俺らまだ旅の途中

おいしいお肉

俺らまだ旅の途中

 スポンジみてえだな、と思った。

 おじさん、おっさん。やがて俺もこれになる。うん、順当にポケモンみたいに進化して、これになんのかあ。ちょっと嫌かもしれない。

 項垂れるおっさん、それを数段上から見下ろす俺。下の下、坂道に沿ってギッチリと詰め込まれた店と、清々しいまでの風の吹き抜ける姿。海がよく見えた。潮の匂いと、くたびれたおっさんの汗がダブって、コンフリクトする。

「もう降ります?」

「いや、こ、こ、まできて……、あきらめたく、ない」

 おっさん——美綴さんの上擦った哀れな声が聞こえる。どれだけ拭っても拭っても、美綴さんの体は至る所から汗が生まれては消えていく。さっき飲んだポカリも、多分麦茶も。ミネラルって儚いんだな、と馬鹿みたいに考える。

「空原くんはすごいね、こんなに登ったのに全然……息も上がらないんだ」

「運動好きなんで」

 学生の時も、どこの部員が足りないとかでよく助っ人に駆り出されてたし。どっかに所属するって、なんとなく肌に合わなくてどこにも入部はしなかったけど。

「はぁ……いいね」

 美綴さんは恨みがましく呟いた。俺の足を見て、自分の足を見比べる。もやしと大根…とまでは言わないけど人参とピーマンぐらいの差はありそうだった。美綴さんはそらもう真っ白いし、棒切れみたいに細いから、見るからに運動不足って感じに見えた。

「休憩します?ちょうど、あの辺に休むとこありますよ」

 俺の指さす先、階段は随分と上まで続いている。美綴さんと同じように、この辺で息も絶え絶えになる人が多いのだろう。初夏のじっとりとした暑さと、海風と、太陽の照り返しのおかげでじわじわと体力を削られるし、そこに無理な負荷の運動が加わればまあこうなるのも想定内だろう。美綴さん、どう見ても運動とかしなさそうだし。いや、まあこれは俺の憶測だけど。俺はてんで、この人のことを知らない。

「抹茶飲みましょうよ、なんか江ノ島っぽいですし」

「しらすじゃないかい?」

「俺、そんなにしらす好きじゃない。あれ目がいっぱいあって気持ち悪い」

 海老の頭とかマグロのお造りのコラーゲンでブヨブヨになった目玉とか、ホタルイカとか、とにかく目玉ついてるやつはなんか気持ち悪くて嫌いだ。じろじろ見られているような気分がするし、なんか責められているような気がする。

「僕は好きだけどなあ」

「へぇ、美綴さんにも好きなものあるんだ」

「失礼だな、僕をなんだと思ってるんだ」

「運動不足」

 俺がそう言うと、美綴さんはぐっと押し黙って唇を引き結んだ。気弱そうな外見のわりに、ヤンキーの兄ちゃんみたいな凶暴な目をしていた。怖い、と思う。突いたら弾ける爆弾みたいだ。おれのキャップと、Tシャツの間、無防備な首がちりちりと焼けて赤くなる。首を日焼けしないようにって持ってきたタオルは、早々に美綴さんの日除になった。この人、本当に何にも準備してこないから、びっくりした。暑いなか歩くって言ったのに、やたらと舐め腐ったシティーボーイみたいな格好(親父がおしゃれを茶化して言うやつ)してるなんて、ほんとに馬鹿みたいだ。美綴さんと俺は、全然違う。当たり前だけど。

 美綴さんは俺よりずっと背が低いし、色も生っちろくて、インドア派って感じだったし、俺は俺で部屋でじっとしてるのは性に合わないから休みは大体どっか出かけてる。行くのだってその時々で変わる。友達の趣味に付き合って釣り堀行ったり、映画見たり、車を変わるがわる運転して、よくわかんない名前の蕎麦屋行ったりとかした。なんか黒い蕎麦はわさびいっぱい溶かすと美味い。中学時代の友達、ケンちゃんは本当に多趣味だ。まあ酒飲むのは……しばらくいいや、こないだやらかしたばっかだし。

 

 店の中はこぢんまりとした和室、って感じで井草の匂いがした。俺たちはテーブル席にしたけど、どうやら奥にはお座敷の席もあるようだった。子供の走る音と、家族連れの賑やかな声が聞こえてくる。

 俺は飲みかけの抹茶オレを啜りながら、ぼんやりと窓の外を見ている美綴さんに声をかけた。

「美綴さん、もっと運動した方がいいんじゃない。今は良くてもそのうちブヨブヨ肉がついてくるよ。うちの親父みたいに」

「怖いこと言わないでくれよ」

 美綴さんは甘ったるい抹茶は飲む気にならなかったらしく、キンキンに冷えたアイスコーヒーをずるずると啜っている。いかにもまずそう、みたいな飲み方だった。そういうへの字に唇を結んだ姿は、幼馴染の好きだった作品の著者近影みたいだった。冷房のガンガンに効いた室内で飲む冷たい飲み物は、俺たちの胃をダイレクトに痛めつける。でもうまいからやめらんない。

 窓の外にはさっきまでの俺たちと同じように汗みずくの可哀想な、いやある意味では幸せそうなひとたちが通り過ぎていく。ここで涼んだ後、店出た瞬間に暑さにうんざりするんだろうなってわかってるけど、俺たちは目先の涼にとらわれてしまった。抹茶うまい、江ノ島関係あるかと言われると首を傾げるけど。机の上に置かれたお冷まで汗かいてコースターをビチャビチャにする。

「上の方まで行ったらどうします?」

「うーん……僕はそこまで辿り着ける気がしないよ」

「日が落ちたら行けるんじゃないすか。灯台は夜もやってるから、まあ、ゆっくり行きましょうよ」

 ほんとは早く上に行きたいけど、同行者の体調には気を配んないといけない。俺は人よりずっと身体が頑丈だから、ふつうのひととか俺より小さい人とかの基準がよくわからない。そんで前付き合ってた子を怒らせて、最悪の空気になったことを思い出す。あれは、ほんとにもう思い出したくない。責められて、謝って謝って、相手の機嫌が治るまで感情の捌け口にされるのはもうごめんだ。失敗から学ぶ、でも俺は失敗するまでそれに気づけない。だからだめなのか、俺は。

 最近、ちょっとでも深く考え始めると、頭の中全部が途端に暗い方に暗い方に落ちていく。俺はそれがなすすべもなく悲しい。これは多分、おれが色んなものを見てこなかったからある今な訳で。どうにかなんのかな、俺。俺ってか、俺の人生。

「暗い顔すんなよ、若いンだから」

 美綴さんがふ、と笑った。ほんと、カビが生えるんじゃないかってくらい陰気な笑いかただった。

「言うほど若くないよ、俺」

 なんか、たぶんだけど俺が高校生とか大学生なら、もっと許されたんだろうなと思う。若いから、まだ世間を知らないから、これからだよ、なんて言いながら擦り潰してきた可能性を今からどうやって取り返すんだろう。俺にはそれがわからない。

「そう言ってるうちは、まだまだだよ」

「……無駄に年上風吹かせんなって、おっさん」

 俺たちは、まだ坂の途中。上に行くまではもう少しだけ猶予がある。急ぐ旅路でもあるまいし、無駄話に時間を費やしたっていいだろ。多分。死んだらそれまで。

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