無邪気な花弁



“うーん、どうやらきみは本当に別の世界からきちゃったみたいだね”


 スティロを手に入れてから数日、帰りたいと焦る私に博士は"とくにかく調査させて!"と、私の世界のことをあれやこれやと質問し続けた。星の成り立ちから人類の誕生、科学の発展スピードからそのレベルまで。異なる部分をとことん洗い出していった。

 スティロは彼女の言語を"西暦"と、私のそれに変換した。どの世界にも宗教というものは存在し、神と崇められるような存在があるのだろう。博士の話によると、もちろんイエスという名ではないらしいが、それでも紀元がその人物の誕生とともに設定されているところを見ると、歴史の辿った道には近しい部分もあるようだった。

 大きく異なっているのは星の存在、人体の進化、それによる歴史の変動。声がないことで発展しなかったものは多く、電話を代表に一部存在しないものがある。


 そのうえ、ぺリウスには戦争という歴史がない。


 嘘を言え──と思ったが、どうやらそれは冗談でもないらしく。以前、博士が話していた穏やかな性格──つまりは民族性──が影響してのことらしい。領土や資源は平等に分け与えられ、宗教は自由。土地によってもちろん多少、文化は異なるらしいが、思考能力の長けた彼らがその違いで争いを起こすことはない。なにを持ってそれに至ったのか、理解できるということだろう。

 争いはゼロでないにしろ、武器を持ち出し何かを奪い合うなど愚かだと、博士はそう言う。


“きみのいた場所がどこなのかも重要だけど、原因がほしいところだね…なにか覚えていることはないかい?なんでも話してみてよ!”

“ええと──自宅の部屋で文愛と…”

 私はその瞬間ときのことを思い出しながら、スティロに語りかけた。

“アヤメ?どんな人だい?なるべく細かく──些細なことでもヒントはあるかもしれないよ”

 スティロから顔をあげた博士の、追及したいという熱いまなざし。めずらしいと思いつつ、私もそれに応えたいと必死で記憶をかき分けた。

“私と同い年の女性で…数年前に大学で出会いました。身長は博士よりも低くて、平均と比べてもだいぶ小柄。とにかく優しい子で、人を傷つけることができないような──それから温かい飲み物が好きで、苦手なものは…なんだったかな…乗り物とか自分の意見を”

“セイ”

“はい?”

“恋人がいるならもっと早く教えてよ!”

“え?…あ、あのっ”

“忘れたのかい?ぼくはきみとは違う世界の人間だ。きみの様子を見れば、そんなことはすぐわかるさ!”

 博士が鼻で息をスンッと吹いた。その得意げな顔とニッとあがった口角で、私は気づいた。

“博士!もしかして最初から──!”

“ああ、名前が出てきたところで検討はついていたさ!そんなに瞳を揺らしていたらね?まさかきみがこんなに愛情深いとは思わなかったけど”

 プッと音が聞こえてきそうな勢いで博士は目を細め、肩を揺らした。まんまと引っかかってしまった。あのまなざしはフェイクだったのか…。

 だが不思議だ。なぜ、なんだ?

“どうしてわかったんです?性別も伝えていないのに。それに女性と分かったらなおさら、その選択肢は狭まりませんか?”

 最初に告げたのは名前だけだ。性別が分からない以上、恋人と仮定するのは難しい。博士だって、私が女性であるということはさすがに分かっているはず。

 なぜ、そうだと断定できたのだろう。

“性別?”

“いや、だって。私は女ですし、文愛も…”

「?……!!」

 博士は眉間にしわを寄せて頭を傾けると、こめかみのあたりを少し叩いてから何かをひらめいたようにスティロに目線を戻した。

“そういうことか!なるほど、おもしろいね!”

“はい?”

“セイ!あとでちょっと外に出よう!”

 博士が何を理解して何をおもしろいと思ったのか、話があちらこちらに散らばって分かったものではないが、まあいいだろうと。私はそう思うことにした。そもそも、この話は重要なことではないのだから。

“あ、それで、文愛と自宅で過ごしていたときに、急に身体から力が抜けて──”

 私はあちらでの最後の記憶を拙い文章でとにかく伝え続けた。身体が浮きあがるような、裂かれるような。そんなばかげた感覚を必死で文字に起こして。

“引き裂かれそう、か……そのときアヤメはなにか、コエ?にはしていなかった?きみの様子を見ていたはずだろ?”

“…なにか口にしていましたけど、それがなんだったかは…たぶん私のことを呼んでいたんだと思います”

“きみを?なんて?”

“?…星青セイって、いつもそう呼ばれてましたけど…”

“──なるほど。他になにか感じるものは?”

 呼び方まで知りたいなんて、またからかって──そうは思ったが、博士の問いに答えることが今の私には最優先だ。くだらないことに躓いている場合ではない。

“勘違いかもしれないですけど、頭の中で何か響くような感じがして…”

“響く?それはどんな音だい?”

“どんな……儚いのに力強くて、凛とした──粉雪のような音色でした”

“……こっちにきたときはどうだい?”

 東の方角にある生い茂った森。一か月ほど前、そこで目を覚ました。

 感じたのは河のせせらぎに雨の温度。それから──。

“ウタ?”

“はい。楽器ではなく、声を使って旋…メロディを奏でることを私の世界ではそう呼ぶんです”

“…そのウタは、きみの知っているものかい?”

“わかりません…悲しいような、あたたかいような…聞き覚えはないですけど、やけに懐かしい感じもした…”

“……そうか。なんでもいい、ほかにも思い出せることがあったら伝えてよ”

 透き通るような博士の目は、今度こそ偽物ではなかった。

 私はその勢いに押され、記憶の扉をこじ開けようと必死で頭の中を弄っていく。手のひらを刺激した生ぬるい水滴、固まった身体。首を撫でる草の感触に、河のゆく音。それから悲しい旋律に──。


 待て。


 悲しい旋律…?


 それを奏でたのは──。


“声…?”

“うん、おかしいね”


 ここに声は存在しない。


 なのにどうして。

 あれが楽器だったとでも?


 いいや、あれはたしかに声であり、歌だ。


 どうしてここでそんなものが──。


“ありえない…”

“そう、ありえないんだ。でも、きみがここにいること自体がそうなんだから、一旦は飲み込むしかないね”


 博士にそう言われても、頭の中が勝手に考えを張り巡らせる。

 あの森はたしかにここであることは間違いない。それにいくら意識が混同していたとしても、あれを奏でたのが文愛の声でないことはわかる。彼女の歌声はあんなに重苦しく、思わず息を呑むようなものではない。


 それに最後にささやかれたあれだって──。


“……博士、おかしいです”

“うんうん、こんなところでウタが聞こえるはずは”

“違います”

“ん?”

“ウタだけじゃない…”


 そうだ。

 すっかり忘れていた。


 私はあのとき、その旋律に意識を委ねて瞼を落とした。


 そのとき、何かささやかれたじゃないか。

 あれはたしかに声。


 ──そして言葉だ。


“言葉?だれかそこにいたのかい?”

“意識を失っていたのでなんとも…でも、気配はなかった”

“本当に聞こえたんだね?”

“ええ…でもどちらかというと”


 響いた。

 

 そういったほうが、感覚的に近いものがある。


“響くか…うーん、やけに曖昧だね…”

“すみません…”

 こんな話を信じてくれというほうがおかしい。

 声のない世界で聞こえた歌──種なしで花が咲くようなものだ。

“ちなみに、そのコエはなんて?”

“それは思い出せません…でも、”


 やさしい言葉だった。


 全身の力をすべて預け、ゆっくりと意識を手放せるような。

 覚えていたいと、そう思った言葉だったのに──。


“きっと、そのかけらの中にひとつでもヒントはあるさ!”

“……博士、ありがとう”

“なんだい?そんな顔して…照れくさいなぁ!それよりセイ、いい考えがあるんだ!”

“考え?”

“さっき外に出ようって言っただろ?そのついでに、資料館に行ってみない?”

“資料館ですか?”

“東の方にあるんだ!このあたりの土地の歴史資料が置いてあるはずだから、なにか分かるかもしれないし……あと、その横においしいパステナタの店があってね?”

“博士”

“な、なんだい?”

“目的はそっちですね?”


 ──きみはいつからここの人になったんだい?!


 そう云った博士にふっと笑いながら、私はまたありがとうと視線でそう伝えたのだった──。




    *********




 博士が貸してくれた薄いカーディガンを羽織って町を歩く。

 その様子にはまだ見慣れず、あちこちを目で追いかけてしまう。すべてが四角い屋根づくりであるのは、強い雨が降らないということなのだろうか。ここに来て一か月とちょっと。にわかに降るそれを見たことはあるが、思わず駆け足になるほどの大粒に降られたことはまだない。そういえば、雨は気温が高い方がよく降るとかなんとか。

“セイ、なにをぼーっとしてるんだい?”

“あ、いえ…ちょっと、天気のことを”

“??? そんなことより見てごらんよ!”

“…あの二人がどうかしたんですか?”

“いいからいいから、まあ見ててよ”

 博士の指差すほうに目をやると、そこにはカフェのテラスで目線を交わす女性たち。ただ静かにお茶を飲んでいるようにしか見えないが、きっとあれでも"会話"はできているのだろうな。

“あっ”

“おやおや、お熱いねぇ”

 チュッと。

 顔が近づいてなにをするのかと思えば、一方の頬に降るのは小鳥のようなそれ。そして丸いテーブルのうえで二人の指が絡まっていく。

“あぁ、なるほど”

“ぼくの言いたいことがわかったかい?”

“ええ、あのとき外に出ようって云ったのはそういうことだったんですね”

“そう、ここでは恋愛に性別は関係ないのさ!”

 博士が自慢げに胸を張る。

 私の普通とここのそれは違う。そんな単純なことをすっかり忘れていた。文愛の性別が女性だと分かっても、博士が彼女を私の恋人と断定できたのは、この世界ではきっとそれが普通だから。現に目の前の二人だって、隠そうとする気などまったくなく、むしろ見てくれと言わんばかりの相愛ぶりだった。

“でも驚いたな、きみの世界では愛を性別で制御しろっていうのかい?”

“まあ、そうですね”

“そんなの無理さ。だってそうだろ?愛は枯れることのない欲だ。誰かにそうしろと言われてできるもんじゃない”

“──そのとおりです”

 博士の考えることはもっともだ。なにひとつ、間違ってなどいない。おかしいのは私のいた場所のほうだ。

“セイ?…もしかして、きみとアヤメは…結ばれないのかい?”

“…法律上は難しいですね。私のいる国はまだいいですけど、それ自体を罪だと、そう問われる国もありますし…”

“へぇ…ひとの世界に文句をつけるつもりはないけど、変わっているね?”

“まったくです。それでも、私は文愛と一緒にいるつもりですけど”

“きみは間違ってないよ。──欲する気持ちなんて、どうこうできるものじゃない”

 博士の意見は正しい。だれに気持ちが揺れるかなんて、そんなことは分かりはしないのだ。講義で偶然隣に座った文愛に微笑みかけらたとき。初めてそのちいさな手に触れたときも、どこまでもやさしい泣き顔を目にしたときも。波風は突然、水面を吹きつけ私を揺さぶった。予想できるわけもなければコントロールできるはずもない。

 だが、不思議だ。

“博士って…そういう相手がいるんですか?”

 私もそういったことに明るいほうではないが、博士だってそんなふうには微塵も見えない。

“ぼく?色恋には興味がないなあ!でも好きな花木ならたくさんあるよ?”

 とんちんかんな答えに私はやれやれと頭を振った。

“まあ、博士は期待を裏切らないから好きですよ”

“セイ、困るよ…”

「?」

 どうしよう、と。まるでなにかを迫られたときのように、博士はうつむいて指の先をこねこねし始める。

“ぼくに恋はしないでくれ…きみの長い髪は黒くてきれいだし、きりっとした顔立ちも嫌いじゃないけど…”

「はあ?」

 思わず、声が前に飛び出す。

“ここだけの話、セイはぼくのタイプじゃないんだ…だから”

“ご心配なく。私も、なので”

“ええ?!ぼくは、こんなに天才なのに?!”

「…ふっ…はは、あっはっは!」

“ど、どうして笑うんだい?”

 いったいその自信の源はどこにあるんだ。それに、私がこんなに怪訝な顔をしているというのに、お得意の思考能力とやらはどこへやってしまったんだか。

 私はここにきてから初めて声をあげて笑ったような気がした。

“あ、セイ、ついたよ!”

 そんなふうにしているうちにたどり着いたのは、たくさんの車──らしきもの──が並ぶ駐車場のような場所。

 それは私の知るものよりもやや小さめで、丸みを帯びカプセルのような形をしている。三輪式でドアは背面にひとつだけ。中にはバスのような通路があり、大体が四人乗りだ。天井部にパネルがついているところを見ると、ソーラーカーのようなものなのだろうか。

“ここでオキヘルマを借りていこう、資料館はちょっと遠いんだ”

“光で動く乗り物ですか?”

“見た目で分かるのかい?まったくきみは恐ろしいね…充電すれば電力でも走るよ!ちょっと待ってて、手続きしてくる!”

 なるほど、ここはレンタカーショップというわけか。そして車はオキヘルマ──覚えておこう。一面それしかないところを見ると、そもそもガソリンで走るものはここには存在しないのか?たしかに、排気ガスのようなものは感じていない気もする。そう思うとどこか空気も澄んでいるような──。

 めいっぱい身体に空気を取り込む自分の姿が、店のガラスに映る。我ながら単純だな、と乾いた笑いをひとつ吐くと、博士のあとを追って私も店の中に入った。

 ソファに腰を下ろし彼女の戻りを待っているあいだ、店の扉は何度も開いた。閉まっているときのほうが少ないのではないかと思うほど。そういえばどの家にも駐車場らしきものは見当たらなかったように思う。レンタルが基本なのだろうか?

 私の横に腰をかけた幼い子どもが二人。じゃれあってソファを揺らしている。歳は小学生くらいと、もう一人はまだ幼稚園児ほど。姉妹だろうか。私の持っているスティロよりもずいぶん小さいものでやりとりをしている。まるで卵の形をしたおもちゃのような。

“やあ、待たせたね!あの黄色いのに乗ろう!”

“あぁ、おかえりなさい”

“…きみ、もしかして”

“違います。私は子どもは対象じゃないですから。”

 きっぱりと、手のひらを前に押し出して。

“ふふっ、冗談じゃないか!”

“博士の冗談、わかりづらいんですよ…小さいのもあるんだなって見てただけです”

“スティロかい?小型の端末も近年増えてきたんだよ。若い世代は大人よりもよく使うから”

“そうなんですか?”

 思考能力──それが進化のすえ備わったのであれば、幼い世代のほうがその技量は高くなり、それを使う頻度は減ると思うのだが。

“技術が進化してしまったからね。頼り切って能力はだんだんと薄れているんだよ。ぼくも昔のひとに比べたらたいしたものではないんだ。この先の世代はもっとそうなるだろうね…”

 博士が年寄りのような顔を見せる。

 なるほど。あちらでいうスマホ依存のようなものか。

“まったく進化してるんだが退化してるんだか…人間とは愚かなものさ!選択肢が間違っていたんだ。遥か昔の人々は──っと、くだらない話をしちゃったね…時間もかかるし出よう!”

 そのとおりだと私は思う。辞書を引くこともなくなれば、漢字だって忘れがち。脳に記憶するよりもメモに記録することのほうが近頃は断然多い。昔の人よりも、頭脳は柔軟さを失っているだろう。


 何かを得れば何かを失くす──結局、釣り合いのいいところを見つけられずに片方に寄ってしまうのが人間の愚かさで、それはどこの世界も変わらないのだなと、私はスティロに浮かぶ博士の文字を見てそう思った。




    *********



 

“博士…博士…ルーズ博士!”

“あ、あぁ、ごめん!なんだい?”


 初めて博士の名前を呼んだ。それは彼女が資料館に着いてからというもの、まったくまわりが見えていないからだ。


 町を出てから二時間ほど。車──オキヘルマを飛ばして、見えてきた大きな建物はガラス張りのドーム式。そこに道は直に繋がり、ぶつかる!と思った瞬間吸い込まれるように両の扉が開いた。

 博士の運転は予想どおりにはちゃめちゃで、気を保てと言われるほうが難しいだろう。途中でそれを手放した私は、あっという間にここに着いていたというわけだ。


 一階には広いカフェテリアがあり、エレベーターのようなもので二階にあがると、やっとお目当ての場所へとたどり着いた。


 そこまではよかったのだ。


“ひとりで楽しまないでくださいよ…私はこの文字、読めないんですから”

“あぁ!そうだったね、ごめんごめん!”


 エレベーターを降りてから、おもちゃを与えられた子どものように目を輝かせて博士は駆け回り、そこら中の展示に食い入ってしまった。私のに反応すらしない。

 白衣のポケットでひとり震えているそれを勝手に取り出して、博士と展示の見つめ合いを遮るように画面を割り込ませてやると、やっと意識が戻ってきたようだ。


“久しぶりだからわくわくしちゃって!”

“はぁ…。で、これはなんですか?”

“これはぺリウスが誕生してからこの町ができるまでの地形の様子だね!昔、隕石がこの地に──”

 目の前のジオラマを博士がことこまかに説明してくれる。だが、スティロに浮かぶそれは、ジオラマの横に掲示された解説文とは比べ物にならない量だった。

“──で、──なったんだけど、でも──”

“……博士”

“ん?”

“ここに来る必要ありました?”

“……。で、でも!うちにはこんな愛らしいジオラマはないし!”

“愛らしい…?”

 これのどこにそこまでのロマンを感じられるのか分かったものではないが、きっと私がここの生まれであったなら、そう感じることも容易なのだろう──見渡す限り、誰も足を止めてはいないが。

“それはそうと、どうして"星の誕生から"なんです?普通はこの土地の成り立ちとかじゃ?”

“ああ、それはね!ペリウスで初めて人類が誕生した土地だからさ!”

“初めて?”

“うん、三大町さんだいちょうといってね?実は歴史的に結構有名な町なんだ!祖先となった動物が二本足で歩き始めたのがだいたい700万年ほど前かな?この町と、ここから1,000km行った町と、さらに300km…”

“ちょ、ちょっと待ってください”

“どうしたんだい?”

“もしかして……国もないんですか?”

 博士の腕を無理やり引っ張るように、途中でそれを止めに入る。

 さも当たり前のように云うが、なぜ、町単位なのだ。

“クニ?…あぁ、そういえばアヤメの話をしているときにそんな単語が出てきたね”

 博士が顎に手を当て、それが何かを必死に考えている。いくら天才と言っても、概念としてないものを推測することは難しいだろう。

“国は──なんていえばいいんだろうな…複数の町が集まって都市ができて、それをさらに集め一つの塊として統治するんです”

“それをクニと呼ぶのかい?どれくらいあるんだいそれは”

“200…くらいだったと思いますけど”

“200?じゃあ覚えるのは簡単そうだね!でもそれだけの数、統治する代表のような人が存在するということかい?”

“ええ。国ごとにルールも文化も異なるので…”

“──だからきみの世界では争いが起きると、そういうことだね?”

 逆に言えば、この世界にそれが起きないのは、国というひとつの団体がないからなのか。ということは統治する人もそれに同じく──。

“統治者が一人だからね、争いは起きないさ”

「?」

“スティロは反応してないのにどうしてって?きみの考えていることはもうお見通しさ!ここでは天王家と呼ばれる一族がある。まあ、王様みたいなものかな?彼らがすべての町を統治しているよ”

“なるほど…国にはそれぞれ名前があるんですけど、町にも名称はあるんですか?”

“あるよ!この町はルピナス。それから他の二大町はイリオとガセミ”

“ルピナス…”

“ルピナスは歴史が長いからね!何度ここにきてもたのしくなっちゃうよ!ぼくはあっちを見てるから、また分からないときは呼んでくれ!”

 そう云って博士は反対側の展示へ、風のように駆けて行った──。




    *********



 

“そろそろ出ましょうか──って、博士…博士!”

“うっ…もうちょっとだけ…”


 早一時間ほどが経ち、展示はおおかた見終えることができた。

 都度博士に解説してもらいながら知るここの事情は、似つかわしくもやはり自分の知っているものではなく、ヒントになるというよりは情報量が増えたことで逆に混乱しそうなくらいだ。

 だが、知らないことを知る面白さというものはある。いくつになっても、この感覚は変わらないのだな、と。駄々をこねる博士を見て私は思う。

“なんか買って帰るんですよね?パステ…”

“そうだ!パステナタ!セイ!早く行こう!!”

“……調子いいんですから…”

 すっかり身体の向きが変わった博士に肩を落としながら、飼い主を引っ張る散歩中の犬のようなその背を追う。

 来たときと同じくエレベーターに乗るのかと思いきや、博士の足は脇の階段へと向いた。

“あれ、乗らないんですか?”

“階段にも少し展示があるから見て帰ろうよ!”

“あぁ、本当だ”

 壁一面に貼られた資料の数々。よくもまあここまで集めたものだと感心すらしてしまう。見ている側が飽きないようよく工夫されたそれは、博士でなくとも足を止めてしまうだろう。

「これは…貝…?」

 展示の真ん中に、群を抜いて目を引くものがあった。

 二枚のものや巻かれたもの。色も形も、その模様や艶すらも様々であるのに、同じひとつの仲間たち。幼少期、海を訪れるたび砂浜で探したものだと、つい美しいそれらに懐かしさを覚え、階段を下りる足がおぼつかなくなった。

“博士、これはなんですか?”

“ああそれ?オストゥリカだよ?”

“オストゥ…個人を特定するための鈴ってやつですか?”

“うん、いまは鈴になったけど、遠い昔は貝殻を使っていたそうだよ”

“へー、貝ですか”

“きれいだろ?環境汚染が進んだ今じゃはいかないよ…なんだか見てたらお腹が空いてきちゃった、早く行こう!”

 ふと思い出す。いつだったか、水族館に二人で出かけたときのこと。お寿司が食べたいと、文愛も同じようなことを言っていた。今頃、あの子はどうしているだろう。私が居なくなって、ひとり寂しい夜を過ごしているだろうか。

 胸の奥がヒリヒリと痛む。

 もし、彼女が涙を流して、それを──。

“セイ?どうしたんだい?”

“…ああ、いえ”

“お店はあっちだよ!”

 博士に手を引かれて現実に戻される。どんなに考えたところで、ここには文愛はいないのだ。早く彼女のもとに帰りたい。それは彼女のためで、私のためだ。ここにいる時間が長くなればなるだけきっと彼女は──。

 焦る気持ちが不安を募らせる。資料館にくればなにか分かるかと思ったが、ヒントになるようなものはなさそうだ。前を楽しそうに行く博士に、何か気づいたことでもあるといいのだが。

“ほらあそこ!”

「あぁ、パステナタって──」

 エッグタルトのことか。主食の大半がお菓子ばかりな博士のことだから、きっとスイーツかなにかだとは思ってはいたが、たしかに好きそうだ。ガラスケースに並んだそれに張り付いて、どれにしようとラムネ玉のように目を透かせるその姿は子どもそのもの。

 少し前にお風呂上がりの博士を見たことがある。白衣とめがねを着けていなければ、その顔立ちは称賛されるほどのものだ。それなのに、いま目の前にあるものはエッグタルトひとつにだらりと溶け切って、なんとも情けない。

「でも、なんか憎めないんだよなこの人」

“……セイ、忘れたのかい?きみのスティロが音声も読み取れるってこと”

「あ。」

“失礼なことを考えてたね?もうきみには買ってあげないよ?!”

“あはは…ごめんなさい”

 もう!と。博士が頬を風船のように膨らませる。

 あぶないあぶない。うかつに独り言も言えないな──と、両腕を宙に伸ばして身体を反らしたときだった。


「──あれ…」


 その森が、目の前に広がったのは。


 間違いない。私がここに落ちたときの、あの森だ。


 どうして、こんなところに──。


“セイ、セイ…どうしたんだい?”

“あ、あの…これ、いつから…”

“ん?ずっとあったじゃないか?…あぁ、きみはここに来るまでずっと寝ていたから気づかなかった?”

 そうだ、私はこの施設に着く少し前まで、博士のやんちゃな運転に気を失っていたのだ。それにあのときはまだ陽がやや高かった。それがドームに反射し、気づけなかったのか──。

「?……!」

“ああそうか!きみが目を覚ました場所だったね!あそこのアスプロドはとっても可憐で…焼けるまで時間があるし、ちょっと会ってきたらどうだい?”

 博士が私の背をトンッと押す。その勢いで身体がバランスを崩し、躓くような形で一歩を踏み出した。

 どうしよう──そう思ったが、振り向いた先のウィンクにまた背中を押され、私はその森に足を向けた──。




    *********




「…密林というよりは植物園だな……」


 博士と別れ、森に足を踏み入れてから数分。ポケットのスティロが震えると"ちょっと頼みすぎちゃったみたいだ!まだ焼けないから、セイ!ゆっくりね!"と呆れた表示。なんとも彼女らしいそれにひとり笑いを落とすと、もう少し奥に進んでみようとひらけている方を目指した。


 この森は不思議だ。


 普通、見ず知らずの土地で森なんぞ入るのは、多かれ少なかれ不安があるもの。田舎育ちではない私にはなおのこと。


 しかしなぜだろう。この森は、あたたかい。


 気温が、ということではない。なにか、そんな雰囲気があるのだ。ほっと一息ついてしまうような、そんな空気感が。

 にきて初めて目に映った風景だからなのだろうか。足が草をザッと鳴らすたびに、心が落ち着いていくのを感じる。


 それに、きれいなのだ。


 植物自体ではなく、森そのものが。つい独り言をぼやいてしまうほど、あの木も、そこの草花も。勝手にあちらこちらで命を燃やしているというよりは、撫でられ育ったような顔をして。


 まるで、誰かが手入れをしているようだ──。


「……そんなわけないか」

 町から離れたこんなところで、一体だれがそんなことをするというのだ。もしそんな面倒を買って出る人間がいるのなら、それはきっと──。


“ぼくのレディには会えたかい?控えめだけど、白くてとってもきれいなんだ!”


「ふっ。思ったそばから…」

 頭に浮かんでいた人がまたポケットを震わせ、大人しい森に私の声だけが響く。

 レディってなんのことだ?博士のことだから、きっと花かなにかのことを比喩しているんだろうけど…。

 それらしいものを探そうと、草を鳴らしながら顔をあちこちに向ける。もう少し手掛かりになるようなことを言ってほしいものだ。ここは森で、花なんてあちらこちらで顔を出しているし、見つけようにもどれがそれなのかわかったものではない。


 しばらく歩いてみてもそれらしいものは見当たらず、そもそもその"レディ"とやらにところでなんだというのだ。

 そう諦めようとしたとき、夕暮れの合間を縫って吹き抜けた風が、おくゆかしい香りを連れて鼻を掠めた。


「──あ。」


 風が呼ぶほうへ顔を向けると、小さな花がこちらを見つめて静かに佇んでいた。

 あれか?──そう思い近づくと、その匂いはだんだんと濃ゆいものになり、整えられたような甘い香りが森全体を包み込むようだった。

「アスプロド……なるほど…」

 アスプロとロドン…ということだろうか。薄々感じていたが、ここの言語の成り立ちは向こうにある神話の有名な国にどことなく近いものがある。

 葉の深緑に負けてしまいそうなほどに淡く白い花。小さく身を寄せ合うそれは、遠くからでは西日に染まり気づくこともできなかった。触れれば驚いてしまいそうなそれに、膝を曲げて音を立てないよう、そっと触れてみる。


 アスプロドの花は、どこか私を歓迎するように穏やかに風に揺れた。他のそれとは違う紅茶のように上品で控えめな香りがあたりを埋め尽くしていく。

 その笑みにも似た表情は、博士の云うように"可憐"であった。

 つい頬が緩みそうになるが、それではあの変わり者と同じになってしまう。私は瞳だけで返事を返すと、なんてロマンチストなことをしているんだと自分に恥ずかしくなった。


「レディねぇ…」

 博士の心を揺らす彼女としばらく戯れていると、うっすらと、本当にうっすらと。なにかが耳を撫でた感覚がした。


 風にざわめく木々たちの声。

 その中に、なにか──さらさらと、しんしんと。


 博士の彼女にさよならも言わないままに、私は立ち上がりその音の鳴るほうへ。足はどんどん速くなる。引っ張られるように、吸い込まれるように。

 一歩、また一歩と草を踏むたびに強く、大きくなるその音。

 

 心憂こころうしく寂しげであるのに、夜を差す月の筋のように力強く凛として。


 耳にしたことがあるのだ。

 これは、私があっちで最後に聞いたあの音色だ。

 

 こんなに急いては帰り道が分からなくなってしまう。それなのに、足は止まらない。

 気づけば私は腕を振る勢いで駆け、その音の正体を突き止めようと、森の深みに姿を溶かしていった。




 そして額に浮かんだ汗を風で感じたころ、私の目は瞬きを忘れてしまった。






 それは、茂みを抜けた先に立っていた彼女も同じ。







“セイ、そろそろ戻らないとパステナタが冷めちゃうよ?”


“あ、もしかしてぼくのレディとまだ遊んでるのかい?”







 そんなスティロの表示にも気づけないまま、 二つの瞳はただ、唸る夕風にそっと揺れていた──。

 


 




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