◆第24話 小階段の途中

 最後に銀花の頬を撫でようとして止めた隻海ひとみがすっと後ろずさった。

 それから彼女は背を向ける。小さな背中だ。初めて会った時、随分昔に思えるが一昨日のことだ――慈悲深く美しい聖人のように見えた。小階段に向かう彼女の背中が離れてゆく。隻海にはきっと会えない。彼女はもう願い事をしないんじゃないだろうか。

 一緒に歌ってくれてありがとう。私のお願いは隻海にあげても構いません。いつになるか分からないけども、隻海が願い事をできますように。そう思うけど、きっと彼女は願い事をしない。

 階段を下りはじめた姿が足元から見えなくなってゆく。

 舞台の上で床の冷気が銀花を包み込む。一人残された銀花はもう何もできない。

 右手のパペタ氏もくたっとしている。ごく小さな呟き。聞こえない、もう一度お願い。


「隻海は足が速い」

 

 そうだ。彼女のおかげで銀花は生きている。だから?

 パペタ氏が言うのは……。

 ――どうやって隻海はお父さんと銀花を見つけたのだろう。

 むくり、と銀花は床から半身を上げる。そして、小階段を下りる彼女に向かって。


「隻海はどこから私たちを見てたの?」

 

 問いかける。

 謎解きの答えはもう出ているのに――。


「なんで?」

 小階段の途中で隻海は止まった――右足は下のステップに着地して、左足を一つ上のステップに残したの姿勢だ。彼女は背中のままで問いかけを返した。

 位置関係は建物に眼をやって確認するほどもないので正確に述べた。

「七夕の放課後、一人遊びしてたらお父さんが来た。舞台中央に私がいた。黒土も離々も舞台袖にいたんだ」

 だから、一体どこから隻海は駆け出したのか。魔法使いのように忽然と現れた、のではない。彼女は銀花を助けるために……。銀花を助けるために?

 銀花は問いかけを続ける。

「黒土たちよりも早く。ねえ、さっき私は見てなかったけど、隻海はどこから消火器を持って走ってきたんだろう」

 消火器は左右の舞台袖に設置されている。舞台中央に銀花とお父さん、向かって左の舞台袖に黒土たちがいた。どうやって隻海は消火器を取って駆け寄るか。

「消火器のボックスは、今は袖に片付けられた演台のすぐ傍にある」

 銀花は眼にすることができる事実を言った。

 隻海は動かず黙っている。だから今から言うことが正解だと分かってしまう。

 事実を明らかにして、胸にナイフを突き立てるような真似が本当の正解なのだろうか……。

 ただ、隠したままでは銀花は、自分が先に進めないような気がしている。自分が? 隻海が? 

 そうだ、銀花は隻海に別の未来に進んで欲しいのだ。勝手だとは分かっている。だから今、隻海の肉をえぐらなければならない。隻海のため――そう思うのは銀花自身だ。じゃあ……、やるね。


「隻海は私より早く舞台に上がっていた。でも私が来たから隠れて、私がいなくなるのを待ってたんじゃないかな。そう、待ってたんだ」

 声はなく、ため息が漏れる気配だけがした。

「天井のパイプからロープが下がっていた」

 当時の記憶を探ると普段と違う点を思い出すことができた。

 銀花はもう言うしかない。

「あなたは……」


 ――あの日、死ぬつもりだったの?


 緞帳や吊りマイクを上下させるみたいに天井のパイプはパネルで操作できる。

 七夕の放課後に銀花が見た垂れたロープは隻海が準備をしたすぐ後だったんじゃないか。


 振り返った隻海の口元に優しさがある。

 以前に見せてくれたように、ゆっくりと手をやってアイマスクをずらして外す。

 顔立ちが露わになった。

 

「ギャラリーの窓明かりで体育館全体がぼんやり輝いて見える。私もここが好きなの、銀花と同じ」


 隻海は優しく笑っている――。

 彼女が去ってゆくのを銀花はもう止めることができない。

 不意に起こした事件――お父さんが死んで、取り残され、床で寝ている銀花を隻海は憐れんで少しだけ合宿に参加してくれたに過ぎない。彼女はそもそも願い事をするつもりはなかった。

 銀花はもう何も言えずに睨みつけているだけ。

 彼女がふっと表情をなくして再び背を向ける。

 銀花は何も言えずに睨みつけているだけだ。

 行ってしまうのを止める術は、もうない。


 身体を震わせる大声が体育館の静けさを切り裂く。


「死ぬなよ!」


 銀花たちの顔が向く。

 舞台袖から飛び出した彼がそこにいた――。

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