第2話「影の痕跡」



響はその夜、悪夢にうなされた。


夢の中で彼女は、見知らぬ廊下を歩いていた。壁には鏡が無数に並び、その全てに彼女の姿が映っていた。しかし、振り返ると、そこには誰もいなかった。


鏡に映る「響」は、彼女の動きとは別の動きをしていた。そして、全ての鏡の中の響が、同時に口を開いた。


『私を見つけて』


響は冷や汗をかきながら目を覚ました。デジタル時計は午前3時33分を指していた。


部屋は異様に冷えていた。呼吸が白い霧となって漂う。彼女は布団から出て、暖房のスイッチを確認したが、ちゃんとついていた。


「誰かいるの...?」


反射的にそう問いかけると、部屋の隅から微かな物音がした。かさり、かさりという、何かが這うような音。


響は凍りついた。音のした方向に目をやると——部屋の隅に置かれた鏡が、かすかに揺れていた。


その鏡に映ったのは、彼女自身の姿だった。しかし、よく見ると、鏡の中の「響」の表情がどこか違っていた。鏡の中の響の首が不自然に傾いていた。


鏡の中の響は、ゆっくりと口を開いた。しかし、彼女は喋っていない。


『助けて...』


実際の響の唇は動いていないのに、鏡の中の響は言葉を発している。鏡の中の響の顔が、徐々に別の顔に変わっていく——それは詩織の顔だった。しかし、彼女の目は空洞で、唇は裂けていた。


恐怖で身動きできない響の前で、鏡の中の「詩織」はさらに言葉を続けた。


『禁忌の...儀式が...失敗...』


突然、鏡がひびわれた。無数の亀裂が走り、ついに鏡は粉々に砕け散った。


響は悲鳴を上げた。


床に散らばった鏡の破片。その一つ一つに、詩織の目が映っていた。無数の目が響を見つめている。


その瞬間、彼女の携帯電話が鳴った。


時刻は午前3時37分。画面に表示された名前は「綾乃」だった。


「もしもし...?」響の声は震えていた。


「響さん...」電話の向こうの綾乃の声も同じように震えていた。「姉が...姉が見えるんです...」


「落ち着いて、綾乃さん。どういうことですか?」


「私の...影が...姉の形になっているんです...!壁に映る影が、私じゃない...姉の形なんです...」


響は息を呑んだ。「今どこにいるんですか?」


「自宅です...でも、怖くて...影が私を見ているんです...」


「そこを動かないでください。すぐ行きます」


響は急いで服を着替え、操霊師の道具を鞄に詰め込んだ。出かける前に、割れた鏡の破片を一欠片だけ拾い、それも鞄に入れた。


* * *


綾乃のアパートに着くと、彼女は玄関で震えていた。顔は蒼白で、目は恐怖に見開かれていた。


「響さん...あっちです...」


彼女はリビングを指差した。響が部屋に入ると、壁に長く伸びた影があった。それは確かに綾乃の影のはずだが、形は明らかに別人のものだった。


詩織の影だった。


さらに恐ろしいことに、綾乃が動いても、影はそれに合わせて動かなかった。まるで意思を持っているかのように、独自の動きをしていた。


「いつからこうなっているんですか?」響は冷静さを装いながら尋ねた。


「夢で姉を見て、目が覚めたら...」綾乃は泣きそうな顔で答えた。「もう1時間くらい...最初は気づかなかったんです。でも、トイレに行こうとしたとき、影が私についてこなくて...」


響は持参した道具を広げた。塩、銀の小刀、そして鈴。


「綾乃さん、あなたと詩織さんは双子ですか?」


綾乃は首を振った。「いいえ。姉は3つ年上です」


「では、血液型は同じですか?」


「はい...二人ともB型です」


響はうなずいた。血縁者の関係は、霊的な繋がりを強める要素の一つだった。


「何をしようとしているんですか?」綾乃が恐怖に震える声で尋ねた。


「影に憑いているものを調べます」響は答えた。「恐いですが、じっとしていてください」


響は塩で綾乃の周りに円を描き、その中に彼女を立たせた。


「この円から出ないでください。何が起きても、決して円の外に出てはいけません」


そう言って、響は壁に映る影に向き合った。


「あなたは詩織さんですか?」


影は動かなかった。しかし、綾乃が円の中で身じろぎすると、影はゆっくりと綾乃の方を向いた。まるで生きているかのように。


響は銀の小刀で自分の指先を切り、一滴の血を影に垂らした。


「私は操霊師の響。あなたが何者か答えなさい」


その瞬間、影がゆがんだ。それは人の形から徐々に崩れ、不定形な黒い塊になっていった。天井から床まで伸び、部屋を覆い尽くすほどに大きくなった。


そして、壁から滴る黒い液体が床に落ち、そこから黒い霧が立ち上った。粘り気のある黒い塊は、生き物のように蠢いていた。


綾乃が悲鳴を上げた。


霧は渦を巻きながら人の形を取り始めた。それは女性の姿だったが、顔はぼやけていて誰なのか判然としなかった。黒い液体が床を這い、響の足元に迫ってきた。


「詩織さん...?」響は問いかけた。


人影は頭を振った。そして、かすかな声が聞こえた。その声は、まるで複数の声が重なり合っているようだった。


『私は...詩織ではない...』


「では、あなたは誰?」


『私は...名前のないもの...』


響は眉をひそめた。「あなたは詩織さんに何をした?」


黒い人影はゆらゆらと揺れた。その輪郭がぼやけ、再形成を繰り返す。瞬間、人影の中に複数の顔が浮かび上がって消えた。


『彼女は...死者を束縛しようとした...禁断の儀式を...』


「束縛?」


『彼女は死者の言葉を聞き、操ろうとした...しかし、儀式は失敗した...そして私たちが...解放された...』


響は息を呑んだ。「詩織さんは操霊師になろうとしたの?」


人影は再び頭を振った。その動きは不自然で、首が折れているかのようだった。


『違う...彼女は科学者...死後の意識を証明しようとした...』


響の脳裏に、詩織のノートに書かれていた図形が浮かんだ。


「そして儀式が失敗した...?」


『はい...そして彼女は...取り込まれた...』


「取り込まれた?誰に?」


人影は響に向かって一歩踏み出した。その動きに、響は思わず後ずさった。人影が進むたびに、床に黒い足跡が残った。足跡は血のように見えた。


『世界の狭間にいるもの...彼女はその餌食になった...今も...彼女は苦しんでいる...』


「詩織さんは死んでいるんですか?」


長い沈黙の後、人影はゆっくりとうなずいた。


『彼女の体は死んだ...しかし、魂は解放されていない...永遠に...苦しみ続ける...』


「どこにあるの?彼女の遺体は?」


『見せましょう...』


突然、人影が響に向かって飛びかかってきた。響が防御のために手を上げた瞬間、人影は彼女の中に吸い込まれた。


「響さん!」綾乃が叫んだ。


響は息が詰まるような感覚に襲われた。体の中に何かが入り込み、彼女の意識を押しのけようとしている。喉が締め付けられ、肺が冷たい液体で満たされていくような感覚。皮膚の下で何かが蠢いているような感覚。


彼女はかろうじて言葉を絞り出した。


「大丈夫...です...」響は苦しみながら言った。「これは...見せようとしているだけ...」


響の視界が暗転した。そして、彼女は別の場所を見ていた。


それは古びた倉庫のような建物だった。錆びた金属の匂いと、何かが腐敗する甘ったるい臭いが混ざり合っていた。薄暗い地下室で、床には血で描かれた複雑な図形が広がっていた。部屋の中央には、石でできた祭壇のようなものがあった。壁には奇妙な文字と、人の形に似た黒ずんだシミが無数に広がっていた。


そこに横たわっていたのは、詩織だった。彼女は動かなかった。目は開いていたが、瞳孔は開ききっていた。口からは黒い液体が溢れ出ていた。


周囲には黒いローブを着た数人の人影があった。彼女らは詩織の周りを囲み、何かを唱えていた。その声は響の頭の中で反響した。


『門を開け、死の彼方から知識を得よ。この生贄に代えて、秘密を明かせ』


突然、祭壇から黒い霧が立ち上った。霧は徐々に人の形になっていった——それは詩織と瓜二つの姿だった。


しかし、その「詩織」の顔は歪んでいた。口が耳まで裂け、目には瞳がなかった。


『失敗だ...』黒いローブの一人が言った。『これは彼女ではない』


『でも何かが出てきた』別の声が言った。『何を召喚してしまったんだ...』


その瞬間、歪んだ「詩織」が動いた。ゆっくりと四肢を伸ばし、祭壇から立ち上がる。


『お前たちが...呼んだ...』声は詩織のものに似ていたが、どこか空洞で、エコーがかかったように聞こえた。


黒いローブたちが後退した。


『逃げられない』歪んだ詩織が言った。


突然、彼女の体から黒い触手のようなものが伸び、最も近くにいた人物に絡みついた。男は悲鳴を上げたが、すぐに黒い塊に飲み込まれていった。


残りの者たちは逃げようとしたが、黒い影が部屋中に広がり、全員を捕らえた。


悲鳴と共に、彼らの体が歪み、引き伸ばされていく。


彼らの魂が吸い取られていくのが見えた。


そして、詩織の本当の体は——祭壇の上で、空虚な目で天井を見つめていた。


もはや魂のない抜け殻だった。


* * *


響は現実に引き戻された。彼女は床に倒れていた。全身が冷や汗で濡れ、震えが止まらない。


「響さん!大丈夫ですか?」綾乃が円の中から叫んだ。


響はゆっくりと起き上がった。「見ました...」彼女は震える声で言った。「詩織さんが何をしようとしていたのか...」


「姉は...?」


「科学的に死後の世界を証明しようとしていたんです。研究のために」響は言葉を選びながら説明した。「でも、彼女は禁忌に触れた...死者の世界と生者の世界の境界を壊そうとした...」


「そんな...姉が...?」


「儀式は失敗しました。しかし、それは別のものを呼び寄せてしまった...詩織さんの姿をした何か...」


その時、部屋の温度が急激に下がった。壁の影が再び動き始めた。


「円から出ないで!」響は綾乃に叫んだ。


影は床から壁へ、そして天井へと這い上がっていった。やがて部屋全体が黒い影に覆われ始めた。


「それが...姉なの...?」綾乃は震える声で聞いた。


響は首を振った。「違います。それは...呼んではいけないもの...別の世界からの来訪者です」


黒い影が天井から滴り落ち、人の形になり始めた。それは詩織の顔をしていたが、体は黒い霧のようだった。


『響...』それは呼びかけた。『私を...助けて...』


「詩織さん?本当にあなたなの?」


『はい...私です...私を...解放して...』


響は眉をひそめた。何かがおかしかった。この声は先ほど見た光景の中の「何か」の声と同じだった。


「あなたは詩織さんじゃない」響は言い切った。「詩織さんの姿をした何か...」


『違う...私は詩織...』


「証明してください」


『私は...』


そこで「それ」は言葉に詰まった。そして、その表情が変わった。


口が異様に広がり、耳まで裂けた。目は真っ黒になり、体から黒い触手のようなものが伸びてきた。


『賢いね...響...』


その声は、もはや詩織のものではなかった。複数の声が重なり合っていた。


「あなたは詩織さんをどこに連れて行った?彼女の魂はどこ?」


『彼女はもういない...彼女の魂は私たちのものだ...』


「彼女を返して!」


『できない...彼女は門を開けた...そして、私たちを招き入れた...』


黒い人影がゆっくりと響に近づいてきた。


『あなたも...操霊師...私たちはあなたが欲しい...』


響は後退した。操霊師の力を狙っているのか?


「何のために?」


『あなたの力で...私たちは完全に...この世界に来られる...』


響は理解した。詩織は最初の犠牲者だったが、彼らの本当の目的は操霊師の力だったのだ。


「私は渡さない」響は言い切った。


『選択肢はない...』


人影は突然、響に向かって飛びかかってきた。響は咄嗟に鈴を鳴らした。澄んだ音色が部屋に響き、人影は一瞬ひるんだ。


響はその隙に、持参していた鏡の破片を取り出し、人影に向かって投げつけた。


「お前の姿を映し返す!」


破片が人影に当たると、それは悲鳴を上げた。黒い霧が揺らめき、分散し始めた。


響はさらに塩を投げかけ、呪文を唱えた。


「此の世ならざるもの、還りなさい!」


部屋を揺るがすような悲鳴が響き、黒い霧は部屋の隅へと後退していった。


しかし、完全に消えることはなかった。


「帰れ!」響は再び叫んだ。


『帰らない...私たちはすでに...ここにいる...』


黒い霧は部屋の隅で渦を巻き、そして——壁に吸い込まれるように消えた。


部屋に静寂が戻った。


「行った...?」綾乃が恐る恐る尋ねた。


響はゆっくりと首を振った。「いいえ...ただ隠れただけです」


「姉は...?」


響は悲しげに綾乃を見た。「詩織さんは...もういません。あの"何か"に取り込まれてしまったんです」


綾乃の目から涙があふれた。「そんな...」


響は続けた。「でも、まだ全てが終わったわけではありません。詩織さんの魂を取り戻せるかもしれない」


「どうすれば?」


「あの儀式が行われた場所を探します。そこに手がかりがあるはずです」


響は先ほど見た光景を思い出そうとした。倉庫のような建物...どこにあるのだろう?


「綾乃さん、詩織さんが最後に行ったという名古屋...彼女は具体的にどこに行ったと言っていましたか?」


綾乃は記憶を辿るように目を閉じた。「具体的には言っていませんでした。ただ、古い研究施設で実験があると...」


「その施設の名前は?」


「確か..."イノセンス研究所"だったと思います」


響はその名を聞いて身震いした。それは操霊師の世界でも知られる名前だった。死後の意識を研究するという触れ込みで、実際は禁忌の研究を行っていた施設。


「綾乃さん、今夜はここに泊まらないほうがいい。あなたの影はまだ詩織さんに繋がっている。それは"彼ら"があなたを見つける手がかりになります」


「どうすれば...?」


「私の寺に来てください。そこなら保護の結界があります」


二人が立ち上がろうとした瞬間、部屋の電灯が点滅し、消えた。


暗闇の中、壁に無数の細長い影が浮かび上がった。人の形をしているが、手足が異様に長く、指が鋭く尖っていた。


『逃げられない...』壁から囁き声が聞こえた。『あなたたちはすでに...印をつけられている...』


響は綾乃の手を掴み、急いで部屋を出た。


玄関に走る途中、響は壁に映る自分の影が、どこか不自然に動いているのに気づいた。


自分の影が、自分に追いついてこようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る