第10話
大学時代、茉優來に連れて行かれたアイドルのコンサートでメンバーの1人が「後ろの方まで見えてるよ」と言っていたけれど、そんな訳がないと思っていた。見えてるって言ったってどうせ顔なんて分かりやしないのだから、と思っていた。
けれど、今ならその言葉に共感出来る気がする。
本当に、ステージからは存外よく見える。
いかにもお偉いさんらしい、質の良さそうなスーツを着て精悍な顔つきでグラスを片手に会話をする人や端の方で真剣な表情で向かい合って話をする人。恐らく仕事の話でもしているのだろう。
私のことを知らず、興味本位で視線を向けている人や「ふうん、こいつが噂の」という表情で腕を組んでこちらを見ている人なんかもいる。
もちろん、音に身を任せてダンスをする人もいれば、友人らしき数名で乾杯しながら楽しむ人も沢山いるのだけれど。
羨望、嫉妬、猜疑、それから性欲。
昔から、人の表情を読み取る能力が矢鱈と高かったものだから、ネガティブな感情もポジティブなそれも、無遠慮にぶつけられるその全てを受け止めてしまう。
張り付けた澄まし顔の奥で苦汁をなめている私に、どうか誰も気付かないようにと願いながら、今日だって目の前のターンテーブルに縋るように音楽を鳴らしているのだ。
出番が終わり、次のDJと交代してステージの奥へ下がると半田さんが待っていた。
「お疲れさまです!期待通り、とっても素敵なDJでした」
SNSで拝見した時に絶対このブランドの雰囲気と合うなって思ってたんですよ、と少し興奮気味に話す半田さん。
スーツが似合いそうな清楚であっさりとした雰囲気とは裏腹に、私のかけるようなハードな音楽を好んでよく聴くらしい。
好きな音楽と見た目のギャップがある人にはどうにも親近感を感じざるを得ない。そして、純粋に嬉しくて、思わずだらしない笑みが溢れた。
それを見た半田さんが、意外だと言わんばかりに驚いた顔をした。あ、しまった、と思った。
けれど、すぐに半田さんが「今のエトさんの顔、私が男性だったら瞬殺されてます」と、可愛らしい顔で言ってくるものだから、言っている意味はよく分からなかったけれど、なんだか心臓が擽ったくなった。
「ささ、行きましょう。みなさんお待ちかねです」
彼女に連れられてVIP席に向かう。正直、本当に気乗りがしないけれど、これも仕事、これも仕事と言い聞かせ、人見知りの私を心の奥の方にもう一度、力尽くで押し込んで封印する。
「黒瀬さん、あ、社長さんには私の方から紹介しますので、後はお任せしますね」
「分かりました。お願いします」
はああん、半田さん。心細い。弱虫がお腹の中でぐにゃぐにゃと暴れ回っているけれど、私はこいつと仲良しなので心配ご無用。どうせあとで
「ちなみに、社長さん以外にはどんな方々が?」
「さっきは確か、芸能プロダクションの社長さんとそのお連れの女性が数名、あとは今季のブランドアンバサダーに起用されている男性モデルの方がいらっしゃったと思います」
モデルと聞き、鳩尾の奥にじわりと鈍痛が湧く。
その類の人種と仕事を共にすることは頻繁にあるものの、てんで良い印象がなかった。
ある時は男性モデルにトイレに連れ込まれそうになり、ある時は女性モデルに無理矢理酒を煽られ(後に聞いた話、私を潰して醜態を晒させようとしていたとか)、またある時は私が売春をしている、という噂が出版社界隈に一瞬広まり、真偽を問われるまでの事件に巻き込まれてたりもした。
初対面の女性モデルに冷たい対応をされることはザラにあって、男性、時には女性から執拗な夜の誘いを受ける事だって日常茶飯事。
とは言え皆
精神を削ぎ落とされようが、身体に傷を負おうが、痛みなんてとうに感じなくなっている。顔や耳、指先に怪我さえないのなら仕事はこなせるのだから、それ以外の不幸なんて私にとっては全て些末な事だった。
けれど今日は特に、いつものように音楽界隈の知人がいる訳でもないから、普段以上に自衛をしなければいけない。
どうにかして身を守る方法を探さなければいけないなと考えながら階段を登るうちに、とうとう着いてしまったそのフロア。
数メール奥に進んだ先、メインフロアが見下ろせる吹き抜けの手前に位置するボックス席で7人の団体がテーブルを囲み、シャンパングラスを片手に談笑している様子が視界に入った。
あちらです、と半田さんが私を通してくれる。
「黒瀬さん、お疲れさまです!」
「ああ、半田ちゃん」
「紹介しますね。こちら、今日のスペシャルゲストとして出演頂いたエトさんです」
初めまして、と挨拶を交わす。
「そしてこちらが、日本法人の社長の黒瀬さんです」
黒瀬透です。と、半田さんに紹介された男性が私に向かって丁寧に会釈をする。
ブランドのイメージ的に、もっと派手で体育会系の身体つきをした男性が出てくるものだとばかり思っていたけれど、なんとも清潔感溢れる、黒縁眼鏡と顎髭がよく似合った細身の男性で驚いた。背も頭ひとつほど高いから、見上げるような形をとる。
しかも有名ブランドの社長という職位、社会的にも高い地位の人間にも関わらず何とも腰が低く、朗らかな笑顔を絶やさないところにとても好感を覚えた。
彼は39歳でこの会社の社長職に着いてから7年目、今年で46歳になると言っていた。そして20代や30代の頃はこういう場へよく遊びに行っていて、今でも音楽は大好きだという。
そこからまた少しだけ、最近好きな音楽や買ったレコードの話をした後、そうだ、と言った彼は他の面々の方へ向き直り、顔だけをこちらに向けた。
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