第26話 そばにいたい
夕方になると予定通りにレオルの父のオリヴァーが帰宅し、レオルの両親を含めた六人で夕食を摂った。
ギギーは、オルランディ家で養父母やいとこたちが食べていたような料理を想像していたが、テーブルに並んだのは平民の家庭料理に近いものばかりだった。飾り気のない素朴な見た目は好ましく、やさしい味わいはどこか懐かい。母の料理を思い出した。どの料理も美味しくて食べ過ぎてしまったほどで、エリオットやアルスも絶賛していた。
ギギーの養母は家事を一切しないひとだった。掃除や料理はもちろん、身の回りの世話も侍女にさせていたから、貴族の夫人とはそういうものだと思っていた。
だが、レオルの母親であるヘルガは料理をする。テーブルに並んだ料理の半分は料理人が作ったものだったが、残りの半分はヘルガの手料理と聞いた。ヘルガは料理をするだけでなく、お菓子も作るし、自分でお茶も淹れる。使用人は最低限しか雇っていないと言っていたので、身の回りのことも自分でしているのかもしれない。
「レオルのお母さん、すごく料理が上手なんだね。すごく美味しかった……」
「そうか、それはよかった」
「ねえ、レオル……先生のところに行くの、別の日にしたほうがいい?」
夕食の時間は和やかに過ぎていったが、レオルとオリヴァーの会話は一切なかったことが気にかかっていた。
ギギーとレオルはオリヴァーの書斎に向かっている途中だったが、先ほどからずっとレオルの表情が硬くこわばっている。ギギーの問いかけにあいまいな笑みを浮かべたレオルは、「寄り道をしてもいいか?」と言って、近くにあったドアを指差した。
そこは書庫だった。昼間、屋敷の中を案内されたときにも一度入っている。天井まで届く背の高い書棚が壁を埋め尽くし、部屋の中にずらりと規則正しく書棚が並んでいた。窓際にはちいさな丸いテーブルとソファがひとつ置かれている。
部屋の中に一歩足を踏み入れると古い本の匂いがして、自然と視線が本の背を追いかけてしまった。奥の棚に並ぶのは医学書。料理の本もあれば、歴史や物語の本もあった。片隅にある子ども向けの本は幼いレオルが読んでいたものだろうか。
レオルのあとをついて歩き、レオルが窓際のソファに座ったのを見て、ギギーも隣に腰を下ろした。
「俺の母は、平民なんだ」
なんとなく、そんな気がしていた。レオルの母親が作る料理は、ギギーの本当の母親の料理に似ていたから。どこか雰囲気も似ている気がする。
「母は昔、スタンレイ家の本邸で侍女として働いていたんだ。父親……俺の本当の父親に見初められ、俺を身ごもった。だが、父親にはすでに妻も子もいた。……身重の母は、屋敷を追い出された」
つらそうな顔のレオルを見ていると、「無理しなくていいよ」と言いたくなったが、レオルは意を決してギギーに打ち明けようとしている。レオルが話をしたいのなら、その気持ちを尊重したかった。
「スタンレイ家の近くでは母の悪いうわさが流れ、部屋を貸してもらえなかったそうだ。母はなじみのない遠くの町まで移動して俺を生み、ひとりで育ててくれた。俺が赤ん坊のうちはまともに働けず、父親が渡した手切れ金は家賃や食費で底をついた。俺を育てるために母親は相当な苦労していたはずだが、いま思えばそれを俺に悟られないようにしていた。昼間の仕事中は俺を遊びに行かせて、夜は俺が寝ているあいだに内職をして、苦労している姿を俺に見せないようにしていた。疲れた顔など少しも見せず、俺が家に帰ってくると、いつも笑顔で出迎えてくれた」
そこでレオルは一度話すのを止め、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。またゆっくりと吐き出してから、続きを話しはじめる。
「……その日、母は朝から顔色が悪かった。俺が仕事を休んだほうがいいと言っても聞かず、大丈夫だと笑っていた。そうして母は、町に迷い込んだ魔物から逃げ遅れて……命を落としかけた」
そのときのことを思い出したのか、遠くを見ていたレオルの顔がますます青ざめていく。血管が浮くほどに強くこぶしを握り締め、彼方を睨みつける瞳は怒りで染まり、悔しさが色濃く滲む。
大切なひとが苦しんでいるのに、なにもできない。そういう悔しさをギギーも知っているから、少しはレオルの気持ちがわかった。
きつく握られたレオルの手を包むようにして、そっと手を載せる。わずかにレオルの力が抜けたのを感じた。
「治療に光の魔法石を使わせてもらい母は助かったが、左脚が……動かなくなった。母を支えてくれたのは、母が入院していた診療所に王都から応援でやってきた叔父だった。叔父は俺と母を自分の家に招き、母だけでなく俺の世話も焼いてくれた。そして、昨年母と結婚した。母を支えてくれたこと、母と俺になに不自由ない暮らしをさせてくれたこと、養子にしてもらい騎士学校に入学できたこと、あのひとには深く感謝している。あのひとがだれよりも母を大切に思っているのはわかっている」
そこまで言って、レオルはきつく目をつむった。
「……だが、あのひとを見るとどうしても父親を思い出してしまう。身体が勝手に動いて、目を背けてしまう。……一度だけ、父親の顔を見たことがあるが、あのひとにそっくりだった。また、母がつらい目に遭ったら、と何度も考えずにはいられなかった。母の動かない左脚を見るたびに、事故のことを思い出して怖くなる。なにもできなかった自分に、母を捨てた父親に、怒りが止まらなくなる。……あのひとが父親とは別人なのはわかっている。あのひとが母を救ってくれたのもわかっている。わかっているが……どうしてもあのひとを見ると実の父親を思い出してしまうんだ」
騎士学校への入学は、オリヴァーのいる家からレオルをさらに遠のかせた。今日までずっと。ギギーがオリヴァーに会いたいと言い出さなければ、もっと長引いていたのかもしれない。
はっと我に返ったような顔になって、レオルが苦しげに顔をゆがませた。
「すまない。おまえに家族の話なんて無神経だった」
「ううん、俺は大丈夫だよ。話してくれてありがとう。……もし、レオルがいま無理をしているのなら、本当はこの家にいたくないのなら、俺といっしょにどこかへ行こう」
レオルは、返事をしなかった。それが答えだと思った。
「でも、そうじゃないよね。本当は、ずっとこの家に帰ってきたかったんだよね?」
この家にいるとき、レオルのまなざしや目つきがやわらかくなるのを何度も見た。口元が緩むのを何度も見た。ヘルガが笑うと、レオルの表情もやわらかくなった。
「レオルはお母さんが大好きなんだね」
だから、母親を捨てた実の父親が許せない。憎い。怖い。なにもできなかった自分が許せない。また同じことが起きないかと考えてしまう。母親の動かない脚が、レオルをずっと苦しませている。
それほど苦しんでいたのに、ギギーのために養父と話をしてくれたレオルには感謝しかない。いったい、どれほどの勇気が必要だったのか。
「……ああ」
「本当は、お父さんとも仲良くなりたいんだよね?」
苦しそうな表情を浮かべても、レオルは養父に憎しみや恐怖の瞳を向けなかった。それを知っている。
「……は?」
「違った?」
「……いや…………違わない」
違わない。ちいさな声だったが、はっきりと聞こえた。
「俺は……あのひとを、憎みたくない。怖がりたくない。……父さんと呼びたい。家族に、なりたい」
「うん、レオルならできるよ」
レオルは青い瞳を見開いて数秒固まっていたが、ぐしゃりと顔をゆがめて泣きそうな顔で笑った。
「すごいな。おまえに言われると本当にできそうな気がする」
「本当に、レオルならできると思ったから言ったんだ。最初は怖いかもしれないけど、先生とたくさん話したらレオルもわかるよ。先生が、本当のお父さんとは別のひとだって。先生が、お母さんのことだけじゃなく、レオルのことも愛してるんだって」
「……なぜ、おまえはそう思えるんだ?」
「俺は知ってるからね。レオルと先生が、本当はお互いに仲良くなりたいって思ってるのを」
「知ってる?」
「夕食の前、オリヴァーさんに声をかけられたんだ。レオルのことたくさん訊かれたよ。レオルがどんなにすごいかって俺が力説したら、オリヴァーさん笑ってた。うれしそうに」
レオルは声を失っていた。
「ね、先生もレオルと仲良くなりたいって思ってるだろ」
そう言うとレオルは目を細め、ギギーの頭に触れてきた。子どもを撫でるように、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
「……おまえのそばにいると、毒気を抜かれるな」
「俺のこと能天気って言ってる?」
「そうは言ってない。――おまえに俺は救われている、と言ったんだ」
「すく……って、大げさだな」
「本気で言っているんだ。おまえのそばは、居心地が良い。おまえと話していると、心が温かくなる。おまえが底抜けにやさしいから、俺までやさしい気持ちになれる」
髪を撫でる手つきがやたらとやさしくなって、こちらに向けられるまなざしに甘さが混じる。もし、自分に兄がいたらこんな感じなのかもしれない。そう言ったらレオルを怒らせるだろうか。
「――俺は、おまえのことが好きだ」
まさか、レオルからそんなふうに言われる日が来るとは思っていなかった。レオルから睨まれていると思っていたあのころの自分に言ってやりたい。
「うん、俺もレオルが好きだよ」
素直な気持ちを口にすると、レオルはどうしてか苦笑を浮かべた。
「そうじゃない。俺は、友人として以上に、おまえのことが好きなんだ。いとしいと思っている」
「…………え?」
友人として以上。そのことばの意味を理解するのに時間がかかった。
「でも……レオルは好きな子いるんじゃ? 俺に似てるって言ってた……」
「ああ、そのことか。あのときは、おまえに気持ちを告げる気はなかったからな。……俺が好きなのは、あのときもおまえだった」
レオルが本当にギギーのことを好きなのだと理解できても、戸惑いのほうが大きかった。
「あの、俺っ……」
レオルの気持ちはうれしい。すごく、うれしい。
でも、ギギーには好きなひとがいる。ちゃんと言うべきだろうか。好きなひとがいるのだと。
「わかっている。おまえがシュレーバーを好きなことは」
「ええっ?」
「おまえは、わかりやすいからな」
まさか、エリオットに対する気持ちまで気づかれていたとは。ギギー自身でさえ、最近気づいたばかりなのに。ギギーよりもレオルのほうが先に気づいていたのかもしれない。
「すまない、困らせたな。……こうなるとわかっていたから気持ちを告げるつもりはなかったんだが、気づけば口にしていた」
あまりにもレオルがあっさり言うので、自分の勘違いなのではないかと思いそうになってしまうが、こちらに向けられる視線に微かな熱を感じた。
「俺はおまえのそばにいたい。騎士になって、おまえを守りたい。それ以上は望まない」
強い意思のこもった瞳にじっと見つめられた。
「えっと、俺もレオルのこと、守りたいって思ってるよ」
そう言うと、レオルはいっそう甘い笑みを浮かべた。ソファから腰を上げてギギーの前へ膝を突き、ギギーの手の甲にくちづけを落とす。淡い色の髪がさらりと流れて、レオルが顔を上げた途端に青い瞳がまっすぐこちらを見つめ、懇願してくる。
「ギギー。どうか、そばにいることを許してほしい」
まるで騎士が忠誠を誓うようだった。うつくしいしぐさに、思わず見惚れてしまった。不安の入り混じった視線を向けられ、はっと我に返る。
「……いまは、友達として、でいい? 俺も、レオルといっしょにいるのは楽しいよ」
それが、いまのギギーが言える精一杯の返事だった。
「ありがとう。それで十分だ」
そう言って、レオルはギギーの手を強く握り、うれしそうに笑っていた。
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