第42話:行くぞ、炎の中へ!

通路の先に、白い光が見えた。

ダンジョンの壁を這う青いラインとは違う。外の、自然の光だ。


駆ける俺の上から、異形が落ちてくる。反射で、拳を叩き込んだ。

回復の力ごと、ぶつける。


黒い霧が霧散し、ヤモリじみた肉塊が跳ねるように崩れた。

死んだかは分からない。ただ、進むしかない。


……ここまで来て、ようやく自分の力が分かってきた。


ひとつ。回復の力。痛みは消えないが、即座に治せる。

もうひとつ。身体能力の異常な向上。この世界の重力が小さいのかもしれない。


そしてもうひとつ。回復を、殴る力に込めることができる。

異形に対しては、それが効く。

たぶん、俺の中にある神の力だ。ショロトルの導き――というやつ。


あと、心波。神殿の連中は識心、巨人たちはマナスと呼ぶものを使った通信とか色々。

俺はどうも、それを使えるし、干渉もされにくいらしい。


……多分それが、俺が選ばれた理由だ。


分からないことだらけだ。でも、いま必要なのは答えじゃない。

ユリカを止める。


――行くしかない。


『待って』


声がした。


『大切なのは巫女アマヤだよ』


「――彩菜!?」


俺は思わず叫んでいた。

現実世界の、俺の幼馴染の声だったのだ。


でも、すぐに気がつく。

違う――


『あなたの力は、水の巫女を救うためにある』


ショロトルだ。

水の神殿の接点で会ったとき、水の神は彩菜の姿をしていた。


『アマヤを守って。それがあなたの使命。世界のためなの』


「……それを決めるのは、俺だ」


強烈な違和感を、そのまま口にした。

直後、不安で胸が暗くなる。

正体不明の焦りを感じて、俺は冷や汗を流した。


だが、その一言で幻聴は去った。

少しめまいが残っているが、もう大丈夫だ。

俺はダンジョンの出口に向かって、再び駆け出した。


出口の階段は崩れていたが、土を踏みしめて、俺はよじ登った。

頬に風が当たる。冷たかった。朝が来ている――それだけで、胸がいっぱいになった。


だが、その感傷はすぐに吹き飛んだ。

眼の前に広がっていたのは、崩れた街だった。


めくれあがった地面、落ちた瓦礫、異形と巨人がもみ合う音。

地面には、誰かの腕が転がっていた。そこに、黒いものがまとわりついている。

……闇の残り火。わずかに残った生命を吸っているとでもいうのだろうか。


俺は、素早く周囲に目を走らせた。


いた――


ユリカだ。


空だ。まるで、炎が彼女を持ち上げているかのようだった。

でもその炎は、俺の知っているユリカの炎じゃない。

赤に、黒が混じっている。憎しみと、呪いのような色だ。


その姿を見ただけで、心臓が冷えた。

それでも、俺は叫んだ。


「ユリカ!」


心波も込めた。俺の声が届いてほしかった。


ユリカの肩が揺れた。見た、俺の方を。


――届いた。


だが次の瞬間、ユリカの視線は俺から逸れた。

いきなり、急降下する。

空気が裂けるような音が響き、地面が爆ぜた。瓦礫が宙に舞う。


「ちくしょう!」


俺は走った。


――あそこに、ヴォルトがいるんだ。


ユリカはヴォルトを追っていた。

影が煙のように立ちのぼり、赤黒い炎が吹き上がる。


足に力を込めた。空気を切って、飛んだ。

身体が勝手に動いていた。理屈なんて、もうとっくに投げ捨てている。


瓦礫を跳び越え、戦場に足を踏み入れる。


ヴォルトがいた。


黒いローブに身を包み、影をまといながら後ずさっている。

その顔には、明らかな恐怖が浮かんでいた。


……怯えてる。あいつが?


視界の端で、黒い塊が転がっているのが見えた。


――何だ、あれ。


大型の獣――熊ほどもある虎だ。だが、全身が煤けたように黒い。

地に倒れて動かず、首筋から黒い霧のようなものが漏れていた。


その近くに、もう一体いた。

唸るような低い音を漏らしながら、立ち止まっている。


ユリカの姿は――上だ。また空にいる。


獣が、その巨体からは信じられない速度で、ヴォルトに飛びかかった。

同時に、瓦礫の影から二人の黒装束が飛び出す。


ヴォルトは影を壁のように吹き上げながら後退した。

しかし、黒装束はその壁を簡単に突破する。


これまであの影に触れた誰もが、動けなくなったり、

ひどいときは異形になってしまっていた。


――あいつらは平気なのか。何者だ!?


小柄な方が刃一閃。ヴォルトの影を切り裂き、胸を裂いた。

宙に、赤い血が尾を引く。


そこへ、黒い獣が襲いかかる。

ヴォルトはなんとかかわしたが、完全に体勢を崩している。


――押している。倒せるかもしれない。


そう思った。そのとき――


ユリカが降りてきた。


その姿は、もはや人間のそれではなかった。

まるで落ちてくる火球だ。


炎をまとった少女が、黒装束とヴォルトの間に突っ込んだ。

地面がめくれ、爆風が吹きすさぶ。


黒装束のうち、大柄な方は吹き飛ばされて瓦礫の中へ沈んだ。

小柄な方は身を捻って巧みに着地したが、服に炎が燃え移り地面を転がった。


ヴォルトは、一瞬の隙を逃さなかった。

影の中へと溶け、逃げた。闇が煙幕のようにその退路を隠す。


俺は、足を止めた。


追うべきか――


『奴の目的は巫女アマヤだよ。追って、ナレ』


頭の中で、彩菜=ショロトルの声が響いた。

俺は歯を食いしばって、湧き起こる不安に耐えた。


――いや、ユリカだ。このまま放ってはおけない。


獣の咆哮――悲鳴だ。

ユリカの炎が、黒い獣を焼いている。


――見境がない。敵味方の区別がついていない。


ユリカは、地面に低く構えている黒装束に向けて歩いていく。

よく見れば、黒装束はまだ幼い少女だった。


「ユリカ、やめろ!!」


叫びながら走った。


少女の前に、飛び込む。

視界が赤に染まり、熱が全身を焼いた。


ユリカが、俺を見ていた。


鎧が燃え、服が燃え、肉が燃える。

再生はする、しかし激痛は消えない。

あまりの苦痛に声を出すこともできない。


しかし、俺は倒れなかった。

足を踏ん張り、ユリカの目を見つめ返した。


なんの表情もない。

その黒い瞳に、俺は写っていない。


『ユリカ、俺だ。ナレだ』


心波で呼びかけた――呼びかけ続けた。

でも、なんの反応もない。


〈恋人と過ごす1分と、ストーブに手を押し付けた1分は、まったく違う〉


現実世界で、有名な作家が言った言葉だ。

正にその通り、俺は激痛の中で永遠とも思える時間の中にいた。


『ユリカ、ユリカ』


呼びかける。

それしかできない。

なんて無力なんだ――


炎が揺らいだ。


――ユリカ?


ついに届いたかと思った。

でも、違った。


十手のような武器が炎を薙ぎ、凄まじい一撃がユリカを吹き飛ばした。


「いい加減にしろ、ユリカ!」


スラリとした長身の女が、両手に武器を構え直す。

体にぴたりと沿う白いスーツは、返り血と泥で汚れていた。

上昇気流に逆立つ黒いボブカットの下には、両目にアイパッチ。


「助かったよ……キーマン……」


俺はそれだけ言うと、その場に膝をついた。

傷はみるみる治る。しかし、激痛で疲労した心は解放されて弛緩していた。


もう動きたくない――


やる気を、欠片も掘り起こすことができない。

この場で寝てしまいたかった。


「ユリカを戻すには、お前の力が必要だ」


キーマンの声は低く、鋼の芯が通っていた。


「お前に魔眼を使っている余裕はない。勝手に立ち上がってこい」


命令でも、励ましでもない。

それは、俺の責任だった。


でも――


心がついてこない。

足に力が入らない。


「…………、…………。」


その時、後ろに気配がした。


「助けてくれて、ありがとう」


顔を上げる。少女が立っていた。

黒装束、顔に煤。全身ボロボロ。

細く小さく儚げな姿――だが、眼差しはまるで虎のようだった。


「……いや……」


頭が考えることを止めていて、

言うべき言葉が思い浮かばなかった。


少女はじっと俺を見つめて、それから言った。


「お前には役目があるんだろ」


少女は俺の頬に手を当てた。


「あの炎を耐え切ったお前だ。立てないわけがない」


ユリカが立ち上がるのが見えた。

燃えている木材の炎が伸びて、炎の巫女を包み込む。

後頭部に、直視できないほどの光が出現する。


「……あんた、俺のことなんか知らないくせに……」


少女は少し首を傾けた。

その黒い瞳が、深みを増したように見えた。


「きっと知ることになる。そんな予感がするよ」


少女は立ち上がり、背を向けた。


「クガツ、もたもたするな。追うぞ」


少女は、かき消すようにいなくなった。

もうひとりの黒装束が後を追っていく。

ヴォルトが消えた方だ。


熱い風が吹きつけてきた。


『ナレ、立って』


頭の中で、彩菜の声。


「ちくしょうめ……悔しいが、その声は効くよ」


俺は、歯を食いしばって立ち上がった。


「……俺は役に立つのが好きなんだ」


キーマンがアイパッチを外して、俺を振り返った。


「前にやったな。ユリカの精神に入る。物理じゃ届かない」


「ユリカを、呼び戻す……」


「そういうことだ」


ユリカが手を上げた。

莫大な炎が集まり、巨大な火球が生まれる。


「行くぞ」


俺は拳を握った。焼け焦げた息を吸って、駆け出す。


――もう一度、あの炎の中へ。

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