お母さんはアイドルになりたい

1103教室最後尾左端

お母さんはアイドルを目指す

希美のぞみ。大事な話があるの」


 とある休日の夕食後のことだ。母は目の前に私を座らせてそういった。

 リビングの椅子に姿勢正しく座る母は、いつになく神妙な顔つきである。めったに見せない表情だけに、自然と私の背筋も伸びる。


「どうしたの。お母さん」


 私が問い返すと、母はふっと息を吐き、瞬きよりも一瞬長く目を閉じた後、意を決したように口を開いた。


「お母さんね、アイドルを目指すことにしたわ」

「寝言は寝て言え」


 あまりに突拍子のない発言に、唯一の肉親に向けるにしては冷た過ぎる声がでた。


「希美が何を心配しているかはわかってる。年齢、でしょ?」

「違う。そんなもの一要素に過ぎない」

「でも大丈夫。安心して。受けるオーディション、年齢不問だから」

「そういう問題じゃない」


 私の母、秋田瑞稀みずきは今年34歳。「歳の割には」という枕詞さえあれば、身内の贔屓目を抜きにしても確かに整った顔立ちをしているとは思う。


 そうはいっても、地元商店街のたこ焼き屋のおっちゃんが「お姉さん可愛いから一個サービスね!」と言ってくれる程度だ。おっちゃんが私には二個サービスしてくれることから考えても、井の中の蛙にしてもやや小ぶりであると言わざるをえない。


 そんな母が「アイドルになりたい」だなんて。身の程知らずにも限度というものがある。


「ねえ、お母さん。考え直してよ。流石に無理だって」

「いいじゃない。挑戦するくらい。アイドルになるの、夢だったんだから」


 私の切実な訴えに、母は少し寂しそうに笑った。そこには年相応、もしかするとそれ以上の哀愁が滲み出ていた。


 母が私を産んだのは19歳のときだ。いわゆるデキ婚で、当時入ったばかりの専門学校もすぐに中退していた。そして不幸なことに、夫、つまり私の父親は、私が産まれるのとほぼ同じ時期にバイクの事故で亡くなっている。


 それから、母は女手ひとつで私のことを育ててくれた。その苦労は今の私には想像もできないものだ。


 きっと、友達との思い出も、思い描いていたキャリアも、憧れていた夢も、全部我慢して、家事と仕事と私の世話を背負ってくれてきたのだろう。そのことについては感謝してもしきれない。


「アイドルになりたい」なんて突拍子もない話も、私が高校生になったことで少し気が楽になったから出てきたのかもしれない。


 だとしたら、失われた自分の青春を取り戻そうとする母のことを、私は止める気になれなかった。


「はぁ……まあいいや。そもそも私に止める権利ないし。オーディション頑張ってね」

「ええ。一緒に頑張りましょう」


 ……?

 なんかすごい嫌な一言が聞こえた気がする。


「お母さん、一緒にってどういうこと?」


 私がそういうと、母は悪びれもなく言った。


「ああ、希美の分も申込みしておいたから。オーディション」

「こんのクソババァ!!」


 15年間分の恩と感謝は全て吹き飛び、腹の底から飛び出た罵声がリビングに響いた。


「なんてことしてくれてんだ!」

「だって、一人で受けるの心細いじゃない」

「何言ってんだ!いい大人が!」

「でも、希美も好きでしょ? アイドル」

「それとこれとは話が違うだろ!」

「大丈夫よ。希美は私に似てカワイイから」

「合格するかどうかの心配なんかしていない!」

「でもオリジナルは超えられない宿命よね。私だけ受かっちゃっても恨まないでね」

「頼む!噛み合え!会話!」


 私の悲痛な抗議は小一時間続いたが、母の意向が覆ることはなく、だいいち、書類は既に提出されてしまっていたため、取り返しはつかなかった。


 こうして、私は母に巻き込まれる形でオーディションを受ける羽目になったのだった。


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