第13話

顔を上げた先、化粧室の鏡の中の自分と目を合わせてふと思い浮かんだのは先の辺美さんの表情だった。


取り繕った笑顔と声と、自分が何処から誰に見られているかを完全に意識しているかのような振る舞いは、自分の中に根付くそれと似ているような気がして、脳裏に濃く焼き付いていた。


シンパシーと言うには一方的過ぎて、エンパシーと言うには主観的過ぎるような感覚。


カメラや画面の向こう側で行われるような、いわば精神的武装を、仕事外で態々やるその意義を、多分私は知っている。


……まあ、そう見えただけだろうけれど。




手を洗い、湧き出た気掛かりを正に水に流した後、出口の全身鏡で軽く身なりを整えて化粧室を出ると、曲がった先で誰かにぶつかった。


ごめんなさい、と慌てて顔を上げれば、正しくさっきまで頭の中に浮かんでいた顔があって、余分に驚いてしまう。



「っ、辺美さん?!」


「はは、そんなに驚く?」



しまった、と思った。曲がり角で人とぶつかった程度でこんなに驚いている人を見れば誰だって不思議に思うだろう。


辺美さんのことを考えていたから、なんてバレたら変な気があるのだと思われるかもしれない。不快な思いをさせたり……



「ねえ、この後会おうよ」


「……へ?」



前言撤回。撤回というか、一旦回収しよう。


どうやら私の憶測は明後日の方向へ大きく外れたらしい。


壁に手を着いた彼に行く手を遮られ、尚且つ覗き込むように近づかれる。動いた拍子に香るウッディーな甘い香りが鼻腔から脳を直接刺激してくるような居心地の悪さに加えて、恐ろしいほどに色気を放つ表情、声、雰囲気。全てに私の中の何かが狂わされてしまう。



「会う、っていうのは、その」


「うん、そう」



ホテル、行かない?


耳元で低く透き通った甘い声が響いて、アルコールに焚き付けられた本能が熱を帯びていく。けれど同時に、逆立つ理性が氷のように冷気を放ち、思考は後者の方を持った。



「行きません。そういうの、結構なので」



頭半分高い彼の目を見て、包み隠さず嫌悪感を示しながら拒絶の意思を伝える。


この手の誘いはよくあるけれど、芽生えかけていた同情心と、媚薬のような彼の全要素に邪魔をされ、惑わされそうになってしまった事が不覚だったけれど、本来私がそれを受け入れる事なんてあり得ないのだから、悪意は然程なかった。



「ええ、俺じゃダメ?」



驚いたようなフリをしながら、見当違いな受け取り方をする辺美さんが拗ねたような表情で訊いてくる。けれど、そもそもそういう問題ではない。



「そういう問題じゃなくて……」


「じゃなくて?」


「……その」



しかも、私も私でいつもならこの辺りで「今日は予定があるので」なんて言ってにこりと躱すのに、どうしてかこんなにも歯切れが悪くなってしまう。


夜にクラブで異性と出会う、という場面において、一般的に彼のこの行動は特段おかしな事ではないのだろう。


断る理由なんて、自己保身と貞操観念的な問題以外の何者でもないし、彼自身に非があるとすれば、私を選んだ事、ただそれだけだ。


けれど、客観的に考えても正当であろうこの意見を彼に伝えたとして、悪くはなっても絶対に良くはならない。


少しふやけた脳みそを、ありったけの力で豪速回転させる。



「つ、付き合ってない人とそういうのは無理です!」



そして、豪速回転する脳で導き出した言い訳は哀れなほどに陳腐なものだった。けれども時すでに遅し。


私、もう帰らないとなので!と勢いよく宣言して彼の腕の下を潜り抜け、足早に去りながら、挙動がおかしくなってしまったことや返事を間違えたことを思い返し、溢れた羞恥に涙が込み上げる。


なんで普段通りに振る舞えなかったんだろう、と、後悔と困惑にざわつく胸を抑えながら控え室へ戻り、荷物を取った後、スタッフへの挨拶を済ませてそそくさと帰宅したのだった。





「なに、あれ」



……予想外の空振りを喰らった彼が驚きと興奮でしばらく放心状態だった事は、勿論知る由もなく。

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