第三十七

 遺都で起こっていた、心臓を抜き去られた遺体の事件。

 浩の皇宮で起こった類似の事件では、窈王妃の体に取り憑き、乗っ取った九尾狐――胡墨紫のしわざだった。

 

 手口の類似性から、遺都での事件も、胡墨紫の仕業であろうと思っていた。

 紫霞院で見た影が師の言う通り、霊力を持った狐だというのならば。

 旣魄の推測が当たっていたとも言えそうだが……何か腑に落ちない。

 

「ところで旣魄、何か……変わったことはありませんか?」


 垂柳の口調は、問うものではあったが、ほとんど確信の響きだった。

 

「貴方が寝込んだのは、玄冥山から帰ってきたあとに半月。そして今度が3日。……短くなってはおりますが、これまでこんなこと、なかったでしょう? あの頭のおかし……常に高みを目指していらっしゃる易王殿下のしご……熱心なご指導を受けても、翌日には何事もなかったようになさっていた、貴方が」

「それは――そうですが」


 軍中に紛れていた旣魄を見いだし、(半ば無理矢理)弟子にした易王。

 あまりの激しさ、厳しさ故に実子を全て修練中に殺してしまったという狂人である。垂柳が現れ、旣魄を引き取ろうという時には、相当渋ったと聞く。普段の易王を知っていれば、垂柳が殺されなかったのが不思議な位だ。それ程――話の通じない男なのである。


 その後も易王は垂柳の元にたまに現れると、旣魄を連れ出し、それは「熱心に指導」してくれた。――垂柳が言っているのは、そのときのことである。


 年を重ねるにつれて、酷いことにはならなくなっていったが。


 旣魄以外にあんな修練をさせたら、耐えきれずに命を落として当然である。

 しかし、あの男にはどうにもそれが理解出来ないらしかった。

 つまり。

 なぜ、そんなにも弱く在れるのか、と。

 弱さこそ罪、とさえ本気で考えているだろう。――旣魄には易王について、気がかりな事があった。


「貴方の“気”が、これまでと違うのです」

「……気、ですか」


 垂柳は頷いた。


「……わたくし如きに仰りたくないのでしたら、それでも宜しいのです……」


 そんな風に言って、また涙を目の縁に滲ませる。


「師傅……」

 

 正直、旣魄にも良く分からなかった。

 変わったことはいくつかある。前にも増して夜目が利くようになった。のみならず、……これまでには見えていなかったものまで、視えるようになった。先日の、冰心という妓女が纏っていた黒い影のように。


 そう告げれば、垂柳は物憂げに目を伏せた。それから、ぽつりと。


「――琵琶の音が」


 師の零した言葉に、旣魄は目元を僅かに震わせた。


「貴方の周りで、時折のです。貴方の気と共鳴するかのように。……心当たりはございませんか?」


 父皇のところで気絶した時、旣魄は母后の遺品というを渡された。琵琶の面盤に描かれた満月に触れた瞬間、脳裏に何かが過り、意識を失ったのである。紫霞院でも、その場に残されたが突如ひとりでに鳴り、意識を失った。

 思えば、玄冥山でも、旣魄は紫霞院で出くわしたあの男の前で一度気絶している。あの時も、あの男は件の白琵琶を携えていた。


 これが、一体何を意味するか。


 自問する旣魄の傍らを、銀の蝶が儚く揺れて消えた。

 これも、半月の眠りから目覚めた後から、目にするようになった――柔らかな雨のように降る月の光が中に閃く――銀の蝶。その羽の、たおやかにはためく様も、その繊細な紋様も、夢で風にそよいでいた銀の葉に走る葉脈の透ける様に、よく似ていた。


 銀の桂樹の根元に腰掛けていた少女の、古色を帯びつつも澄んだ眼差しがふと思い出された。


――母君は、貴方と同じように、異民族出身で、銀の髪に銀の瞳、銀の爪をされていたと伺いました。

――なれば母君は、恐らく“魄”一族のお方であらせられましょう。

――の子か。……似ている。

――よく見れば、三十年程前に見た――月寵子の姫の面影がある。――あの姫は惜しいことをしました。とんでもなく腕の立つ同族の護士が常に傍に居た故、手出し出来なかったのです。

――座れ。……ぞ。

――貴方の――旣魄の名は、母君がお決めになったと伺いました。その名は、月相を表す“旣死魄”と“旣生魄”から取ったのでしょう。

――消える前に。“私が出来るのはここまで。もし、それ以上を望むのなら、――王を捜せ”と。

 

 幾つもの声が。

 谺のように交錯して脳裏に響き合う。

 

「……旣魄?」


 黙り込んだ旣魄に、垂柳が首を傾げる。

 しかし、旣魄は答えられなかった。


――生きた月寵子など、どこかに身を隠している魄の王しか残って居らぬと聞いておりましたが……。


 あの九尾狐はそう言っていた。


――満ち欠けを繰り返す月は、死と再生の象徴。即ち、内に死生を秘めた旣魄の名は、一族の復活への祈りを込めた名なのではないでしょうか。


 燭台の炎を映していた金緑の瞳。

 炎の揺らめきに煌めいていた、あの銀の睫毛。

 彼女と対したあの夜、思わず息を呑んでしまった己は、どんな顔をしていたか。


――まだ完全には目覚めていないのですね……。それ故、あなた様は魄のことも、月寵子のことも、何もご存知ない。


 脳裏に過る金緑が、銀に染まる。

 と、同時に、またも過る――あどけなくも、降り積もる“時”を、そこに閉じ込めたようなの銀の瞳。


 それは、予感。

 しかし、殆ど確信してもいた。


 曰く、黒琵琶は、一族が積み上げた知識――即ち、術理と法則を司る。

 主として一族の男が継ぐ。

 また曰く、白琵琶は、一族が歩んできた記憶――即ち、血と魂の痕跡を司る。

 主として一族の女が継ぐ。

 

 黒琵琶は理知を修め、白琵琶は情意を知る。


 なれど。

 月寵子はふたつながらそれを領する。そして――

 

 頭の中に勝手に浮かんでくるそれらを、旣魄は確かに知っていた。

 

 のだ。


 堰を切ったように、流れ込んでくる。


 その中に、呑み込まれそうになる。

 かつて、あれほど求めていた筈の。


 他の誰ともちがう、異貌の故を。

 己は一体何者なのかという、存在の輪郭を。

 

 けれども今は何故か、知ることを恐れている自分に気付く。

 その片鱗を垣間見たことで、却って己というものが見えなくなってしまったような。


 否、そんなものではない。

 この、恐れは――もたらされた大量の記憶とともに、ある真実に、思い至ってしまったことのそれだ。


 一体、何故――今の今まで、気付かずにいたのだろう。


 急に喉の渇きを覚えた。冷えた指先からは、ほとんど感覚が失われていた。


「旣魄。どうなさったのです?」


 蒼ざめた顔で黙り込む旣魄に、垂柳が問う。

 応じて師を見上げた旣魄の表情は、こんな時でもごく落ち着いていた。しかし、その目に僅かに過った、みちうしなった者のように頼りなげな感情いろを、垂柳は見逃さなかった。


「……旣魄……?」


 旣魄と垂柳の間を横切る蝶の羽から、銀の鱗粉が柔らかに舞い落ちた。 

 燭台に灯る火が、静かに揺らめいた。

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