていたのに、気づけばレオルに強く抱き締められていた。


「――ありがとう」


 耳元に落とされた声は、隠し切れないよろこびに満ちあふれていた。


「ギギーの気持ち、うれしかった。正直に話してくれて、ありがとう」

「……うん」


 背中へ両腕を回すと、いっそう強く抱き締められた。全身で好きだと言われているみたいで、レオルがいとおしくてたまらなくなる。

 やがてレオルの腕の力が緩んで、もう離れてしまうのかと名残惜しく思っているうち、レオルがゆっくりと顔を近づけてきた。今度は、ギギーも自分から顔を寄せていく。


「――……ん」


 少し、ひんやりとした唇の感触。レオルの唇だと実感して、胸がいっぱいになった。温かいもので身体が満たされているのに、もっと触れ合いたくて、離れがたくなる。レオルの背中に両手を回し、ぎゅっと上着の布地を握りしめると、ふいに唇が離れていった。


「あ……」

「すまない、苦しかったか?」

「違うよ、離れたくなくて……」


 ギギーのことばに、レオルがふっと笑みを零す。


「そうか、俺も離れたくないな」


 甘い声が吐息といっしょに唇へかかって、ギギーも甘い息を吐き出した。ほんの少し顔を寄せるだけで、また互いの唇が触れ合う。くちづけているだけでも気持ちいいのに、大きな手に頭を撫でられて、ぼうっとしてしまった。

 長いくちづけのあと、唇を離したレオルが、ギギーの顔を見て苦笑を浮かべる。きっと、だらしない顔をしていたはずだ。


「そんな顔をするな。連れて帰りたくなる」


 そんなことを言われたら、連れていってほしいと思ってしまう。次はいつレオルに会えるかわからない。そう思うと余計に。ぎゅっと胸がしめつけられた。


「……っ」


 唇を引き結んだギギーを見て、レオルは泣いている子どもをあやすように、顔のあちこちにキスを落としてきた。頬、額、鼻先、瞼、耳、髪を経由して、また唇へ。


「また、会いに来る」

「うん」


 落とされるくちづけに、レオルの表情に、声に、好きだという気持ちがあふれている。レオルに触れられるたび、それを自分の身体に注がれているみたいでうれしかった。


「レオ、もっと……」

「……ああ」


 そうして、窓の外が暗くなるまで、ギギーはレオルとくちづけを交わし続けた。

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