◆第25話 0.1秒前

 黒土くろつちはどたどた音を立てて駆け下り、階段の途中にいた隻海ひとみの手を取った。引き戻そうとするのを摑んで離さず、振りほどこうとしたもう一方の手もつかんだ黒土は隻海の両腕を引っ張り上げるようにして小階段を上らせた。

 舞台に戻った黒土が片方だけ離して空いた隻海の手を銀花はすかさずに取った。三人がつながる。


「死ぬなよ!」


 黒土がさっきと同じ大声で言うので、銀花たちもびくっとして揺れる。


「視力が落ちていて――」

「知るか!」

「人を殺してしまって――」

「知るか!」


 言う途中から黒土が叫んで遮る。

 顔を染めた隻海がきっ、と睨みつけた。彼女は決して弱い人間ではない。

 結んだ唇が開く。


「あなたは銀花のことだけ気にすればいい。私のことは関係ないでしょ!」

「俺は舞台の上ではまだ【お父さん】だ。【お父さん】にそう言えるのか」

「はあ? 【お父さん】は放送室の中でしょ、何で今立ってるのよ、あなたが【お父さん】ならなんで死ぬななんて言うのよ、意味わかんない」


 確かに。【お父さん】が隻海の生死を気遣う理由はすぐには思い付かない。

【お父さん】は真剣な眼差しを変えずに言う。


「消火器で殴られて死亡する間際の0.1秒で俺は思った。うっかりと間違いで死んでしまった。誤解させてしまって申し訳ない、と」

「適当なこと言わないで!」隻海が怒声を上げる。


 さすがにいい加減ではないだろうか。いや、だが。

 0.1秒の【お父さん】がこうして舞台の上にいる……。だとして、銀花にはもう言うべきことは残っていない。さっき言い尽くしたのだ。

 でも、隻海には、彼女には何かあるかもしれない。


「3か月は生き延びてくれ」


 冷静な表情のまま【お父さん】は言った。3か月というのは――黒土の余命ではないのか?  

 隻海も何か気付いたらしく。


「あなたは【お父さん】なんでしょう? 一体何のことを言ってるの?」

「0.1秒の死に際になると世界の何もかもが見通せるのさ、今までとは違う世界に見える」

 あくまで自分は【お父さん】であると言い張る。

「四十九日には、俺の冥福を祈ってくれ……、なら四十九日でいいか」

「はっきりしなさいよ」

 うーん、と唸った後。

「3か月と四十九日で」

 3か月後には黒土は死んでいる。命日から四十九日後に行う法要で私たちは何をすればいいだろう。

「……分かったわ」


 黒土の冥福を隻海は祈るだろうか。お父さんのことも祈るのだろうか。

 とにかく、黒土なのか【お父さん】のものなのか分からぬ要求を隻海は受け入れた。

 期限付き――3か月と四十九日であっても彼女は今生きているし、もう少しは生きてくれる。


 ――十分だ。今はこれ以上望むものはない。

 銀花は深くため息をついた。

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